青い狼の女7
聖エルナ教会襲撃を経て、ディートの苛烈な反撃を予想したロビンだったが、情報部の報告ではディートに動きはなく、パルマから出て来ない。
この状況に、従卒のアシタは険しい表情で首を振った。
「……ロビン姉ちゃん。あたいは、これはスゲー不味い状況だと思う。ディは怒ってる時もヤバいけど、本当に怖いのは、冷静な時の方だと思う……」
「……」
それは、あのアレクサンドラ・ギルブレスを追い詰めた一件で知っている。
ディートは、やると決めた事をやる。怒りに任せる事もあるが、冷静な時は、確実にそれを実行する。そのディートが怒りに任せて動かないという事は、恐ろしい反撃の予兆を感じさせる。
ロビンが、少しばかり方法を間違えたと考えたのは、この時が始めてだ。
「……ポリーらはイセニアの神殿で保護します。聖エルナ教会は、私の監督下にありました。尋問の必要はありません。丁重に扱うように……」
ディートに強い関心を示したマクシミリアン・ファーガソンには会いたくない。
「分かった。ファーガソンさんに、そう伝えるよ」
寺院に駐屯する教会騎士に中隊長として復帰したロビンだったが、その表情は決して明るいものとは言えない。
ディートの怒りは、ロビンが想像するものより、ずっと深刻である事が予想された。やはり、報復は想像を超えて苛烈なものになるだろう。
思い出すのは別れの言葉だ。
――幸せになれ。
――教会騎士なんぞやめろ。
――誰か男でも捕まえて、子供でも作れ。そして当たり前の幸せを手に入れろ。
レネ・ロビン・シュナイダーの『幸せ』とは? ロビンは深く思い悩むようになった。
そして、天然痘が猛威を振るうザールランド帝国内では、夥しい数の人々が死んで行く。
寺院は未だ動かない。
多額の喜捨を要求し、帝国がその要求に応じない以上、救済はあり得ないというのが大司教コルネリウス・ジャッジの判断だ。
原則的に『教会騎士』は、『寺院』に仕える騎士だ。その身分は寺院に保証されている。身を寄せる国家ではない。ロビンも例外に漏れず、その身分を寺院によって保証されている。
つまり、寺院の決定には逆らえない。
事態の引き金を弾いたのはロビンだ。聖エルナ教会を襲撃し、『ワクチン』という外法使用の証拠を押さえた。
その日、寺院で開かれた審査にて、外法使用の禁忌を犯した罪科により、ディートの神官としての階位が剥奪された。ダンジョン攻略中の事ではあるが、ディートは、一度、寺院の召喚を拒絶している。それを理由に審査は本人不在のまま進められ……
大司教コルネリウス・ジャッジは、改めてディートの身柄拘束命令を出した。
それも、A級冒険者『アレクサンドラ・ギルブレス』と共にダンジョンの深層に潜む神話種を討伐した強力な『異端』として、教会騎士三個中隊を動員するという最悪の形でだ。
これで、ディートにはもう逃げ道がない。寺院に身柄を拘束されれば、改めて異端審問が行われる事になる。
この時点で、事態はロビンの手を離れて大事になりつつあった。
非公認ではあるものの、ディートは冒険者ギルドの宣告師より第一階梯の認定を受けている。
現在、寺院には一個連隊……約千八百人の教会騎士が詰めており、三個中隊の動員と言えば六百人。大隊規模だ。文句なしの『大捕物』になる。
これには教会騎士の中でも賛否両論あった。
疫病に喘ぐ民衆を救う為、パルマに乗り込んだ神官ディートハルト・ベッカーは罪人か? 寧ろ、讚美すべき行動ではないか。命を救う事と比べれば外法使用の罪など取るに足らない。
寺院所属の教会騎士たちの大隊長の一人であるマクシミリアン・ファーガソンはそう意見を述べ、体調不良を原因に、ディートの身柄拘束の命令を迂遠な形で拒絶した。様子見に回ったのだ。
そして、寺院の命令に忠実な大隊の一つがディートの身柄拘束の為、パルマに乗り込んだが、これは散々な形で敗走する事になった。
教会騎士は一人一人が信仰深い。皆、気が進まぬ任務に辟易している所に『道を説かれ』、その説教に聞き入っていた間に神聖結界を拡げられ、死地に誘い込まれた。
結果として、ディートは一人も殺す事なく部隊を退かせたが、これは教会騎士に更なる疑問を投げ掛ける事になった。
ディートの捕縛を目的にパルマに乗り込んだ教会騎士は、『神聖結界』内に於いて、母の助力を得る事がなかった。
これを重大に受け止めた大隊の教会騎士たちは、その殆どがザールランドの寺院を去った。
まず、警告あり。
神聖結界内に於いて、教会騎士が母の助力を受けなかった事は重大な警告である。信心深い者ほど警告を真摯に受け止め、ザールランドの寺院を後にした。
寺院内では教会騎士の離脱が相次いだ。ロビンを含めたマクシミリアン・ファーガソンらの隊長クラスの教会騎士は寺院に残ったが、己の部隊を纏めるのに必死だった。
……こんな筈じゃなかった。
ロビンは、ただ話し合いを求めただけで、決してディートを異端審問に掛けたかった訳ではない。
この結果に困惑し、混乱するロビンに、再三に渡りアシタの諫言があった。
「ロビン姉ちゃん。ヤバいよ。あたいらも寺院を出よう」
アシタは殆ど泣きそうな顔でそう言っていたが、教会騎士が寺院を見捨てるというのは、信仰上、大きな問題だ。
ディートを知らない者は聖女の存在を理由に寺院に残った。その多くが愚か者の謗りを受け、命を代償に背信の罪を贖う事になる。
そして、ロビンの主は恐ろしく苛烈な性質をしており、容赦ない。
寺院に疑心を抱き、身の所在と信仰の在処に強い疑問を持ち出した騎士たちを纏めている所に、ディートの奇襲を受けたのだ。
大きく目減りしたとはいえ、未だ千人以上の教会騎士が詰める寺院に、十歳の子供が先手を打って奇襲する等と誰が考えるのだ。
ディートなら、或いは……そう考えていたロビンが率いる一個中隊だけがこの奇襲に対応できた。
久し振りに見るディートは、白い神官服を纏っており、ルシール以外の随員は見当たらない。多数の召喚兵で周囲を固めているがそれだけだ。
「ディートハルト・ベッカー! 何をしに来た!!」
その呼び掛けにも、ディートは嗤って答えない。その幼い口が祝詞を紡ぎ、呪詛を吐き出す。
◇◇
空虚な世界。青い蝋燭の光が微かに揺らぐ。
冷たい場所。雨が降っていて、柔らかく木の上に落ちる。
お前は休み、凍えながら歩く。朝が来て、また夜がやって来る。
幾度もの朝。幾度もの夜がやって来る。絶えずやって来る。だが……
「お前は、決してやって来ない」
◇◇
空気が歪む。その瞬間、粘性のある水のように空気が重たくなった。動作を阻害する高位神官の、紛れもない『呪詛』だ。
「ま、待て! 先ずは話を! 話を――」
ディートは嗤っている。
「狂信者諸君、御託は結構だ。掛かって来たまえ」
ディートが『本気』である事に気付き、ロビンは泣きそうになりながら、兜を脱いで必死になって制止の声を投げ掛けた。
「ま、待て、待って下さい!!」
主に剣を向ける等、『騎士』であるロビンには考えられない。
だが、ロビンを見るディートの視線は冷たく厳しい。それは、いつか夢で見た黒髪の少年が見せた酷薄な視線に似て……
ディートは低い声で言った。
「久し振りだな、ロビン。ポリーは何処だ。まさか、もう殺しましたとは言わんだろうな……?」
そんな事をする訳がない。
ロビンがしたかったのは、あくまでも『話し合い』だ。『殺し合い』ではない。
ロビンは複雑な気持ちだった。
久し振りにディートの顔を見られたのは嬉しくもあり、腹立たしくもあり……
「ディートハルト・ベッカー! 重ねて問う! 何をしに来た!!」
僅かに……刹那が揺蕩う。
その瞬間、時間の流れが酷くゆったりとしたものに感じられた。
レネ・ロビン・シュナイダーは青い狼の血を引く狼人だ。殺人施設『ムセイオン』で五年に渡り過酷な訓練を積んだ戦士であり、『超能力者』だ。
間延びする時間の間に見たものは……
黒髪に漆黒の瞳。黒い神官服を着た男だ。
そいつは、冷たく言った。
「まだ分からないか? お前たちを殺しに来たんだよ」
――『暗夜』。
ディートハルト・ベッカーではない。それは仮の名だ。『死神』と呼んでもいい。
暗い夜から生まれた男だ。