青い狼の女8
『暗夜』。
ロビンの脳裏に、その名が過って消えて行く。
「……つっ!」
夢の間に見たものか。現の間に見たものか。刹那の間に見た『暗夜』は消え去り、ロビンの目の前には、白い神官服を纏うディートがいる。
「……なんです? その白い神官服は……」
その問いに答えたのはルシールだ。
「今のディートは、このザールランド帝国の大神官です」
「大神官……?」
そんな役職は、寺院にはない。教会法と役職に詳しいロビンをして『大神官』等という役職は聞いた事がない。
ルシールが厳しく言った。
「大神官、ディートハルト・ベッカーの名に於いて、聖エルナ教会の修道女、ポリーら四人の身柄の返還を要求します。ポリーたちを返しなさい!!」
見れば、ルシールは朝星棒を持ち、分厚い革の装備で身を固めている。武装している。戦う覚悟があるという事だが、そんな事はどうでもいい。
「帝国の、神官……?」
それは重大な離反行為だが、現状、ディートは寺院より階位を剥奪されており、異端審問の召喚を受けている。
「耳が悪くなったんですか、シュナイダー卿。私には、何度も同じ事を言う趣味はありません」
何故こうなった? と考えるのと同時に、それしかないとも考える。世界各国にある『寺院』の権力から身を守るには、一国の権力クラスの庇護が必要だ。
「…………」
もう、殆ど取り返しが付かない場所まで二人の道は別れた。泣いて済む話なら、ロビンは泣き付いて済ませただろう。だが、今は言葉を重ねねばならない。
「な、なんで、私たちが殺し合うんですか……?」
答えを返したのはルシールだ。
「貴方たちは、聖エルナ教会を警告なく襲撃しました。先に手を出したのは貴方たちです」
確かにそうだ。その裏切りは、確かにロビンがやった事だ。許されない事をした。
それでも、ロビンは真っ直ぐにディートを見つめて叫んだ。
「ああでもしないと、貴方は私とまともに話をしてくれない! 違いますか!!」
「……」
そこでディートは眉間に険しい皺を寄せ、やりづらそうに顔を逸らした。
ロビンは、ディートのこの態度に見覚えがある。
ディートは言い訳を嫌う。たとえ、過ちを犯したとしても言い訳しない。沈黙を選ぶ。
――行き違いがあるのだ。
まだ『話し合う』余地がある。目敏く気付いたロビンだったが、その目は、神字を綴った包帯で厳重に保護してある右腕を捉える。
「その右腕は……」
そこでディートは大きく息を吐き、首を振った。戦意が消えた。その事にロビンが安心したのは、束の間の事だ。
「……聖痕がある。母は、聖女エリシャ・カルバートと大司教コルネリウス・ジャッジの命を御所望だ……」
そのディートの言葉に、ロビンは呆然となった。
――『聖痕』。
簡単に言えば身体の一部に聖印が刻まれた状態を『聖痕』と呼ぶ。神の印でもある『聖痕』だが、その加護は強すぎて普通の人間には扱えない。
「聖痕、ですって……? それは、ひょっとしなくても、凄く不味い状況なのでは……」
聖痕は強すぎる加護だ。対象の命を削る事はあっても、力を貸してくれるような事はない。薬も過ぎれば毒になるのと同じだ。
「……」
ディートは気まずそうに視線を逸らして答えない。だが、この無謀な奇襲を掛けた理由の一端は理解できた。
「……母が、聖女らを……あぁ、分からない話ではないです……」
ディートハルト・ベッカーの当為は、いつだって苛酷過ぎる。母の導きに従って、ディートはこの奇襲に及んだのだ。
ディートは激しく舌打ちした。
「退け。お前との話は後だ。用があるのは、聖女と大司教だ」
そうだ。ロビンはディートとの間に殺し合う理由はない。だが、安心するのと同時に、ロビンはディートの指に填まった指輪を見てしまう。見覚えがある指輪を見てしまう。
「ディートさん、その指輪は……ダンジョンの……」
死の婚約指輪。
――死が二人を別つ事のないように。
ダンジョンで吸血鬼女王と吸血鬼君主がドロップする呪われた魔道具。二つは対の品になっていて、装着者の命はリンクする。
時折、頭のイカれたカップルが装着する。ロビンにとってはジョークアイテムだが……
「その指輪の効果を、知らない訳ではないですよね……」
「……」
ディートは気まずそうに視線を逸らす。つまり、言い訳できない事をしたのだ。
そこでルシールがこれ見よがしに左手を差し出し、自らの薬指に填まった深紅のルビーが輝く指輪を見せ付けて来て……
「……ルシール……お前が、何故……」
「シュナイダー卿、それを聞くのは野暮というものでは?」
狼の女の愛は気高く、純情一途。
ロビンは、頭の奥で何かが弾ける音を聞いた。
「ルシール! ルシールゥうゥう……!!」
脳裏に過ったのは、ベル氏族の従卒の少女アシタの言葉だ。
――あたいは、あの妖精族のおばちゃんが絵を描いてると思う。
――あのおばちゃん、ディに参ってる。見る度に変わってたから、相当なもんだと思う。
ロビンは、全くアシタの言った通りだと思った。妖精族は悪戯好きの人間好き。悪知恵だけはよく働く。妖精族の血を引いているルシールの身体は半分が星辰体で出来ている。簡単に説明すると、その情緒や精神状態が、身体状況や年齢、見た目等に強く反映される。
そのルシールの顔は、実際の年齢より随分若く見える。今や、ロビンと同年齢と言っても通用するぐらいには若返っている。
ルシールは満面の笑みを浮かべて嘲笑った。
「あっはっは! 貴女のその顔が見たかったんですよ、シュナイダー卿!」
「ルシールゥうゥう! どうせ、お前がディートさんを誑かしたんだろう!!」
ロビンにとって、ディートは魅力的な『異性』だ。稀人の可能性がある事を知っている。中身がただの子供でない事を知っている。
実のところ、年齢はどうでもいい。一目見た時から気に入っていた。だからこそ耳と尻尾を隠して、人間のように『擬態』していた。
最早、優劣極まった。そう言わんばかりにルシールが嘲笑う。
「失礼な。そんな事しませんよ。負け犬の遠吠えとはこの事ですね。みっともない」
「殺す!」
別にロビンは狂った訳ではない。以前から、そうしてやりたいと思っていたからそうするだけだ。その決意が『犬』扱いされて固まっただけの事だ。
ロビンは迷わず抜剣した。
それに倣って中隊の教会騎士も次々と抜剣する。とてもでないが、騎士の戦いというには、あまりに見苦しい嫉妬に狂った女の戦いが始まった。
◇◇
「ディート、先に行って下さい! ここは私が引き受けます!!」
ルシールが叫び、ディートがこの戦場を離脱するが、構わない。
ロビンは……
ここに至り、ディートの実力とその苛烈な性分を甘く見ていた。まさか、そこまですまいと高を括っていた。十歳の子供が寺院に単独で乗り込み、大量殺戮を行う等と誰が考えるのだ。
一方、召喚兵で守りを固めたルシールは、あえて乱戦に持ち込み、戦場を逃げ惑う事で時間稼ぎに終始している。
「待て、ルシール! 逃げるな!!」
ロビンは声を枯らして叫ぶが、ルシールは戦乙女の防御力を生かしてひたすら守る。時間を稼ぐ。
やがて、暗雲垂れ込める空に一つの名前が浮かび上がった。
―― Diethard Becker ――
「――つっ、ディートさん!?」
その虚空に描かれた名は、あまりに縁起が悪い。
だが、そのディートの名は消え去り、変わって空に浮かび上がった名は――
―― Elisha Calbert ――
―― Cornelius judge ――
乱戦の中で起こったこの痛烈な皮肉に、ロビンは吹き出しそうになった。
聖女の術に、ディートが痛烈な皮肉で応えたのは直ぐに分かった。それは、ディートが単独で寺院に乗り込んだ事を意味している。
ルシールが嘲笑った。
「シュナイダー卿! 戦闘中に余所見とは余裕ですか!?」
戦場では聖闘士の錫杖が荒れ狂い、剣闘士の剣が火花を散らす。
ルシール・フェアバンクスは、妖精族の血を引く高位の修道女だ。神官のものとは体系が異なる術を使って、ロビンと一個中隊の教会騎士を戦場に釘付けにして離さない。
その間にも、虚空に描かれた名が増え続ける。
―― Maximilian Ferguson ――
本人すら気付かぬままに、虚空に描かれた名が数を増して行く。
―― Renee Robin Schneider ――
「ルシール! 待て!」
その暗い空に、己の名が刻まれた事を、ロビンは遂に知らなかった。