144 開戦
アシタが居ない事が痛切に悔やまれた。思い返せば、あいつの言った事は、その全てが金言だった。
ロビンが居ればゾイに手を汚させるような事もなかったし、スラムヤクザとの抗争でも、俺やアビーの負担は少なくて済んだだろう。
激しい怒りに目を赤く染め上げて、ロビンは唸り声を上げた。
「ルシールゥうゥう! ルシールゥうゥう!」
「あっはっは! 貴女のその顔が見たかったんですよ、シュナイダー卿!」
最早、泥沼だ。ルシールは嘲笑し、ロビンを煽る事を止めない。
ロビンが俺におかしな執着心を持っていた事は知っていた。しかし、それは優秀な神官である『ディートハルト・ベッカー』に向けられたもので、母への強い信仰心から来る執着だと思っていた。それが……
暑苦しい兜を投げ捨てたロビンの顔は、瞳どころか首筋まで赤く紅潮している。
「ルシールゥうゥう! どうせ、お前がディートさんを誑かしたんだろう!!」
高笑いするルシールは、激昂するロビンへの挑発を止めない。
「失礼な。そんな事しませんよ。負け犬の遠吠えとはこの事ですね。みっともない」
「やめろ、ルシール! ロビンを煽るな!!」
今の気分を例えるなら、妻に浮気現場を見つかった間抜けな亭主のような最悪な気分だ。
怒り狂ったロビンが吠えた。
「殺す!」
『犬』扱いする事は、プライドの高い狼人にとって、これ以上ない侮辱の言葉だ。
更にルシールは、ロビンを煽るように指輪の填まった左手を見せ付けるようにヒラヒラ振った。
ロビンは益々怒り狂い、その勢いのまま、遂に『抜剣』した。
隊長が剣を抜いた。それは『開戦』の合図に他ならない。
後方に控えた教会騎士たちも、この経緯に戸惑いながら『抜剣』して戦闘態勢に移行する。
俺が認める最強の戦士の一人、アレクサンドラ・ギルブレスは言っていた。
――青狼族が弱い訳がないだろ。
その瞬間、ロビンの姿は掻き消え、現れた次の瞬間には、剣を振り上げた格好でルシールの前に居た。
長剣での撃ち落とし。その斬撃は、躊躇のない一撃だった。
思った。
(あ、死んだ……)
ルシールが死ねば、死の婚約指輪の呪いにより、俺も死ぬ。だが、ルシールは朝星棒の鎖の部分で、ロビンの斬撃を既の所で受け止めた。
ルシールは護身程度の腕前だと言っていたが、そんな程度の腕前ではない。高位の修道女は、『戦士』としても弱くない。それを実感させた一幕だった。
鍔迫り合いになり、目前にぎりぎりと刃を押し込まれる形になりながら、それでもルシールは不敵に嘲笑った。
「おお、怖い怖い」
予め、俺の術による強化がなければ一刀両断にされて終わっていただろう。軽口を叩くルシールだが、その額には珠のような汗が浮かんでいる。
俺はすかさず二体の戦乙女を召喚して、ルシールの援護に回す。
おそらくだが、これでもルシールはロビンに敵わない。先の一撃を受け止める事が出来たのは、ロビンが激昂していて、ルシールには予測可能な行動であったからだろう。
力任せに剣を押し込むロビンに、ルシールが言った。
「シュナイダー卿。私を殺せば、ディートも死にますよ。それでいいんですか?」
「――つっ!」
刹那、ギクリとしたようにロビンは数メートル程も飛び退いた。
忌々しそうに言った。
「小賢しい妖精族の血を引く女。お前の事が、前から死ぬほど嫌いだった!」
距離を取り、額に浮かんだ汗を拭いながら、ルシールはいつもの澄ました表情で答えを返す。
「気が合いますね。しつこくて、いやらしい青狼族の女。私も、お前が大嫌いですよ」
正に水と油。二人の道は絶対に交わらない。これは『種族相性』とかいうものを超えている。
二人が睨み合うその間も、俺は強化の術を重ねて召喚兵とルシールを援護する。同時に――
◇◇
母の前でお前たちは身を屈める。
――低く。
戦いを控えるお前たちの姿を、母は一切見ようとしない。
戦いを終えて尚、母はお前たちを誰一人、さし招く事はしない。
竪琴を鳴らして歌う詩人たちは、黙々として耳を澄ましている。
優しい婦人たちも、皆、逃げてしまった。
百の勝利は金色に輝き映える。そこに百の花輪が飾られる事があっても、母だけは見向きもしない。
やがて棺の前に、お前たちの死を惜しむ者たちが身を屈め、ソケイを添える。
やがて朽ち行くお前たちの墓標に、母は月桂樹を投げ込み去る。
それきり、母はお前たちを振り返ろうとしない。
《失意》の祝詞。
◇◇
戦闘態勢に移行した一個中隊の教会騎士は、術の効果により僅かに引き下がり、著しく戦意を喪失したようだったが、驚くべき事にロビンだけは俺の術を無効化した。
ここに至り、教会騎士レネ・ロビン・シュナイダーの強さは未だに底が知れない。これが教会騎士の中隊長クラスの標準とするなら、教会騎士の軍勢は強すぎる。俺の手に負えない。
ルシールが叫んだ。
「ディート、先に行って下さい! ここは私が引き受けます!!」
「……!」
これも戦術の一つなのだろう。ロビンはルシールに釘付けで、この場を離れる事はない。
激昂し、正常な判断力を失ったロビンが率いる一個中隊の教会騎士たちもそれに従う。戦意を喪失した者たちなど、そんなものだ。召喚兵との不毛だが安全な戦いに終始する事になる。
俺は予め召喚してあった剣闘士と聖闘士の部隊を残し、自らに素早く術を施して強化された脚力で戦場を離脱した。
間抜けな話だが、俺を追う者は一人として居ない。
激昂したロビンはルシールに釘付けだ。失意の術により、中隊の教会騎士にはまともな戦意などない。俺という『子供』を一人見逃した所で、それがなんだというのだ。纏まりを欠いた部隊の思考など、そんなものだ。
ただ一人、戦場を離脱して寺院を目指す俺は、このあまりにも酷い戦術に天を仰いで嘆いた。
「……なんと見苦しい……」
二体の戦乙女と総勢四百体の召喚兵を率いて戦うルシールだが、隊長であるロビンは元より、中隊規模の教会騎士を打ち破るには心許ない戦力だ。
そして、強力な騎士であるロビンだが、死の婚約指輪の効果により、ルシールを討ち取れない。勿論、ロビンが本気で俺を殺すつもりになれば話は別だが、そうなるようには思えない。
ルシールの狙いは不毛な消耗戦だ。その作戦は上手く行ったが、これはあまりにも酷い。
生きて帰った暁には、割れるまでルシールの尻を蹴飛ばして、ロビンには手を着いて頭を下げる羽目になるだろう。
高速で駆け抜けながら後方を見ると、最早陣形も何もない乱戦に突入していた。
二体の戦乙女の防御力を生かして戦うルシールと、未だ『俺を護る』という当為に縛られるロビンが激しくやり合っている。
ルシールは敗れるだろう。だが、ロビンはルシールを殺せない。多少怪我をさせるかもしれないが、せいぜい捕縛するという結果に落ち着く。あまりに酷い戦術だが、時間稼ぎとしては悪くない。
「……馬鹿共が……」
呆れて言葉もないが、その反面で、これでいいと思う俺もいる。
ルシールとロビンの安全が確保されているなら、俺は存分に戦える。
「……では、改めて……」
寺院の開け放たれたままになっている門戸を駆け抜けた所で、俺は足を止めた。
そこでは、二人の教会騎士が門番を勤めており、大声で誰何された。
「何者だ! 名乗れ!!」
『ディートハルト・ベッカー』が子供で良かった。門番の教会騎士は明らかに油断しており、俺を危険な存在と見なさない。
警備態勢は緩い。兵法は拙速を尊ぶ。この段階で俺の襲撃を予想していたロビンが異常なのだ。
白い神官服。背中には帝国の燃える日輪の紋章を背負い。
斯くして俺は名乗りを上げる。
「ディートハルト・ベッカー」
寺院に所属する全ての神官の神官服は黒と決まっている。見慣れない白い神官服を纏う俺に、教会騎士の二人は戸惑いを隠せない。
「なんだ、その白い神官服は……」
俺は鼻を鳴らした。
「ザールランド帝国、大神官」
「なんだと?」
さて、ゲオルクの爺さんは、この決戦に駆け付けるだろうか。間に合えば、教会騎士たちとも互角にやり合える。
俺はアスクラピアの神官らしく、腰の後ろで手を組んで胸を張った。
「『聖女』エリシャ・カルバートと『大司教』コルネリウス・ジャッジの命を頂きたい」
子供の言う事だ。門番の教会騎士二人は面白そうに笑った。
その正体を知っていれば、子供だからと笑う事などなかろうに。
一歩、前に出る。この門番二人は役立たずだ。寺院の『神聖結界』内に入った。
俺は三割増しで強くなる。
「俺を見ろ」
それが、最期に見る者の姿になるだろう。
「俺を見ろ」
「白い神官服の子供。我々は帝国所属の神官など知らん」
「そうかね」
その存在を知った時には、もう遅い。
「俺を見ろ」
何度も同じ事を繰り返し言う俺を、門番の教会騎士二人は笑っている。
「忘れるなよ。俺はディートハルト・ベッカー。アスクラピアの子」
次は迷いなく殺すと言ってある。だから、容赦なく殺す。
「俺を見ろ」
俺は嗤う。その身体は青白く輝き、銀の髪に星が舞っている。
「な……!」
そこで漸く門番の教会騎士二人は恐れ慄く。
「そ、その姿は……」
そう。彼らの信仰対象の姿に似たそれは……
「俺は」
その正体は……
「死神だ」