149 狂信者たち
酷く疲れていた。
ギラギラと目に痛い太陽に右手を翳して日射しを遮る。
その手に、聖痕は残っていない。
俺は暫し考える。
母は、こうなる事を見越して虚空に聖女の名を描いたのだろうか。
全て、あの邪神の手の内の出来事なのだろうか。
分からない。青ざめた唇の女の考える事は分からない。
だが、俺はこの道を行く。考える間もなく、迷う間も許されず、ひたすら前へ。その姿はいずれ……
ロビンは、ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、それでも俺の肩を抱いて支えていてくれた。
そこへ、ゲオルクたちザールランド帝国の騎士たちが聖女エリシャ・カルバートと大司教コルネリウス・ジャッジ。それと二十人程の教会騎士を伴って現れた。
全員、手に縄を打たれ拘束されている。
「……爺さん、教会騎士の数が随分足らん。どうした……」
険しい表情のゲオルクは、溜め息を吐き出した。
「……死んだ。突然現れたかと思ったら、その場で半数以上が自害しよった……教会騎士共の考える事は分からん。ここに居るのは、何とか制止が間に合った者よ」
「そうか……」
信仰した神に三行半を叩き付けられたのだ。狂信者には耐えられまい。無理のない話だった。
ゲオルクは難しい表情だ。
「……本当に捨て置くのか? 裁判に掛け、帝国法に則って正当な裁きを下すべきだと思うが……」
ゲオルクとしては、寺院の不正を糺した証として聖女と大司教の首が欲しいのだろう。
「爺さん……火事場泥棒は止めろと言った筈だが……」
年寄りと子供の首を打つか。俺としては不愉快極まりない。
「恥知らずめ。全て終わってからやって来た癖に、無力な年寄り子供を裁いて、首魁を討ったのは私たちですと功を誇るつもりか。情けない……」
神の『逆印』を刻まれるという事は、こういう事だ。今後、エリシャとコルネリウスは、何処に行っても命の危険が付きまとう。それが子々孫々、未来永劫続く。
「帝国は恥知らずの集団か? 生かしておけ。その方が宣伝になる」
「……」
ゲオルクは悔しそうに唇を噛む。何か言おうと口を開いた所で――
「――レネ?」
捕縛された教会騎士の一人が口を開いて、ゲオルクの言葉を遮った。
彫りが深い顔立ちの男。金髪の教会騎士。外套の裏地は赤く染まっていて、ある程度の立場がある者と思われた。その額には『逆印』が刻まれている。
呆然とした顔で言った。
「レネ、何故だ? 何故、お前だけが逆印の咎を受けてない……」
ゲオルクは押し黙った。その教会騎士の追及は尤もで、ゲオルク自身も不思議に思っていたのだろう。
「それは……」
そこまで言って、ロビンは項垂れるようにして視線を逸らした。
傲慢なレイシストであるロビンだが、その追及は痛い所を突いたようで、それ以降は頑なに口を閉ざして答えない。
「何故だ。何故、お前だけが母の裁きを免れたんだ……」
俺は鼻を鳴らした。
「俺の騎士だ。俺が助けた。文句があるか」
「……」
教会騎士の男は呆然として、俺の方に向き直る。
俺は冷たく言った。
「仲間の教会騎士は、既に半数以上が自害して果てたそうだな。お前も見習ったらどうだ」
「……ディートハルト・ベッカー……?」
「だったらなんだ」
ロビンは、俺が知る限り、寺院や教会、聖女には強い嫌悪感を見せていたが、仲間である教会騎士に対しては拒絶や嫌悪の意思を見せた事がない。
同じ神を信仰する教会騎士の絆は強い。
俺は、彼らの仲間の大勢を殺した。聖女側に付いた教会騎士たちは、さぞ俺が憎かろう。
「何故……」
教会騎士の男は、ぼんやりとした顔で、俺とロビンを見比べる。言った。
「……レネ、聞いていたのと特徴が違う。銀の髪に、黒い瞳をしている。彼が……お前の言っていた『本物』なのか……?」
「……」
「……青い瞳に、茶色の髪。非常に強い術を行使した形跡があり、髪は一部白化している。『戦士の死』や『信念』について説き、『悪魔の種子』について詳しい。救いの手を母の術のみに頼らず、躊躇いなく『外法』を使う。あのアレクサンドラ・ギルブレスの両手をつないだのも彼なのか……?」
ロビンは苦しそうに表情を歪め、聞き取れない程の小さい声で言った。
「……そうだ……彼が……私の主だ」
ふと気付くと、逆印を受けた教会騎士全員の視線が、俺とロビンに集中していた。
酷く嫌な予感がした。
俺が連れて来いと言ったのは、聖女と大司教の二人だけだ。教会騎士まで連れて来いとは言ってない。
奇妙な部屋に入った時点で、教会騎士の生き残りは百名近かったが、今では二十名ほどしか姿が見えない。逆印を受け、八割が自刃して果てたという事になる。
誰かが言った。
「レネが、我らに虚偽の報告を行った……!」
ロビンは、俺の変化した容貌に強い懸念と嫌悪感を露にしていた。直後、暇を出した事も仲間に対する報告を怠った事と無縁ではないだろう。
「……」
ロビンは苦しそうにするだけで答えない。報告を怠ったのは事実だからだ。
また別の教会騎士が言った。
「……確かに『本物』だ。彼は『作り物』じゃない。本物の『アスクラピアの子』だ……」
『教会騎士』の『絆』は強い。俺が思っていたより、ずっと。
「レネが嘘を言った!」
「レネが裏切った!」
羨望、後悔、嫉妬。そして憎悪。俺の夜の目は、それらの感情をはっきりと映し出す。
俺は首を振った。
「だったらなんだ。お前らが、俺に剣を向けた事は誤魔化せない。現状を受け入れろ」
その俺の言葉に教会騎士たちは怯んだが、それは一瞬の事だ。
「ベッカー神父。貴方は幼いが、確かに『本物』だ。本物の『アスクラピアの子』だ。だからこそ、敢えて言わせて貰う。これは……『公正』ではない……!」
俺は鼻を鳴らした。
「俺は人間だ。身近な者を庇って、何が悪い」
この場に居る『逆印』を受けた教会騎士の視線全てが俺に刺さる。それでいい。
ロビンを恨まないでいてほしい。最後まで仲間で居てやってほしい。
「確かに、俺には『公正』の戒律がある。だが、全ての物事に対し、公平であるという事は愚かしい事だ。それは自我を破壊するようなものだ」
憎まれるのは、俺だけでいい。
「母は、不完全な神だ。『公正』の戒律と反する言葉を残された事の意味を考えた事があるか」
「……」
教会騎士たちは、黙って俺の言葉を聞いている。それが却って不気味だった。
続ける。
「常に慈悲深く情け深くあれ。それが一切の全てと己とを区別する。人間らしい過ちが人間をより一層、人間らしく美しくする。母は人間の人間らしい過ちを愛された」
「…………」
「母は、復讐を是とされる神だ。だが、その心の根底には深い慈悲がある。自己犠牲に最も強い価値を置かれるのは、『愛』する心に何よりも価値を置かれるからだ」
俺は……口下手な男だ。人に説教するのは好かん。だが、今だけは物の道理を説かねばならない。そうでなければ、誰も納得しない。
「何を以て、我らの信仰とする」
元来、俺は無宗教の日本人だ。それでもアスクラピアという神を信仰するのは、あれが憎悪と愛を持つ人間臭い偶像であるからだ。
「俺は人間だ。いつだって、人間らしく居たいと思っている。母は、その俺をここに差し向けられた」
俺からは、それだけだ。
「神の考える事など、虫けらの俺には分からん。後は各々の解釈に任せる」
◇◇
敬虔な謙虚には神性が宿る。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
彼らには『アスクラピアの子』としてでなく、あくまでも一人の『人間』として語り掛けたつもりだ。
気が付くと、教会騎士の全員が跪き、黙って俺の言葉を傾聴していた。
俺の言葉は、彼らの心に届いたのだろうか。そうだといい。だからといって、彼らの『逆印』が消える事はないが……
隊長格の男を含め、教会騎士全員が跪いて手を組み、祈りを捧げている。やがて……
方々から小さい怨嗟の声が上がる。
「……裏切者……」
「裏切者のレネ・ロビン……」
「……我らが仕えたかったのは、『作り物』の『人形』ではない……」
「素晴らしい……」
「……正に『アスクラピアの子』……」
俺は首を振った。
彼らに、俺の言葉は届かなかった。おそらく永遠にそうだろう。
最後に言った。
「自らに命ざぬ者は、いつまで経っても奴隷に留まる」
自分の足で立って歩け。いつ戦い、いつ死ぬかは自分で決めろ。説教が必要な者は、自ら考える事を放棄した者だ。
彼らと話す事は、もう何もない。
何も……
休みが取れたので……
明日も続きます。