青い狼の女10
底無しの虚無。何もない空間。
――奇妙な部屋。
果てしない闇の中で、一人の男が椅子に深く腰掛け、何やら分厚い本を読んでいる。
黒い髪。黒い瞳。黒い神官服の男。『暗夜』。
この『暗夜』が何者かは分からない。だが、高位神官の一人である事は間違いない。須く『アスクラピアの子』には敬意を払うべきである。
「……」
ロビンは口を閉ざし、暗夜が読書を終えるのを待っていた。
やがて、読書を終えた暗夜が溜め息混じりに分厚い本を閉じ、ロビンに向き直った。
「……世界の多層化を信じるか……?」
「たそうか?」
暗夜は学者肌の男だ。論理的な思考を好み、人と接するより一つの物事に没頭する事を好む。時に、その言葉は難解を通り越して意味不明ですらある。
「多層化だ。多層化。例えば……そうだな……」
暗夜は一つ頷き、手に持った分厚い本を指先で叩いた。
「……世界は幾つもの層に別れて存在している。例えば、この本のように……」
ロビンは哲学的な思考や問答を好むが、暗夜のそれは理解不能だ。難解を超えて突飛に過ぎる。
暗夜は適当に本を開き、そのページを強く叩いた。
「例えば、このページを俺たちの世界だとする。もう一枚ページを捲る。そこは同じ世界だが、ほんの少し俺たちの世界とは違う」
「す、すみません。分かりません……」
「本当に馬鹿だな、お前は……」
暗夜は、つまらなそうに溜め息を吐き、手に持った分厚い本を閉じた。
「……」
そして深く項垂れ、何も答えないロビンに険しい視線を向ける。
「……元気がない。何を気に病んでいる……」
ロビンは、自嘲の笑みを浮かべた。
「……仲間を裏切ったんですよ。家族同然の者たちです。裏切者と呼ばれています……」
「ふむ……それは、少ししんどいな……」
母の裁きを経て、ロビンは、毎日のようにこの『暗夜』に呼び出される。
少し考えて、暗夜は言った。
「己を固く保持せよ。周囲は荒れるに任せよ。お前の人間らしい過ちと人間らしい苦悩を母は見守っている」
ロビンの好きな言葉からの引用だ。
このように『暗夜』は優しい男だ。しかし、ロビンに代わって答えを教えてくれるほどは優しくない。
ロビンは言った。
「……暗夜。もう、私を呼び出すのはやめてくれませんか。今の私は、問答するような気分じゃないんですよ……」
それに対し、暗夜は心外そうに眉を寄せた。
「俺が、お前を呼び出した事は、一度もない。お前が勝手に来るんだよ」
「……」
また勝手な事を、とロビンは視線を逸らして黙り込むが、暗夜は興味深そうにロビンを見つめている。
「……確か、お前の洗礼名は『ロビン』だったな……」
「それが何か……」
「『ロビン』という名には、二つの意味がある。一つは『コマドリ』。小鳥だな。可愛いもの、愛らしいものを指す」
「……洗礼を受けた時、まだ十一歳だったので……」
当時、ロビンはザールランドでは最年少の教会騎士だった。それにちなんで『ロビン』という洗礼名を授かった。
そこで、暗夜は優しく笑う。
「もう一つの意味を教えてやろうか?」
「はあ……どちらでもいいですが、貴方はそれを言いたそうですね……」
暗夜は首を振った。
「いや、言わずにおこう。知らないままで居てほしい」
その暗夜の言葉は、ロビンには死刑宣告のように聞こえた。
◇◇
ザールランドの寺院が潰れ、二ヶ月の時が経っている。
帝国の大神官ディートハルト・ベッカーは頑なにパルマに留まり、その拠点を王宮に移す事はしない。
ルシールら修道女の猛反対もあったが、ロビンには、ディートが必要以上の結び付きを拒んでいるようにも見える。
レネ・ロビン・シュナイダーは、帝国の大神官ディートハルト・ベッカーの唯一の騎士だ。
少なくとも、表向きにはそうなっている。
そのロビンが食堂で摂る食事には、蜘蛛や蝿などの虫が入っている事が殆どだ。
「……」
昆虫食は、ムセイオンで嫌と言うほど経験している。ロビンは眉一つ動かさず完食して見せたが……
その光景を見たアシタが、ぎょっとして叫んだ。
「ちょっ、待っ……! ロビン姉ちゃん!」
「なんです、アシタ。朝から騒々しい」
「今! 今、なんか、皿の中に変なもんが見えたぞ!!」
「何もありませんよ。普通の食事です」
そのロビンとアシタに、修道女からの冷たい視線が突き刺さる。囁くように聞こえた言葉は……
……裏切者のレネ・ロビン……
……蝙蝠女……
ルシールの指示ではない。あれはあれで、一応は高位の修道女だ。こんな、つまらない嫌がらせはしない。そもそも、ロビンとは話さない。無関心を貫いている。
決戦時、寺院側に付いたロビンを見る修道女たちの視線は冷たく厳しい。
母の怒りを買った聖女と大司教がどうなったか。『招かれた』教会騎士は、ロビンを除いて全員が逆印の咎を受けた。それを思えば、この処遇は優しい方だと言うのがロビンの考えだが……
アシタが激昂して席を立った。
「お前ら! じめじめして汚えぞ!!」
そこで修道女たちは、くすくすと嘲笑って逃げてしまう。
アシタは怒鳴り散らした。
「こんな事、ディが知ったら、お前らもただじゃすまねえかんな!!」
癒者――修道女はゴミだ。分かっていた事だ。ロビンはなんとも思わない。
「アシタ、やめなさい。大した事じゃありませんよ」
口ではそう言うロビンだったが、こうした小さい嫌がらせが神経を削っているのは事実だ。
ディートから、ルシールと共に新しい教会法の制定の作成に取り掛かるように言われているが、草案の作成はルシールが中心となり、修道女たちがやっているようだ。ロビンに声が掛かる事はない。ロビンも進んで関わろうとはしない。
アシタが憤懣やる方ないといった様子で呟いた。
「あのおばちゃん、やり過ぎだぜ……! こんなん、ディが知ったら滅茶苦茶にキレるぞ……」
ロビンは、ぼんやりと呟いた。
「そうでしょうか……」
『アスクラピアの子』の考えは、ロビンには理解できない。
ロビンから見た今のディートは、途轍もなく遠い存在だ。
思えば、最初からそうだった。
躊躇いなく外法を使う事もそうだが、ダンジョンでの神話種討伐も、天然痘撲滅も、あの『寺院』を叩き潰した事も全て、何もかもがロビンの思惑を超えている。
そして、得られた結果の全てが正しい。それを考えると、ロビンの存在は、ただ足を引っ張っただけだ。共にダンジョンで死線を潜り抜けた事も、今となっては疑わしい。ロビンが居らずとも、ディートはきっとなんとかしただろう。
その日、ザールランド騎士団団長のゲオルクと憲兵団団長のトビアスの二人が訪れ、開かれた会合に、ルシールが出席する事は許されなかったが、『アスクラピアの子』の考える事は、ロビンには分からない。『神の子』の思考は分からない。
ザールランド帝国は、ディートを大神官として掲げる一方で、そのディートを強く警戒している。会合の場には文官を寄越さない。あくまでも政治に関わらせるつもりはないという強い意思表示だ。
パルマの『切り取り』は、ロビンをして超人の思考だ。帝国の警戒は当然の事だ。
その会合で、ディートが持ち出した新しい制度改革案が新たな嵐を呼ぶ事になる。
医療税制、健康保険、年金制度……その全てが初めて聞く言葉ばかりだ。ロビンにとって、それは正に別世界の思考。革命的提案だった。
ゲオルクとトビアスは、ディートの提案した改革案を見て、冷たい汗を流して黙り込んだ。
ロビンは笑った。
あまりにも違う。違い過ぎる。ディートハルト・ベッカーは、存在自体がレネ・ロビン・シュナイダーとは遠すぎる。
「うふふ……ディートさん。貴方は素晴らしい。貴方は一つの道を示された。それが如何に困難を伴う道であったとしても、我々は目的に向かって進んで行ける」
理想さえあれば、人はそこに向かって進んで行ける。その『理想』を示したディートの存在は、あまりに大きい。
そして運命が訪れる。
護衛に付いているフランキーとジナの二人が、同時に鼻を鳴らした。
「……鉄の匂いがする。師匠……結構な数のお客さんが来てます……」
「そうか……」
ディートは難しい表情で頷く。
ロビンは分かっていた。
死神の手は誰も見逃さない。迎えが来たのだ。惜しむらくは、その最期が武人に相応しいものにならなそうな事だ。
アスクラピアは、復讐に加護を与える神だ。
裏切者には、裏切者に相応しい最期がある事を、レネ・ロビン・シュナイダーは知っていた。