147 アスクラピア
何処でもない場所。
何時でもない時間。
奇妙な部屋。
誰に教わる訳でもなく知っていたのは『刷り込み』の影響だろう。
「……」
ここは面白い場所だ。
強く念じれば大抵の場所に繋がる。大抵の物を創造できる。
尤も……それをするには『権利』が必要だが。
目の前に古ぼけたピアノが現れ、俺は敬愛する母の為に片手でソナタを弾く。
ベートーヴェンの『月光』。
俺は……元会社員だ。デカい会社で上に行くには、お勉強が出来るだけじゃ駄目だ。『特技』がいる。
俺にとって、『ピアノ』は、上に行く為に身に付けた『特技』の一つに過ぎない。
ピアノは格好を付ける為だけに身に付けただけの特技であり、好きでも嫌いでもないが、ベートーヴェンの作ったこの『月光』の第一楽章の美しい旋律だけは好きだ。右手が不自由なのがもどかしい。
俺が出来る事は全てやった。
後は、あのしみったれた女に全てを任せる。
静かに流れる楽曲の中、ぽんと肩を叩かれて振り返ると、そこに居たのはルシールだった。
「ディート、ここは……」
「奇妙な部屋だ」
短く答え、俺は母の為にピアノを弾き続ける。
「奇妙な部屋? 前にも言ってましたね。それは何処ですか?」
「何処でもない」
全て終わった事だ。
ルシールを招いたのは母だろう。こいつには当為がある。見届ける権利があるという事だ。
無限に続く闇の中、ルシールが静かに言った。
「……美しい曲ですね……」
聖女と大司教は、まだ来ていない。
「ああ……聞いてくれ……」
ここは何処でもない場所であると同時に、何処ででもある。そして、何時でもない時間であると同時に何時でもある。
地獄のような静寂の中、俺が片手で弾く不器用な旋律が響く。
「……ルシール。俺とお前、二人きりだ……」
そこに風情がある。
「はい、ディート。ああ……はい……!」
しかし、その旋律は唐突に終わりを告げる。
「ルシール、逃げるな! ……って、え? ディートさん?」
その声に、ぎくりとして振り向くと、黒い甲冑を纏った教会騎士と目が合った。
「ロビン……!」
『間合い』の外なら、或いはと思ったが、ルシールの転移に巻き込まれたか。
……運命。
その言葉が脳裏を過って消えて行く。
母の手は誰も逃さない。
レネ・ロビン・シュナイダーの運命は変えられない。
「……ロビン。お前は、どうして、ここに来てしまったんだ……」
何もない暗闇の中、ロビンは、きょろきょろと辺りを見回している。
「え、と……ディートさん。えと、ええっと、ここって、何処ですか……?」
「……」
聖女たちはまだ来ない。恐らくだが、母の創った別の虚数空間を漂っている。『権利』を持たない者にとって、ここは無限の牢獄だ。母の意思にもよるが、もう会う事はないかもしれないし、また出会う事になるのかもしれない。
全ては神の思し召しというやつだ。
ロビンは目尻を下げ、困ったように言った。
「……ディートさん。なんで、私を見て悲しそうにするんですか……?」
「……」
俺はまだ深淵を知らず、この奇妙な部屋の規則を分かっていない。ここで全てを決めるのは神だ。
つまり……
レネ・ロビン・シュナイダーの死は避けられない。
そして、虚無の暗闇から盲いた白髪の騎士が現れる。
「……よくやった、兄弟。後は俺に任せろ……」
「白蛇!」
俺より深淵に居るこいつなら、或いは。
「白蛇、母は何処だ! いつ来る!」
「間もなく」
だとすれば時間がない。
「兄弟、頼む! 俺はロビンを死なせたくない! どうすればいい!」
「え……私、死ぬんですか?」
そう言って自分を指差すロビンは、現実感がないのだろう。きょとんとしている。
白蛇は肩を竦め、小さく溜め息を吐き出した。
「……感心せんな。その女に、そこまでする程の価値はない……」
「兄弟、頼む……!」
この男は優しい。『弟』の俺には特に。
白蛇は呆れたように言った。
「……ひれ伏せ。動くな。喋るな。息を潜めて、じっとしていろ。何があっても、母と目を合わせるな……」
「すまん! 助かる、兄弟! この礼は必ずする!」
「いらん」
白蛇は素っ気なく言って、砂と風に草臥れた外套を翻した。
俺は跳ね上がるようにしてロビンの髪を引っ掴み、暗い地べたに押し付けた。
「い、痛い! ディートさん、痛い!!」
「うるさい! 黙っていろ! ルシール、お前も跪ずけ! 母が来る!!」
「え? あ、はい」
ルシールも現実感がないのだろう。緊張感の欠片もない表情で首を傾げ、跪く俺に倣って膝を着く。
そして――
一際高い中空に、古ぼけた高御座が現れた。そこには物憂い表情の青ざめた唇の女が座っている。
癒しと復讐の女神……
――アスクラピアが現れた。
◇◇
銀色の髪。物憂い表情。青ざめた唇。瞳の色は青。冷たい青。手には蛇が巻き付いた木の杖を持っている。
――アスクラピア。
俺は跪き、頭を垂れて視線を避ける。
このしみったれた女が来るといつもそうだ。全身から汗が噴き出して止まらない。
俺と同じように跪くルシールも、この異様な雰囲気に気付いたのか、跪いた姿勢で視線を伏せ、母を見る事はしない。
俺は、全力でロビンの頭を床に押し付けた。
そのロビンは、全身に冷たい汗をかいていた。俺が全力で頭を地べたに押し付けても何も喋らない。ひれ伏して動かない。
レネ・ロビン・シュナイダーは『超能力者』だ。通常とは遥かに違う感性を持っている。
だから理解している。
ここから先は、何があっても、決して喋ってはいけないし、動いてもいけない。そして何より、絶対に目を合わせてはいけない。
死神に顔を覚えられるから。
白蛇が言った。
「まずは……よくやった。兄弟」
素知らぬ体で話すのは、先の会話内容を母に悟られぬ為だ。
アスクラピアは何も言わない。
頬杖を着き、憂鬱な視線で俺たちを見下ろしている。何もかもに飽いたような表情。
その手に持った杖を無造作に振った。
瞬間、何もない暗闇から聖女と大司教。数十人の教会騎士が飛び出して来て――
アスクラピアを見上げた。
白蛇が、酷く冷淡に吐き捨てた。
「母の御前だ。頭が高い」
ただ一言。その一言で、教会騎士数十人を含めたエリシャとコルネリウスは叩き潰されたように地べたに押し付けられた。
白蛇は……こいつも化物だ。以前とは比較にならない神力を感じる。あの聖女すら雑魚扱いだ。
だが……
『聖女』エリシャ・カルバートは特別だ。造られた神の子。弄ばれた真理から生まれた無知の産物。
白蛇の神力に全力で抵抗し、顔を上げる。
「……母さま?」
そして見た。見てしまった。死神の姿をその目に焼き付けた。
白蛇は薄く嗤った。
「頭が高いと言っただろう。不躾な子だ」
わざとだ。白蛇はエリシャを押さえ付ける力が有りながら、わざと力を抜いて母と目が合うようにした。
エリシャは跪き、紫の美しい瞳から大量の涙を流した。
「母さま! ああ、初めてお目に掛かります! エリシャです! 母さまの子供です!」
その感極まったエリシャの言葉に、白蛇は失笑する事で答えた。
「お前など知らん、としみったれた母は仰せだ。控えろ」
「へぶっ!」
白蛇がパチンと指を鳴らすと、エリシャは短い悲鳴を上げて、床に叩き付けられた蛙のような格好で俯せになった。
その一部始終を見ても、邪神は表情を変えない。小声で何かしら呟き、白蛇が耳を寄せている。
「は……では、そのように」
白蛇が俺に向き直る。言った。
「……兄弟、やれ……」
「……」
俺は、俄に湧き出した生唾を飲み込み、立ち上がる。
エリシャは、じたばたと足掻いているが立ち上がる事はおろか、身体を起こす事すら出来ない。
まるで虫けらのようだ。
恐らく、白蛇やアスクラピアにとって、エリシャはその程度の存在なのだろう。
重たい沈黙があった。
アスクラピアが見つめている。
母が見つめている。
神が見つめている。
邪神が見つめている。
俺のする事を見つめている。
――アスクラピア。
こいつは、いったいなんなのだ。善なる者か、悪なる者か。その程度すら、ちっぽけな俺の価値観では測る事が出来ない。
――超越者。
重たい沈黙の中、俺は虫けらに歩み寄り、右腕に巻かれた包帯を外した。
「……」
蛇封じの呪詛が込められた包帯だ。刻まれた聖痕が激しく痛み、その苦痛に悲鳴を上げそうになるが全力で堪える。
右の手の平にある聖痕が、燃えるように熱い。
俺は、虫けらのように這いつくばるエリシャの髪を引っ掴んで持ち上げる。
「……」
俺が持つ『闇の瞳』と、聖女が持つ『紫の瞳』がお互いを睨み合う。
……危険な子供だ。幾つもの試練を命懸けで潜り抜け、正に『死神』と呼ばれる俺の力の全てを受け止めた。
エリシャは、紫の瞳にありったけの憎悪を込めて俺を睨み付けてくる。
「ディートハルト・ベッカー! お前は……!!」
「………」
神に似せて造られた劣悪な模造品とは、よく言ったものだ。その顔立ちは母にも似て……
「神力比べは、お前の方が上だったな。素晴らしい力だ。だが……」
尚も憎悪に満ちた紫の瞳で俺を睨む聖女の額に、右の手の平を押し付けた。
「……その力は、この世界に在ってはならん力だ……」
エリシャの額から、焼きごてを押し付けられたように白い煙りが上がる。そして――
「――うぎゃああああああッ!」
エリシャが恐ろしい悲鳴を上げた。その額には――
ジナから移し奪った逆印は、裏返り聖痕となって俺の右の手の平に残った。
それを、もう一度、今度は移し返すとどうなるか。
聖女エリシャ・カルバートの額に、邪悪な母の呪われた『逆印』が刻まれた。
「ひいいっ! ひいいいいいっ! いだいいだいいだいいだい!!」
額に逆印を刻まれたエリシャは、苦痛にのたうち回っている。
俺は振り返り、邪悪な母と見つめ合う。
「……母よ。俺は……子供は殺さん……!」
これで充分だ。
質の悪いガキに必要なのは強い躾で、命を奪う事じゃない。
『……』
そこでアスクラピアは、珍しいものを見たかのように片方の眉を持ち上げた。
『…………』
ほんの一瞬だが、口元に笑みが浮かんだような気がした。
『…………赦す』
「……っ」
その瞬間、俺は見えない重圧から解き放たれたかのように大きく息を吐き出した。
白蛇は肩を竦め、呆れたように言った。
「お前らしいよ、兄弟。だがな……それだけではすまん話もある」
そうだ。断罪の時は続く。
『……』
その白蛇の言葉に応じたように、アスクラピアが杖を振ると、暗闇に無数の聖印が出現する。
それらは全て銀の星と化して凄まじい速度で宙を飛び、大司教コルネリウス・ジャッジ他、数十人の教会騎士の額を撃った。
全ての者に『逆印』が刻まれた。
全ての者が、邪神の子々孫々、永劫に続く呪詛を受けたのだ。
「……ぷっく!」
その光景を見届ける俺の背後で、ルシールが堪えきれないと言った感じで吹き出した。
「くふっ! くふふふふふふ!」
可笑しくて可笑しくて堪らない。母が居なければ、ルシールは腹を抱えて嘲笑っただろう。相応しい罰を受けたのだと嘲笑っただろう。
邪悪な母は、こういった因果が大好きだ。笑いに噎せるルシールを一瞥して、小さく頷いた。
「……」
ロビンは、ひれ伏したまま動かない。見ていないが聞いている。鋭い超能力者の感性で全てを理解している。
白蛇は、そのロビンをちらりと見て、溜め息を吐き出すと同時に首を振った。
何度も何度も首を振った。
「…………兄弟。お前が選んだ道だ……」
「……?」
白蛇の言葉に嫌な予感がした。
俺は白蛇の言葉に従ってロビンを逆印の咎から外したが、それによって違う何かが生じた。
白蛇が言った。
「……青い狼の女。砂漠だ。死の砂漠を目指せ。そこで待つ……」
裁きは終わった。
だが……この裁きは、俺の意思により、著しく『公正』を欠くものになった。
俺……『神官』ディートハルト・ベッカーは『公正』の戒律を破った。
邪悪な母は何も言わない。
だが、あり得なかった『運命』が動き出す。何かが俺を捉える。迫り来る母の手からロビンを逃がしたのは俺の意思だ。それ相応の代償が必要になる。
母の戯れる指先が運命を回す。
その時、俺は…………