148 背信者
砂混じりの熱い風が吹き抜けて行く。
日暮れまで、まだ少しの時間があるようだ。
奇妙な部屋。あの場所を言葉で説明するのは難しい。神が造り出した特殊な空間だ。
広大な寺院の敷地には二つの外陣があり、俺たちはその二つある外陣の一つ。寺院のほぼ中央付近にある開けた外陣にいる。
裁きが終わり、元居た場所に戻された。
そして――
俺たちの周囲を埋め尽くす銀の甲冑を纏う騎士たち。
俺は唄うように言った。
「ああ、これはこれは! 我が帝国の勇敢な騎士たちではないか!」
その俺の皮肉の言葉を受け、隣のルシールが失笑した。
「今さら……」
俺たちが奇妙な部屋で過ごした時間は分からない。未だ日中だが、丸一日以上経過していたとしても不思議ではない。彼処はそういう場所だ。
寺院の外陣に集結したザールランド帝国の騎士たちは、突如出現した俺の姿に目を剥き、困惑している。
その帝国騎士を押し退けるようにして、肩を怒らせた初老の男が一人、鼻息も荒くこちらにやって来て、目の前で足を止めた。
「やあ、これはゲオルク団長。もう終わらせた後だ。今さらやって来て、火事場泥棒かね……?」
「……っ!」
この侮辱の言葉に、ゲオルクは口元を震わせるだけだ。俺を鋭く睨み付けるが何も答えない。答える資格がない。
俺は鼻を鳴らした。
「爺さん、後の処理は任せるぞ」
「……」
これでもゲオルクは急いだのだろう。悔しそうに噛み締めた唇に血が滲んでいる。
「……どういう事だ。大神官殿、説明してもらおうか……」
「おお、ゲオルク団長。我が蛇は、経年劣化による認知能力の低下には効果がない。それは天命だ。諦められよ」
まあ、遠回しにボケたのかと言った訳だが、それを聞いたルシールが思い切り吹き出した。
「……」
ロビンは、ひれ伏したままだ。
大司教コルネリウス・ジャッジと聖女エリシャ・カルバートは神の怒りに触れ『逆印』の咎を受けた。つまり、『寺院』は権威を失った。この地に集う教会騎士は帰る場所を失った。或いは、このザールランド帝国を出て行くかの選択を迫られる。
ゲオルクは肩を震わせ、呻くように言った。
「大神官殿、恥を承知でもう一度問う。経緯を説明しては下さらんか……」
俺は嘲笑った。
「見て分からんか。俺がやったんだ。俺が一人で寺院を滅ぼした。奴等の不正を裁いたんだよ」
嘘だ。殆どは俺がやったが、止めを刺したのは、あのしみったれた女だ。母の怒りがこの地の寺院を滅ぼしたのだ。
「今さらのこのこと。役立たずめ」
これからの事もある。帝国にはデカい釘を刺して置かねばならない。
「ゲオルク団長、聖女と大司教の身柄を確保しろ」
「……それは、もうしてある……」
「それなら、奴等に刻まれた『逆印』を見ただろう。大体の察しが着く筈だ」
この世界の者なら、どんな馬鹿でも分かる決着だ。寺院は、俺と対峙した挙げ句、神の怒りに触れた。つまり、このザールランド帝国に於いて『寺院』は権威と正統性を失ったのだ。
寺院に居た殆どの神官や修道女、教会騎士たちは死に絶え、生き残った者は逆印を受けて神の加護を失った。
「サクソンに居る教皇も、逆印を刻まれたと聞けば、奴等の不実と背信を認めん訳には行かんだろう。貯め込んだ財産は全て接収しろ」
「……いいのか?」
「この俺が許可する。寺院が不正に蓄財した財産は、一時、帝国の国庫に預ける。勿論、お前たちのような役立たずの為に使うんじゃない。分かっているか?」
「……」
ゲオルクは、この屈辱に肩を震わせている。
一番おいしい所を持って行かれたのだ。無理もない。このザールランド帝国の騎士団団長を務めるゲオルクが失うものも大きいだろう。
「……逆印を受けた者は、どうするのだ……」
それこそ興味がない。俺は鼻を鳴らして嘲笑った。
「捨て置け。死ぬなり生きるなり、勝手にするだろう」
聖女に至っては、母の逆印を受け、その加護を失った。最早、なんの力も持たない。殺すまでもない。
「……さ、裁判に掛けんのか……?」
「勝手にしろ。だが、そうだな……聖女と大司教とは話がしてみたい。連れて来い」
「……分かった」
十歳のガキに顎で使われるのだ。ゲオルクは苦虫を噛み潰したような表情で背後の騎士たちに指示を出し、続けて、ひれ伏したままでいるロビンの髪を掴んで持ち上げた。
「……なんじゃあ、どうなっとる。なんで、この教会騎士にだけ逆印が刻まれとらん……」
そこで、俺は思い切りゲオルクの脛を蹴飛ばした。
「俺に仕える騎士だ。手荒い真似は止めてもらおうか」
子供の力とはいえ、爪先で思い切り脛を蹴飛ばされたのだ。ゲオルクはさぞ痛かろう。
顰めっ面で引き下がる。
「こ、これは失礼した」
「次は殺す」
今回、俺は千人近くの人間を殺した。子供の言う事でも、はったりじゃない。
帝国が頂く大神官の正体は死神だ。その圧力にゲオルクは怯み、更に引き下がった。
「す、すまん。以後、注意する……」
奇妙な部屋に入った寺院の連中は、聖女や大司教は勿論、教会騎士にも全員が『逆印』を刻まれている。その中で、レネ・ロビン・シュナイダーだけが『逆印』の咎を免れた。
これが意味する所は大きい。
ゲオルクは逃げるように去り、ロビンは平伏したままの格好で震えている。
母に『招かれた』事の意味を正確に理解している。強い信仰を持つロビンが、この恐怖から逃れる術はない。
ルシールが冷たく言った。
「ディートが優しくて、よかったですね。シュナイダー卿」
聖エルナ教会を襲撃し、罪のない修道女たちを拉致し、ワクチンを破棄した事は、それだけの重罪だった。母が逆印を刻みたいと思う程度には。
「……ロビン、顔を上げろ……」
「…………」
ロビンは平伏し、俺の言葉にも顔を上げない。
「少しばかりの羞恥心はあるんですね。安心しましたよ」
「ルシール、今はよせ」
聖女は無知と無慈悲の罪を逆印で償った。大司教とそれに侍る教会騎士たちも同様に母の裁きを受けた。だが、ロビンだけは、俺の意思により逆印の咎を免れた。
「……ロビン。ポリーらは何処だ……」
「……な、南西にあるイオニアの神殿に、アシタと居ます………」
ルシールがロビンを見る目は冷たく、そして嫌悪の感情に満ちていた。
「拷問しましたか、背信の徒」
「し、してない。丁重に保護してある。私の信仰と名誉に誓ってもいい」
ルシールは、もうロビンを見ない。逆印こそないが、その信仰に於いて二人の道は完全に別れたのだ。
「貴女の信仰と名誉に、価値なんてありませんよ」
「……っ」
険しい表情で顔を上げたロビンだったが、何も言い返す事はせず、力なく項垂れた。
「ルシール。イオニアだ。迎えに行ってやってくれ」
ルシールは嫌そうにロビンを見て、それから困ったように俺の顔を見た。
「……はい。ですが、この背信の徒にはお気を付け下さい……」
「……」
俺は小さく頷いた。
全て終わった。だが、全てが丸く収まった訳じゃない。ロビンが失った名誉と信頼は大きい。少なくとも、ルシールだけは永遠に認めないだろう。
「……これは、もう要らんな……」
ぐっと力を込めると、左手の薬指に填まった指輪が、さらさらと砂のように崩れ去った。
その光景を見たロビンが、小さく声を上げた。
「あ……!」
「何を驚く」
「あれは……あの指輪は……」
俺は鼻を鳴らした。
「誰も死なせたくなかった。その覚悟だ。それ以外の意味はない」
「……」
ロビンは正座の格好で、萎れるように俯いた。
「馬鹿め。何の為に、お前に暇を出したと思っていたんだ。寺院と関わるなと言ってあっただろう」
◇◇
全ては等しく、全ては等しくない。全ては語ると同時に無言であり、全ては理性的であると同時に非理性的でもある。
これは愛情についても同じ事が言える。
人が個々の事情から語るものは、しばしば矛盾する。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
俺は首を振った。
「……二度と俺から離れるな……」
「…………はい……」
項垂れ、正座したままのロビンは静かに涙を流した。
我ながら不器用な事だ。
俺という男は、絶望的に言葉が足らない。分かってはいる。
ロビンは静かに涙を流し、神力を使い果たした俺は、そのロビンに凭れ掛かるようにしてその場に腰を下ろした。
「……ロビン、今回は疲れた。少し休みたい……」
「……はい。お側に控えます……」
「うん……」
俺はもう疲れた。
今はもう、百年も千年も眠りたい。
「……今回は大勢殺したぞ。お前にだけは、関わってほしくなかった……」
共に肩を並べた同胞を殺すのだ。ロビンが苦悩しない訳がない。
「……」
「なぁ、ロビン。俺は、死ねば地獄行きだ。お前には幸せになってもらいたかったんだ。それだけは分かってくれ」
「……………………」
ロビンは答えず、ぽろぽろと大粒の涙を流し続ける。
「……疲れたよ。本当に疲れた……」
そして――
母の戯れる指先が運命を回す。奇跡の代償は……