青い狼の女3
苛烈な性分の主を戴いたロビンの受難は続いた。
殺意の籠った雷鳴を受け、時にゴミクズ扱いされ、時にウジ虫扱いされ、時に気違い扱いされ、罵倒され、叱責され、残念な痴女扱いされた。
狼人は種族の特性として執拗だ。これと定めた獲物は逃がさない。
ディートハルト・ベッカーは、ただの子供じゃない。オリュンポスのクランハウスで、あのアレクサンドラ・ギルブレスを徹底的に叩き潰した事で、ロビンはそう確信するに至った。
あまりにも苛烈な性分だが、それがいい。狼人のロビンには、そこが堪らない。
アレクサンドラ・ギルブレスに対する仕打ちは残酷にも取れるが、物の見方は一つではない。あえて厳しく接する事で断念させ、死地から遠ざける優しさにも映る。
――アスクラピアの子。
オリュンポスのサロンでは『信念』と『信仰』について説かれたが、ディートはそれについて語る間、遠い目で空を見つめていた。
裁くのではなく、憎むのでもない。忍耐強い信仰が。信仰する忍耐が我等を神聖な目的に近付ける。
心そぞろな様子で語っていたが、その領域は、十歳の子供が到達していい場所ではない。
これぞ『アスクラピアの子』の言葉である。
その晩から、ロビンは奇妙な夢を見るようになる。
◇◇
「俺の! お袋が! 何だって!?」
年の頃は一五、六歳ぐらいだろうか。黒い髪の少年が、同じ年頃の少年に馬乗りになって、何度も拳を振り落として殴り付けている。
「ご、ごめんなひゃい……ごめんなひゃい……!」
殴り付けられた少年が必死になって謝るが、それでも黒髪の少年は容赦しない。
「聞こえねえよ。もっと、はっきり喋れ」
少年は嗤って拳を振り落とす。相手が幾ら謝ろうと、全くの無抵抗でもまるで関係ない。
「口ほどにもない」
ぐしゃり、と肉が潰れる一際大きな音がして、殴り付けられた少年が痙攣して動かなくなった。
そこで、漸く黒髪の少年は短く息を吐いて拳を止めた。
「……?」
不意に黒髪の少年は、ロビンの視線に気付いて振り返った。
「……なんだ、お前……」
冷淡な鋭い瞳は黒い炎で燃えている。
険しい表情で、少年は忌々しそうに言った。
「じろじろ見てんじゃねえよ」
◇◇
そこでロビンは目を覚ました。
場所は聖エルナ教会の一室。逗留するロビンに宛がわれた部屋のベッドだ。
おかしな夢だった。
黒髪に黒い瞳の少年じゃない。その背景にある建物は、見た事がないほど滑らかな材質の壁で、明らかにこのザールランドの建築物ではない。
レネ・ロビン・シュナイダーは『超能力者』だ。
だが、奇妙な夢の正体を測れずに居る。ほんの少し、奇妙な部屋に入ってしまったとは考えない。過小に見積り過ぎている己の可能性については考えない。ディートハルト・ベッカーの正体について考えない。
「……」
本当におかしな夢だった。
ロビンは小さく欠伸して、居室の窓から外庭を見下ろした。
そこでは、従卒として預かったアシタが訓練用の木剣を振っている。
身体を動かす訓練だけは真面目にやっているようだ。
アシタ・ベル。
『夜の傭兵団』に皆殺しにされたベル氏族の少女。おそらく、最後の生き残り。ロビン自身はどうでもいいが、父がまだ若く、未熟であった時にベル氏族の戦士に情けを掛けられた。敗れ、見逃されたのだ。
「……自分が受けた恩ぐらい、自分で返して貰いたいものですね……」
だが、受けた恩は恩だ。
まだ未熟だった父を打ち倒したベル氏族の戦士が、どんな気紛れから父を見逃したのかは分からない。だが、受けた恩を返さない事は自らを安くする。父が死んでいれば、ロビンはここに居ない。そういう事だ。
狼人はしつこく、執念深い。恩も恨みも忘れない。本人が返せないものは他の者が返す。
ロビンは素早く身なりを整え、壁に立て掛けてあった訓練用の木剣を持ち、居室の窓から飛び降りた。
弱い人間でなくとも死ぬ高さだが、ムセイオンで五年鍛えられたロビンには問題ない。
地面に降り立つと、だんっと凄まじい音がして、踝まで足が沈んだが痛みはない。勿論、動作にも支障はない。狼人の身体能力は、他の種族とは一線を画する。
轟音に、ぎょっとして振り返ったアシタに言った。
「……さあ、アシタ。遊びましょうか。今日は、何回死ぬんでしょうね……」
訓練用の木剣だが、本気を出せば、アシタ程度なら瞬きほどの間に三回は殺せる。ロビンが酷薄な笑みを浮かべると、アシタは恐怖に震えて引き下がった。
「ろ、ロビン姉ちゃん、てっ、手加減してよ……!」
「……有益な情報は……?」
勿論、ディートの事だ。
夜、ディートの部屋にアシタを送り込む事は、ロビンにとって遊びじゃない。重要な情報集めだ。
「べ、別になんもねえよ。ディは、あたいの話を聞いてるだけさ。あいつ、なんもなかったら、本当になんもねえんだって……」
「それは昨日も聞きましたね。今日は三十回ほど死んでもらいましょうか……」
ちょっと本気を出すだけだ。即死させなければ、致命傷を受けても大丈夫。ここには七人の修道女がいる。
「何か情報は?」
「た、煙草を買って来いって……」
アシタには何でもない世間話の一つだったが、ロビンは目を剥いて仰天した。
「何ですって!?」
ロビンが動きを止めた事に安心して、アシタは小さく息を吐く。
「だ、だよね。それぐらい、自分で買って来いっての……」
ロビンは、険しい目でアシタを睨み付けた。
「喫煙は頭を悪くします……まさか、買ってないでしょうね……?」
「か、買ってない……」
「本当に?」
「本当だっての……!」
「本当の本当に?」
狼人はしつこい。だが、今それを指摘すれば、アシタの場合、命に関わる。
「本当の本当の本当に?」
そこで正直者のアシタの視線が泳いだのを見て、ロビンは薄く笑った。
「買ったんですね。今日は本当に死んでもらいましょう」
「買ってない! 昨夜の話だぜ! そんな暇ねえっての!!」
だが、それぐらいなら買って来てやろうとは思っていた。それがアシタの顔に出たのだ。
「本当に?」
狼人の愛は純情一途。そして……あまりにも、しつこい。
◇◇
「……確かに、私にも煙草が欲しいと言いましたね……戯言の類いだと思っていましたが……」
その日の訓練で、アシタは一度も死なずに済んだ。修道女の世話にはなったが、致命傷を受ける事はなかった。
「ディートさんには伽羅でも渡しておきなさい。煙草を買い与えたら、本当に殺しますよ」
「わ、分かってるっての……」
ディートは知らないが、ロビンとの訓練で、アシタは何度も死にかけている。ここが修道女のいる教会でなければ、本当に死んでいただろう。
「で、でも、ロビン姉ちゃん、今日は手加減してくれたんだね」
「ええ、まあ。有益な情報でしたし」
「……あれが?」
「ええ……変ですか?」
「いや……」
アシタは理解に苦しんだが、ロビンとしては、それが分からない。怪訝な表情でアシタを見つめている。
「……」
アシタは少し考えて言った。
「ディは、肉より魚が好きだ」
「……っ! 素晴らしい。アシタ、お前を送り込んだ甲斐がありました」
「あと、変な文字を知ってる」
「……変な文字?」
「そうそう。変な文字。見た事がねえの。ルシールおばちゃんの教えてくれた文字とは全然違ってた。なんか日記? みたいなの書いてるとか言ってたけど、それが全然読めねえ字で書いてあるんだ」
「それを手に入れる事は出来ますか……?」
アシタにとっては、これも下らない世間話の一つだったが、実際は、とんでもない秘密を話しているとは考えない。
「ディは隠してねえよ。文机の引き出しに普通に入れてたぜ?」
「……見た事がない文字……」
原則的に、この世界の文字は統一されている。他の言語となると、妖精族の使う神字かエルフ言語だが、それをディートが知っているとは考えづらい。神字に関してだけ言えば、それを使うルシールですら、一部しか意味を理解していない。
「……」
あのディートが、意味のない事をするとは思えない。アシタを揶揄っただけだったとしても、日記となると纏まった文章量になる。少しおかしい。ロビンは深く思案するのだった。