青い狼の女9
ルシールが率いる召喚兵との不毛な戦いに終始するロビンは、今、正に寺院で行われている大量殺戮に気付かないままでいた。
聖闘士は大して強くない。だが、剣闘士が持つ盾は厄介だ。そして、ルシールを守る二体の戦乙女に関しては、徹底的に守勢に回っており、これを打ち倒す事は、ロビンをして困難だ。
戦乙女は特殊召喚兵だ。これが存在する時点で、ディートが第一階梯の神官である事に疑いを持つ者はなく、ロビンが率いる一個中隊の教会騎士たちの剣は精彩を欠いた。
そして、エリシャとディートの『神力比べ』が始まった事で、ロビンが率いる一個中隊の教会騎士たちは、ロビンの統率から外れ、各々の判断で戦場の離脱を開始した。
良くも悪くも教会騎士の信仰は厚い。聖女と『神力比べ』を始めたディートの意思は明白で、その結果を経て自らの去就を決めても遅くないと考える者が続出した。
――神の加護が強い方が勝つ。
どちらが優れているかではない。どちらが母に認められているかだ。
そう考えるに至り、ロビンの剣もまた本来の力を欠いた。そもそも死の婚約指輪でディートと繋がっている以上、ルシールを討ち取る事は出来ない。精々、身柄の拘束という結果に落ち着くだろう。
その結果には意味がない。
一修道女を捕らえて、どうにかした所で、それがなんだと言うのか。寧ろ一修道女を相手取り、その身柄の確保に一個中隊を必要としました等とはとても言えない。
ロビンとルシールの戦いは膠着状態にあった。
ディートの残した『失意』の呪詛が中隊の士気を奪い、聖女との『神力比べ』が始まった事で戦況が崩れた。
「……つっ」
気が付くと、ロビンが指揮する中隊は、その殆どが戦場を離脱しており、ルシールを追っているのはロビン一人という有り様になっていた。
個々の武力で言うなら、ロビンはルシールを圧倒しているが、戦況は既に崩壊し、辺りはディートが残した召喚兵で埋め尽くされている。
「……ルシール!」
「シュナイダー卿……!」
召喚兵を挟み、二人は激しく睨み合うが、互いに決定力に欠ける。
そこで特大の稲妻が轟音と共に寺院を打ち、ルシールとロビンは互いに足を止めて寺院の方向に視線を移す。
更に間を置き、再び落雷。二度目の稲妻は一度目のそれより規模が小さかったが、高位神法の行使である事は疑いない。
再び暗雲が垂れ込める。
何処からか現れたカラス共が嘲りの声で鳴く。強烈な呪詛の気配にロビンもルシールも息を飲む。そして――
突如として、世界が足下から崩れ去る。
暗黒の虚無が広がり、世界は漆黒の闇に包まれた。
◇◇
僅かな時間の空隙があった。
鼻に衝いたのは潮の匂い。
寄せては返す波の音。
斜に降る雨が、見た事もない材質の路面を濡らしている。
「ここは……」
先ほどまでロビンは、寺院の外で逃げ惑うルシールを追っていた。
ザールランドは砂の国だ。
海に面して居ない訳ではないが、それはロビンが知っている『海』とはあまりにも違う。そこが『波止場』であり、停泊する『船』を見て、船だという事は分かるが、それもまたロビンが知っているものとは違い過ぎる。
夜の波止場を外灯のオレンジの灯りが射していて、濡れた路面に照り返っている。
酷く寂しい場所だった。
「……」
訳も分からず、呆然として立ち尽くすロビンの横を、黒い神官服の男が無関心に通り過ぎて行こうとして――
ロビンは慌てて男を呼び止める。
「す、すみません。ここは何処ですか……?」
「……」
黒い髪。黒い瞳。黒い神官服の男はロビンの声に立ち止まり、面倒臭そうに振り返った。
「……お前か。本当にしつこい女だ……」
その男の態度と言葉にカチンと来て、ロビンは眉間に皺を寄せる。
「なんですか、貴方は。そんな事を初対面の相手に言われる筋合いはありませんね」
「初対面? そうか……すまなかった」
男は何でもなさそうに言って、咥えた煙草に火を点ける。
潮風に巻かれて消えていく紫煙から伽羅の匂いがして、ロビンの眉間の皺が深くなる。
「……何処かで会いました……?」
「……」
黒い男は答えない。値踏みするようにロビンを見て、それから興味を無くしたように首を振った。
「馬鹿な女だ。紛れ込んだか……」
黒い男は、呆れたように肩を竦めて煙草を吹かしている。
ロビンの苛立ちは増すばかりだ。
「だから、貴方にそんな風に言われる筋合いなんてありません」
「そうだな……」
黒い神官服。寺院のものにも見えるが、少し違う。階梯を示す襟章がない。
ロビンは用心深く言った。
「……やっぱり、何処かで会ってますよね……?」
黒い男は皮肉っぽく笑った。
「初対面と言ったのは、お前だろう」
「貴方は……神官ですよね。でも、その神官服は何処のものでもない。階梯は?」
「うるさい」
黒い男は冷たく言って、咥えた煙草を吐き捨てた。
「……ここで俺に会うとは、本当に運の強い女だ。いや、これも……」
口の中で独白に近い独り言を言って、黒い神官服の男はロビンを見つめる。
黒い男は、何処までもロビンに無関心だ。やはり無関心に言った。
「まあ、いい。出してやる」
その言葉に、ロビンは妙な胸騒ぎがして言葉を繋ぐ。
「ま、待って下さい。やっぱり、貴方とは何度か会ってます」
黒い男は、小さく鼻を鳴らして笑う。その皮肉っぽい態度に、ロビンは見覚えがある。
冷たく、黒い神官服の男は言った。
「気のせいだ」
だが、ロビンはこの黒い神官服の男の名を知っている。思い出そうとすると、ずきずきと頭が痛んだ。
「……暗夜……」
「仰せの通りだ」
それだけ言って、黒い男は神官服の裾を翻す。
自然な仕草。慣れた態度。
暗夜が、パチンと指を鳴らす。そして――
◇◇
ロビンは暗がりの中を、つんのめるようにして前に出た。
その目の前に映ったのは、あの小賢しい妖精族の血を引く修道女。ルシールだ。
ロビンは、かっと頭に血が上り掛けて――
「ルシール、逃げるな! ……って、え? ディートさん?」
丁度ルシールの影になっていて見えなかったが、そこに居たのはディートだ。
「ロビン……!」
辺りには底無しの虚無しかなく、そこには、ディートとロビン、ルシールの三人きりだ。
ディートは、酷く悲しそうに言った。
「……ロビン。お前は、どうして、ここに来てしまったんだ……」
「え、と……ディートさん。えと、ええっと、ここって、何処ですか……?」
「……」
ディートは答えない。
やるせなさそうに唇を噛み、何かを探し求めるように周囲を見回した。
「……ディートさん。なんで、私を見て悲しそうにするんですか……?」
そして、唐突に底無しの虚無から白髪の男が現れる。
「……よくやった、兄弟。後は俺に任せろ……」
「白蛇!」
――白蛇。ディートは確かにそう言った。
ここが何処かは分からない。
だが『白蛇』という名には聞き覚えがある。実際に会った事はないが、死の砂漠を流離う『夜の傭兵団』の団長がそう呼ばれている。
白髪、盲の男。強い癒しの力を持ち、剣を持って戦うその姿から『白蛇』。砂漠を流離う一部の部族からは『砂漠の蛇』と呼ばれ、畏れ敬われている。
ロビンが、のんびりと考える間にも、ディートは慌てて叫んだ。
「白蛇、母は何処だ! いつ来る!」
「間もなく」
素っ気なく答える白蛇の姿は、あの『暗夜』を連想させる。
白と黒の二人。
『白蛇』と『暗夜』は、恐らく兄弟なのだろう。二人は、態度がそっくりだ。
ディートは懇願するように叫んだ。
「兄弟、頼む! 俺はロビンを死なせたくない! どうすればいい!」
それは、あまりに唐突で、ロビンには現実味がない。
「え……私、死ぬんですか?」
白蛇は、肩を竦めて小さく溜め息を吐き出した。
「……感心せんな。その女に、そこまでする程の価値はない……」
白蛇は、あの暗夜同様に冷たい態度だった。
「兄弟、頼む……!」
白蛇は、また首を振って、呆れたように言った。
「……ひれ伏せ。動くな。喋るな。息を潜めて、じっとしていろ。何があっても、母と目を合わせるな……」
「すまん! 助かる、兄弟! この礼は必ずする!」
「いらん」
その素っ気なさは、全く以てあの暗夜に似ている。砂と風に草臥れた外套を翻すその仕草まで、本当に二人はそっくりだ。
『白蛇』と『暗夜』。
生と死。表と裏。二人は対になっている。
漠然とそんな風に考えるロビンの髪を引っ掴み、ディートが暗い床に強く押し付ける。
「い、痛い! ディートさん、痛い!!」
「うるさい! 黙っていろ! ルシール、お前も跪け! 母が来る!!」
ディートは、とにかく慌てている。
その次の瞬間の事だ。
ずん、とロビンの全身に強い圧力がのし掛かる。
見た事はない。だが、その存在をはっきりと感じる。それを見る時は死ぬ時だ。床に額を押し付けた格好で、ロビンは、ごくりと息を飲む。
――死神が現れた。