青い狼の女5
ディートハルト・ベッカーが当為を果たす為、地獄に向かった。
その連れとして、あの小賢しい妖精族の血を引く修道女、ルシール・フェアバンクスが選ばれた事は、理解は出来るが、ロビンにとっては屈辱以外の何物でもない。
アスクラピアの子、ディートハルト・ベッカーの今回の当為は疫病に喘ぐ民衆救済とその疫病の撲滅だ。そこにロビンの『武力』が立ち入る余地はない。それ故、強い癒しの力を持つルシールが選ばれた事は分かる。
だが、理解できる事と納得できる事とは違う。
二人共、殺してやりたいほど憎い。
「ロビン姉ちゃん……」
聖エルナ教会の自室で荒れ狂うロビンに、躊躇いがちな声が掛けられる。
アシタ・ベル。
孤児としてスラムで育った割には、情に厚い少女だ。
◇◇
後悔は役に立たない。同情は尚の事、役に立たない。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
ディートは口に出す事こそなかったが、『後悔』と『同情』のこの二つを極端に嫌った。
ロビンは『騎士』であり、『戦う者』だ。後悔も同情も、戦場では何の役にも立たない。ディートの性質は好ましく、尊敬できる資質だ。
「ロビン姉ちゃん……その、落ち着きなよ……」
だが、アシタが向ける視線は同情と憐れみに満ちており、プライドの高い狼人であるロビンには気に障る。
「アシタ、出て行きなさい。今、直ぐに……!」
殺意すら籠るロビンの声に、アシタは慌てて出て行った。
そして、ロビンは、その晩も夢を見る事になる。
◇◇
白いベッドの上に、骨と皮だけになって痩せこけた女が座っている。
年の頃は……ルシールと同じぐらいだろうか。分からない。ロビンに分かるのは、その女が恐ろしい病魔に冒され、死を間近に控えているという事だけだ。
「…………」
女が何か言って、ロビンは酷い頭痛を感じた。
意味不明の言語だ。
ロビンには何を言われているのか分からない。だが、ディートと共に極限レベルの試練を切り抜けたロビンの力は上がっている。身体能力は勿論、『超能力』もそうだ。
「……」
見るのではなく『視る』。聞くのではなく『聴く』。五感だけでは駄目だ。理解に至る為には六つめの感覚が必要になる。
――読心。
ロビンの超能力は不完全だ。その修得は壊滅的と評された程だ。だが死地を超え、壊滅的と評されたその能力は、身体能力と同じように高まっている。
「…………」
骨と皮だけの女が、また何か言った。伝えたい事があるようだ。
「……!」
ロビンは『読心』の力で女の思考を読み解こうとするが、何せ苦手な能力だ。数ある『超能力』に於いて、ロビンはこの『読心』を一番の苦手にしている。
雑音が酷い。女は死にかけていて思考は澄んでいるが、基本となる言語と思考がロビンのものと大きく違う。それが、この雑音の正体だ。
だが、知らねばならない。聴かねばならない。そうしなければ、大変な事になる。
「……つっ!」
ロビンは集中し、『読心』の力で女の澄んだ心を読み解こうと躍起になるが……
……す……お、……します……
女は、ひたすら同じ事だけを考えている。同じ事だけを望んでいる。
……息子を、お願いします……
雑音が酷いが、確かにそう聞こえた。ロビンの『読心』が成功したのはこれが初めてだ。
「……」
ロビンが小さく頷くと、女は花が咲いたように笑った。
そして、笑って死んで行った。
その女を、黒髪の少年が抱き締めて泣いていた。泣きながら、何故か笑っていた。
道化染みた、おかしな格好だった。
だから――
以前見た少年と同じ少年だとは、思わなかった。
◇◇
翌朝、目を覚ましたロビンは酷い頭痛に首を振った
「……息子って……何の事です……?」
たとえ死にかけていたとしても、見ず知らずの女の頼みを真面目に聞いてやるような義理はないというのが、この時のロビンの心境だった。
……もう、聖エルナ教会には居られない。ディートが去り、そう考えるロビンだったが……
教会騎士にとって特定の神官に仕える事は一つの理想だ。
そして、既にロビンは己の戴いた主の素晴らしさを同胞に触れ回った後だ。
その同胞の中でも、大隊長をやっているマックス……マクシミリアン・ファーガソンは特に興味を示した。
「光と希望……信念……罪と死を糧に進む……」
その言葉に深く感じ入るマックスを前に、ロビンは得意だった。
「ええ、これこそ我らの進む道ですよ」
「しかし……それほどの見識を持つ神官が、僅か十歳の子供とは俄には信じ難いな……」
「信じる必要はないですよ?」
ディートハルト・ベッカーの騎士は、レネ・ロビン・シュナイダーただ一人。そういう『約束』だ。
「あの方の素晴らしさは、私一人が分かっていればいいんです」
『アスクラピアの子』に年齢は関係ない。何を為したかだ。ロビンの主は戦士のように苛烈で、気高い見識を持っている。
何より口先だけじゃない。
そこが堪らなくいいのだ。どんな御高説も、惰弱な者が口にすれば、それはたちまち欺瞞に変わる。
だが……その主に三行半を突き付けられたと言えば、同胞たちはどんな顔をするだろう……
少ない荷物を纏め、聖エルナ教会を去ろうとするロビンだったが、そのプライドの高さ故に動作は鈍く重い。
「アシタ! アシタ! 来なさい!!」
その未練を断ち切るように、ロビンは強く手を打って隣室に控えるアシタを呼び出した。
たちまち現れたアシタに、ロビンは鋭く言った。
「私は寺院に帰ります。お前は……お前は……」
従卒として付いて来い、と言い掛けて、ロビンは未練たっぷりに思い悩む。その声は徐々に勢いをなくし……
「アシタ、お前は……」
躊躇う事なく地獄に向かったディートだが、この聖エルナ教会の司祭である事に代わりはない。ポリーらと連絡を絶つ事はないだろう。アシタを残せば、ディートの様子を把握できるという事だ。
「アシタ……私は……」
ロビンの主は苛烈で容赦なく、有言実行の人だが、何でも完璧にこなす超人という訳ではない。躊躇う事なく、他者を当てにする場面もあった。
「私は……アシタ……」
ディートが向かったのはスラム街であるパルマだ。今は疫病の蔓延る地獄とはいえ、危険地帯である事には変わりない。
ディートに暇を出された事は腸が煮える思いだ。当為に、あのルシールと共に立ち向かう事は屈辱以外の何物でもなく許し難い。だが、一時の怒りで何もかもを水泡に帰す事は愚か者のする事だ。
待って居れば、ディートから声が掛かる可能性はゼロではない。
「アシタ……私は、ディートさんが心配です……お前は……どう思いますか……?」
狼人の愛は純情一途。そして、あまりにも健気だ。
「ロビン姉ちゃん……」
情に厚いベル氏族の少女は、青狼族の女のその思いの深さにホロリと来て、深く頷く。
「うん、そうだよ。ディは、あいつはあれで結構隙だらけだし、ロビン姉ちゃんの力が必要になる時が必ず来るよ……」
だが、ロビンのその思いは再度踏み躙られる事になる。
翌日――
「あのドワーフと紛い物二人が、ディートさんに付いて行った?」
その報告を行ったアシタは苦渋に満ちた表情で首を振った。
「……ゾイのヤツ、上手くやったよ。ディは、下水道を通ってパルマに入ったんだ……」
「……」
現在、パルマに入る為の通路は全て封鎖されており、ディートのパルマ入りには困難が予想された。だから、『下水道』を侵入経路にした事はロビンにも理解できる。
アシタは言った。
「あたいは、あの妖精族のおばちゃんが絵を描いてると思う」
「ルシールが……?」
アシタは険しい表情で深く頷く。
「ロビン姉ちゃん。下水道を通ってパルマに入るなんて、あたいやゾイには当たり前の事なんだ」
アシタもゾイも、スラム育ちのパルマの住人だ。下水道を通ってアクアディとパルマを行き来する事は考え付いて当然の閃きだった。
「妖精族は人間好きで悪知恵だけは働くし……ロビン姉ちゃんが離れた今、ディの回りを固めるのに、ゾイとあの役立たず二人は便利だよな……」
そのアシタの想像は、半分は当たっていて、残りの半分はただの偏見だ。ディートのパルマ入りが難航した原因は、ロビンとルシールの行為にあり、その責任の半分はロビンにもある。
問題は、当たっている残りの半分だ。アシタは苛立ったように髪を掻き回した。
「あのおばちゃん、ディに参ってる。見る度に変わってたから、相当なもんだと思う」
「……」
ルシール・フェアバンクスは妖精族の血を引いている。その身体は半分が星辰体で出来ている。簡単に説明すると、その情緒や精神状態が、身体状況や年齢、見た目等に強く反映される。
それを理解した瞬間、ロビンは怒りに任せ、両の拳で文机を叩き潰した。
「……ルシール……フェアバンクス……!!」
ロビンにとって、己の戴いた主は魅力的な人物だ。だから、ディートに懸想するのは構わない。
だが、アスクラピアの子の神聖な当為を利用するのは許せない。
ロビンの怒りは、限界値を超えた。
◇◇
愚者と賢者は同様に害がない。最も危険なのは、いつだって半分賢く半分愚かな半端者である。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇