青い狼の女6
ディートがパルマ入りして、半月が経過し、アクアディの街にも天然痘の脅威が訪れた。
天然痘の脅威は凄まじく、このアクアディの街だけでも感染者の死亡率は六割を超えている。正に『刈り取る死』。絶望の死の嵐。
聖エルナ教会は封鎖され、外からの来訪者を固く拒んでいる。
この聖エルナ教会だけに限らず、アクアディの街全体がザールランド騎士団の手により厳戒態勢にあり、人と物の行き来が著しく制限されている。
寺院より届いた復帰命令の書状に、ロビンは強く鼻を鳴らした。
ディートの言った通りだ。
天然痘の『封じ込め』に失敗し、現状のアクアディのパンデミックフェーズは、現状のフェーズ4からフェーズ5の段階に移行しつつある。
次は、国から国へと感染が広がる。そうなれば、世界は正に地獄になるだろう。
だが、アスクラピアはこれを黙って見て居ない。この災厄を黙って見過ごす神ならば、アスクラピアが『母』等と呼ばれ信仰される事はない。
この当為には、ロビンの主が向かったのだ。必ずや結果を出すだろう。
聖エルナ教会にてディートの動向を探るロビンが、教会騎士の情報部から報告を受けたのは、ディートがパルマ入りして、半月が経過した頃の事だ。
ロビンは手の中で、連絡通信用の魔道具を弄んでいる。
「原隊復帰は、まだ無理ですね。私まで疱瘡に感染したら、どうするんですか? そもそも警告しましたよね? 事が起こってからでは遅いんですよ」
それだけ言って、ロビンは寺院との通信を断った。
これだけの大事になって尚、聖女と大司教は、指を咥えて見ているだけだ。
果たして、母は、寺院のこの無知無能にどのような罪科を問うだろう。
アシタを呼び出したロビンは、情報部に集めさせたディートの資料を精査している。
「……この、アビゲイルという人物は……?」
ディートは、パルマでの生活に関して殆ど口にする事はなかった。その為、ロビンには、この『アビゲイル』というスラム街でヤクザごっこをやっている少女の事が分からない。
だが……まぁ、やっていた事は大抵想像できる。
「どうせ、ディートさんに寄生していたんでしょう」
優秀な神官は金や権力に執着しない。スラム街の住人にとって、こんなに利用しやすい種類の人材は居ないだろう。
ロビンの言葉は偏見ではない。
優秀な神官が非常な知恵者でもある事は、教会騎士であるロビンにとっては常識だ。事実、アビーの躍進は、ディートの力と知恵なしに語る事は出来ない。アシタは反発を覚えながらも反論できずに居た。
そして、パルマ入りより、一週間の沈黙を経て動き出したディートは、たった一日でパルマの街を牛耳っていたスラムヤクザの『三大ファミリー』であるブラームス。ギュンター。ベックマンの組織を壊滅させた。
教会騎士の情報部は優秀だ。
その優秀な情報部の見解では、ディートは既に天然痘の感染を克服している可能性があるとの事だった。
「……わくちん?」
新たにディートが開発した錬金薬液がそう呼ばれている。天然痘の感染予防に高い効果があるようだ。共にパルマ入りしたルシールが中心になり、量産に努めているようだが……
もし、その『ワクチン』が本当に天然痘の感染予防に高い効果を発揮したならば、それは歴史的な偉業だ。
ディートはそれを誇る事もなく、パルマの住人に無償でワクチン接種を開始した。
ロビンは、ぽつりと言った。
「ディートさん……失敗すればいいのに……」
何故なら、そこにロビンは居ない。
本当に天然痘を撲滅する事が出来たなら、このザールランド内だけに留まらず、ディートハルト・ベッカーの名は世界に響き渡る。歴史的にも、世界的にも、凄まじい偉業だ。
だが、その偉業を為した『アスクラピアの子』に仕えるレネ・ロビン・シュナイダーという教会騎士の名が世間に知れる事はない。
この偉業から爪弾きにされた。
ロビンには、そうとしか思えない。それはプライドの高い狼人にとっては屈辱であり、強い不満と羨望、憎悪の対象にしかならない。
「失敗しろ……ディートハルト・ベッカー……!」
だが、神はそのロビンの呪詛を受け付けず、一ヶ月の時間を経て、パルマでの天然痘は終息し、人と物の流れが活性化し出した。それは、ディートが天然痘の解決に成功したという事を物語っている。
「……つっ!!」
情報部からの報告書を床に叩き付け、ロビンは激しい怒りに震えた。
更に許せないのは、情報部の中でディートの行動は高く評価されており、好意的に思われている事だ。外法、邪法の類いであるが高い効果が実証されつつあり、情報部の中には、既にパルマで天然痘ワクチンを接種した者まで居る。
天然痘の感染に怯えて聖エルナ教会に引きこもり、長い時間を無為に過ごしたロビンには耐えられない。
ルシールに代わり、現在、聖エルナ教会で助祭を勤めるポリーには、短距離通信用の魔道具でディートたちの現状が報告されている。
ポリーの説明ではこうだ。
ディートが馬痘ウイルスから安全な『ワクチン』製造に成功した。新たに開発製造した完璧なワクチンを、聖エルナ教会に優先して送るから、それで現状を打破するように、との事だ。
「馬痘ウイルス? ワクチニアウイルス? それは、いったい……」
報告するポリーも首を傾げている。
「さあ……ディートちゃんのする事は、あたしにも分からないよ」
ロビンには、言われている事が、まるで理解できなかった。寺院の神官やあらゆる識者を集めてもそうだろう。
実際、寺院では『ワクチン』を外法の産物と認定する動きがある。仕組みも何も理解できないのだから無理もない。
そして、パルマでの天然痘終息にも関わらず、ディートから、ロビンに声が掛かる事はない。ポリーに何度も確認したが、ロビンに言及する事はなかったそうだ。
ロビンの騎士としてのプライドはズタズタだった。
「ディート……ディートハルト・ベッカー……!」
ダンジョンでは、共に死線を潜った仲だ。幾度も衝突を繰り返したが、その分、互いに対する理解は深いと思っていた。
それが、何故、ここまでの仕打ちを受けなければならないのか。
ロビンは、ディート憎しの一心で、聖エルナ教会に送られて来るワクチンの情報を意図的に寺院に流した。
そのロビンに、寺院から下った命令が聖エルナ教会の襲撃とワクチンの破棄である。
「……ディートさん。貴方が全部悪いんですよ……」
ロビンは聖エルナ教会の中から内通する形で部隊の指揮を執り、迅速、かつ完璧に目的を遂行した。
拘束されたポリーは、理不尽に対する怒りより、驚きの表情でロビンを見つめていた。他の修道女たちも同様だ。ここで裏切りを受けるとは、一切思ってなかったのだろう。
何せ、この裏切りは、ロビンの腹いせ以外に意味がない。ポリーらが理解できず、驚くのは当然の事だった。
「へえ、これが『わくちん』とやらですか!」
小さい箱に詰まったそれは、魔道具で厳重に温度管理されている。ロビンには、その理由すら理解できない。
「これ、どう使うんですかあ?」
届いた新ワクチンの数は三十ほどだが、聖エルナ教会に引き籠る修道女や一般人には十分に行き渡る量だ。そこには、当然のようにロビンのものも用意されている。
破棄予定のものだが、ロビンは、迷わずワクチンを己に接種した。
この世界の誰よりも、ディートを憎んでいる。その一方で、ロビンは誰よりもディートを信用し、慕っていた。
そのロビンの行動は、ポリーらには支離滅裂の狂気に映り、恐怖に震えるポリーらは、寺院への連行にも素直に従った。
やった。やってやった。
ロビンは一頻り笑いに噎せながら、怒りに燃えるディートの姿を想像して痛快だった。
ここからだ。ロビンの戴いた主は誰よりも苛烈な性質を持っている。聖エルナ教会襲撃の報に、必ずや怒り狂い、直ちに反撃に出るだろう。
激昂させ、冷静さを奪ってしまえば捕縛の方法は幾らでもある。教会騎士の長い存続の歴史には『対神官』の戦法もある。
まず、ディートを捕らえる。
それ以外の害意はない。ロビンの頭の中にあるのは、本当にそれだけだった。
まず身柄を確保して、徹底的に話し合う。必ず理解が得られる筈だ。
この行為が、自らの信仰すら裏切り、ディートを差し向けた神の意志にさえ背く事になる等とは、この時のロビンは考えもしなかった。