150『聖女』エリシャ・カルバート
教会騎士たちとの不毛なやり取りの後、ゲオルクが俺の目の前に突き出したのは、『聖女』エリシャ・カルバートと『大司教』コルネリウス・ジャッジの二人だった。
生き残った教会騎士たちは、全員が嫌悪と憎悪に燃える瞳で聖女と大司教を睨み付けている。
逆印が刻まれたエリシャの額には包帯が巻き付けられており、そこから血が滲んでいる。酷く痛むようで、その顔は涙と苦痛に歪んでいる。
一方、大司教コルネリウス・ジャッジは堂々と俺の前に立ち、老いたその表情に不敵な笑みを浮かべている。怯え、聖女の足下にすがっていたと思ったが……
「何がおかしい。コルネリウス・ジャッジ」
「初めて母の顔を見たのだ。これを喜ばずに居られるか」
俺は鼻を鳴らした。
この老害との話は後だ。先ずはエリシャと話をしてみたい。
「エリシャ。気分はどうだ?」
まあ、皮肉から入ってしまうのは俺の悪い所だ。俺には、どうにもならない露悪的な趣味がある。
エリシャは泣きながら言った。
「いだい……いだいぃいぃい……」
「だろうな」
ジナから移し奪り、一ヶ月以上俺の身に宿した『聖痕』は、俺が犯した罪によって強化され、裏返ってエリシャの額に刻まれた。この『逆印』は特別製だ。エリシャはさぞ痛かろう。苦しかろう。
「所でエリシャ。お前に幾つか質問がある。いいか?」
「いだい、いだいのぉおぉお……!」
俺は小さく舌打ちした。
だが、その苦しみが分からない訳じゃない。元は俺の右手にあったものだ。ルシールの『蛇封じ』がなければ、俺も似たような有り様になっていただろう。
「……これでは、話にならんな……」
やむを得ず、俺は懐から取り出した麻酔薬の入った小瓶を取り出し、エリシャの額に振り掛けた。
麻酔が逆印の痛みに効果がある事は身を以て知っている。いよいよになれば、俺自身に使うつもりで持っていた。麻薬に近い成分の麻酔薬だ。強い鎮痛効果があるが、常習化すると副作用がある。
目眩、ふらつき、判断力の低下。強い高揚感。或いは強い不安。場合によっては、自殺願望すら生じる劇薬だが、今のエリシャと話をする為には使用するよりない。
「……」
暫くして痛みが消えたのか、エリシャの涙が止まり、表情が平淡な物に変わる。
「い、痛みが止まった? これは……な、なにを……」
「麻酔薬だ。殆ど麻薬だがな。お前らが言う所の『外法』だが、文句があるかね」
「……」
エリシャは答えない。
頻りに視線を泳がせ、親指の爪を噛み始めた。
文句はないようだ。
気持ちは分かる。俺も、あの痛みから逃れる為にこの劇薬を作ったのだ。
「……先ず……天然痘を知っているか……?」
エリシャは上目遣いに俺を睨み付け、険しい表情で言った。
「……疱瘡の事ですか……?」
疱瘡とは天然痘の別呼称だ。静かに頷いて見せる俺に、エリシャは鼻を鳴らして答えた。
「知ってますよ、それぐらい」
その言葉に、俺は僅かに怯む。てっきり、知らないものだとばかり思っていたからだ。
「今、この帝国では、その天然痘が恐ろしい猛威を振るっている。こうして俺たちが話し合う間にも、大勢の者が死の危機に瀕している。それをどう思う」
エリシャは俺を睨み付ける事を止めない。憎悪に満ちた視線を向けている。
「あれは悪魔の病です。私といえど、あれを滅するには力が足りません」
「……だからこそ、俺たちが立ち向かわねばならない。そうは思わなかったのか……?」
「私たちの力によって、人の寿命が伸びるという事はありません。あの病は天命です」
俺は首を振った。
エリシャは、天然痘に対する思考を放棄している。話にならない。
次の質問に移る。
「……母に会うのは、初めてだったのか……?」
エリシャは、この質問に小さく首を傾げて見せた。
「……母さまは、滅多な事ではそのお姿をお見せになる事はありません。それは私にしても同じ事です。お前は違うのですか……?」
「……」
『造られた』。『不実の子』。様々な言葉が脳裏に浮かんでは消えていく。エリシャが母との邂逅を得てない事と無関係ではないだろう。
「ディートハルト・ベッカー。何故、黙るのです。答えなさい」
「答えた所でどうなる。俺とお前とでは違い過ぎる」
エリシャは憎らしげに鼻で嘲笑った。
「そうですね。人殺しのお前と私とでは、確かに違いますね」
「これは、一本取られたな」
確かにそうだ。俺は大勢を生かしたが、その反面で大勢を殺した。犯した罪の多寡で言えば、俺の方が遥かに上だろう。
だが、今話したいのはそういう事ではない。
「最後の質問だ。『刷り込み』と『焼き付け』について、どう思っている?」
エリシャは眉間に深い皺を寄せた。
「『刷り込み』? 『焼き付け』? お前は、いったいなんの話をしているのですか?」
「…………分かった。もういい……」
白蛇の言った通り、確かにこれは『無知』の産物だ。いや……『無恥』の産物と言うべきか……
そこで、俺は『聖女』に対する質問と思考を打ち切った。
その俺をエリシャが呼び止める。
「待ちなさい、ディートハルト・ベッカー。お前と私とでは違う。違い過ぎる。お前は、母さまと何度も会っているのですか? 母さまは、私の事をなんと仰っておられたのですか?」
俺は、そう尋ねるエリシャに憐れみの視線を向ける。
最後に言った。
「……いらない子だ……」
「い、いらない子……?」
その言葉に、大きな衝撃を受けたエリシャは呆然とした表情になった。
教会騎士たちは嘲笑っている。
「……当然の事だ……」
「……紛い物が……」
「……呪われろ。造られた人形めが……!」
その侮蔑の言葉にも、エリシャは一瞬だけ身体を震わせただけで返答しない。酷く険しい表情で、また親指の爪を噛み始めた。
◇◇
そして、俺は諸悪の根源と対峙する。
「さて、コルネリウス・ジャッジ。お前に遠慮はいらんな」
「……!」
薄く嗤う俺の凶相に怖じ気付き、一歩引き下がるコルネリウスの禿げ上がった頭を捕まえる。
こいつが死んでも構わない。
俺は、そのつもりでコルネリウスに術を掛けた。アレックスに使ったのと同じ術だが、精神を破壊するつもりで本気で術を行使した。だが……
俺は激しく舌打ちした。
「……逆印の効果か? 術を受け付けんな……」
抗不安の効果を持ち、神力の入れ具合によっては意識レベルを低下させる術だが、今の俺が本気を出せば、精神を破壊して何でも喋る人形にする事も可能だ。
だが、額に刻まれた逆印が邪魔をして効果を寄せ付けない。
本来の用途は精神の安定にあるこの術は、基本的には『回復』の術に分類される。その為だろう。
『呪詛』なら受け付ける。
かつて、軍神アルフリードを呪い殺したのはアスクラピアの子だ。だが、今やりたいのはそういう事ではない。
「……それでは、使うしかないな……」
様々な可能性を考慮して、準備だけはしていたが、本来は使うつもりがなかった薬だ。自白剤とも言う。ふんだんに麻薬成分が入っていて、使用後は廃人化してもおかしくない。
「や、やめろ! 何をする!!」
「気にするな。俺が知りたいのは事実だ。お前が、その頭で捻り出す虚構じゃない」
目で合図すると、成り行きを見守っていたゲオルクが小さく頷き、帝国騎士に命じて暴れ狂うコルネリウスを地べたに押さえ付けさせた。
「さぁ、全てを話してもらうぞ。お前一人で考えた事ではないだろう。何を企んでいる」
俺は小瓶の中の自白剤を注射器に移し取り、針の部分を指で弾いた。
殊更に恐怖を煽るその仕草に、コルネリウスは目を剥き、必死になって懇願する。
「やっ、やめろ! 何でも言う! 何でも話す! だから――」
「信じられんな」
俺の信仰する神は甘くない。俺自身もそうだ。
善と悪。
それが神の両手の本性だ。
「気にするな。何も感じなくなる。すぐだ」
俺は、抵抗を続けるコルネリウスの首に注射器の針を打ち込んだ。
明日も続きます。
よろしくお願いいたします。