140 大神官
天然痘ワクチン製造法の提供条件として、アビーが求めたものは二つ。
パルマの自治権と徴税権の完全放棄。
そもそも、このパルマはスラム化しており、帝国から見放されている。話は簡単なように思えるが、それでも『自治権』となると話は変わる。この話の裁量はゲオルクの手に余り、帝国宰相、果ては皇帝にまで及んだ。
天然痘の脅威に晒された帝国に選択の余地はない。
国家の危機が解決出来るのだ。ゴミ箱の一つぐらい放棄する。ただ、自治権だけは許す事は出来ず、帝国内部での議論は紛糾した。
そして、のんびり話し合う間にも人は死ぬ。無視できない範囲で死に続ける。
結果として、帝国は二日間で結論を出した。
女王蜂との間に交わされた契約は以下のものになる。
ザールランド帝国は、パルマの自治権を認める。ただし、代官を派遣して監視する。
代官の存在は形の上だけの事だ。実権はアビーの手にある。派遣された代官には何の権限もない。人頭税や関税を含めた徴税権の全てがない。罪人を捕まえる権利も裁く権利もない。
恐ろしい事だ。このパルマの代官に誰が指名されるかは分からないが、俺なら泣いて嫌だと拒絶する。何故かと言えば、殺されても実権を持つアビーが知らんと言えば、話はそれまでだからだ。
尚、契約の書状には、俺が強い呪詛を掛けた。
書状には皇帝や宰相を含めた国家の重鎮の名が並んでいる。そこには、帝国騎士団団長のゲオルクや憲兵団団長のトビアスの名前もある。
第一階梯の神官が本気で込めた呪詛だ。帝国が一方的に契約を破棄した場合、書状に名を記された者は死ぬ。その呪いは第三親等まで及ぶ。正に『根切り』と呼んでいい強烈な呪詛だ。
それを聞いた皇帝は、しつこく交渉を繰り返し、最後までサインの記入を渋ったが、結局は契約の書状にサインした。
その決断に至った理由は、しつこく繰り返した交渉の結果、アビーが折れるという形で書状の最後に付け加えた一文による。
契約は、百年を以て満了とする。
如何な俺といえど、神でもあるまいし、永久に続く呪詛など掛けられる訳がない。よく持って三年だ。
アビーは大笑いしていたが、酷いはったりだ。帝国は、最低でも三年。酷ければ、百年に渡ってパルマの存在に苦しむ事になる。
正に獅子身中の虫。パルマは、帝国内にある外国になったのだ。
帝国で犯罪を犯した悪党と無法者が、大勢パルマに逃げ込む。同時に関税のない場に商人が多くの物資を持ち込む。金が唸り、人口の流入は止まらない。経済が恐ろしく発展するだろう。
金と罪が唸る街、パルマが誕生し、そこに女王蜂が君臨する。
だが、ザールランド帝国もタダでは転ばない。
アビーの右腕たる俺……『ディートハルト・ベッカー』を帝国所属の神官として迎える事を要求して来た。
これも可能性の一つとしてある話だとアビーには言ってあった。どうするかの決断は任せるとも。
ただ、寺院が第一階梯の神官である俺をいつまでも放置する訳がない。あらゆる手段を使って俺を確保しようとするだろうとも言った。
アビーは熟慮の結果、帝国の要求を受け入れた。今の自分の力では心許ない。俺の後ろ楯に帝国を置く事で寺院を強く牽制する為だ。
帝国は、帰順した俺の存在により、神官と癒者を囲う寺院の存在に皹を入れる事になる。
帝国にとって、これは大きい。
これまでは、神官や癒者を独占する寺院にやりたい放題されていたが、第一階梯の神官の帰順により、事情が変わる。
寺院が聖女を戴くように、帝国は俺を戴く。つまり、新たに帝国に属する教会と寺院が作れる。無茶苦茶な喜捨を要求しない、帝国に都合がいい治療機関が出来るという事だ。
アビーとの契約はデカい損失だが、俺の帰順は、帝国にとって、それに負けない利益がある。
寺院の元締めである『神殿』はニーダーサクソンにあるが、第一階梯の神官である俺が作ったものなら『新しい寺院』の存在を認める。第一階梯の神官には『教皇』により、それだけの権利が保証されている。
つまり――
このザールランド帝国に、今の寺院は必要なくなる。俺が今すぐ寺院を叩き潰したとしても、帝国は喜ぶだけだ。寺院が潰れれば、その周辺の教会は帝国に帰順するより他なくなるからだ。
準備は終わった。
「……ルシール。寺院を潰すぞ……!」
「あぁ、遂に……」
ルシールは何度も聖印を切り、跪いて祈りを捧げた。
さて……まずはどうしてやろうか……。
太陽の紋章を背負う純白の神官服を身に纏い、一階に降りると、客室では、数人の護衛の騎士と共に、のんびりと茶を啜るゲオルク爺さんが居た。
「お、我が国の大神官殿ではないか。体調を崩したと聞いとったが、無事そうだな。漸く目が覚めたのかね?」
アビーは余程無茶をやったのだろう。ゲオルクの口振りは、とてもでないが俺の体調を気遣うものに見えない。
「ふん、爺さんか。体の具合は問題ない……」
だが……
「大神官?」
「我が国の神官だ。しかも第一階梯。取り敢えず、そう呼ばせてもらう。正式な名称はこれから考える。そうだな……もう少し歳を食えば大司教という所か……」
ゲオルクは薄く笑った。
「白い神官服が似合っとるな。これからは、帝国の為に身を粉にして働いてもらうぞ?」
俺は嗤った。
「ははは、爺さん。それもいいが、先ずはやってもらいたい事が一つある。いいか?」
「なんじゃい、言うてみい。聞いてやらん事もない」
ゲオルク爺さんのデカい態度からして、帝国は俺を散々利用するつもりなのは分かる。だが……
「帝国の名に於いて、寺院に聖女エリシャ・カルバートと大司教コルネリウス・ジャッジ。小物だが、ついでに教会騎士レネ・ロビン・シュナイダーの身柄を引き渡すように要求して欲しい」
「…………」
ゲオルク爺さんは、たちまち笑みを引っ込め、顔色を土気色にした。
「ヌシゃあ、ほ、本気で言うとんのか……?」
「本気だとも」
俺は請け合った。
「俺を戴く今の帝国なら出来るだろう。どちらに正統性があるか、はっきりさせるんだよ」
この帝国に寺院は二つも要らない。それは帝国にとっても規定路線である筈だ。
「そ、それは、まだ早い……!」
「じゃあ、いつならいいんだ? 歳は取りたくないな、爺さん。俺は行く。怖いなら、指を咥えて見てるんだな」
俺が死ねば、帝国が将来所有するだろう新しい寺院の話は流れる。天然痘は解決するが、契約済みの女王蜂が君臨するパルマは残る。
勿論、帝国は大損だ。
ゲオルクは紅茶の入ったティーカップを投げ捨てて吼えた。
「ヌシゃあ、イカれとんのか!?」
俺は腹を抱えて笑った。
偉そうにふんぞり返ったヤツが顔色を変える瞬間ほど楽しいものはない。
「爺さん。今まで、寺院には好き勝手やられて来たんだろう? 悔しくないのか? 天然痘の解決に三千億シープの喜捨を要求されたんだろう? 笑って済ませるのか?」
「悔しくない訳があるか! じゃが、何にでも順序がある! それをすっ飛ばして、いきなり喧嘩が出来るか!!」
俺はせせら嘲笑った。
「順序か。腰抜けめ」
「ヌシゃあ、まだガキじゃろうが! もちっと時間掛けんかい! そんな事も分からんのか!!」
所が、俺にはそうもいかん理由がある。
「見ろ、爺さん」
俺は神官服の袖を捲り、ルシールが血で書き綴った神字の包帯が巻かれた右腕を掲げた。
「なんじゃ、そりゃ?」
「敬愛する母の呪いよな。俺は、あと一月も生きられん」
「なんじゃと?」
そこで俺は、気取った仕草で頭を垂れる。
「しみったれた母は、聖女様と大司教様の命を欲して居られる」
「な……は……?」
以前から啓示を受けていた俺と違って、爺さんには付いて来れない話だろう。
「そういう事だ、爺さん。俺には時間がない。駆け抜けるだけだ」
「……アスクラピアが……まさか……いや……」
この唐突な展開にゲオルクは困惑している。無理もない。逆の立場なら俺だって困惑する。
「これは、母の呪だ。除けるとしたら、母だけだ」
俺は『アスクラピアの子』。
母の欲する物を差し出さねば、俺の命運は尽きる。
帝国は、俺と足並みを揃えて寺院を誅するか、それとも現状維持に努めるか。爺さんの言う通り、時期尚早だと言う事は百も承知だ。
だが――今が決断の時。
俺のすべき事は終わった。
パルマに残るアビーも、膨張し続けるパルマに君臨するという特大の試練が待っている。
「俺は、この足で寺院を潰して来る。生きていれば、また会おう。その時は、腰抜けの爺さん。あんたの言う事は、一切聞かんがな」
俺は純白の神官服の裾を翻す。
その後に、ルシール、ゾイ、フランキー、ジナが続く。
さて、軍権を握るゲオルク爺さんはどうするか。
「ま、待て! まずは話し合いを……」
俺は鼻を鳴らした。
「今の寺院には、それが手緩いと、しみったれた母は言っているんだよ」
「ぬう……」
俺の言葉に、ゲオルク爺さんは鼻白む。利権を貪る今の寺院には、散々煮え湯を飲まされのだ。冷静に考えれば、神の怒りに触れるのも順当な事と言える。
「心配するな。あんたには何も期待していない。だから俺がやるんだ」
「……っ」
少しは期待出来るかと思っていたが、この後に及んで「話し合い」とか言ってるような腰抜けには、手に余る問題だ。
「じゃあな、老い耄れた爺さんよ」
俺は、一人でもこの道を踏み締めて行く。
それだけだ。