138 緩やかな革命
時は数日前に遡る。
長屋にあるアビーの自室での事だ。
「はん? 寺院と揉めるだってえ!?」
俺が、はっきりと寺院との決別と敵対の意思を表明した時、アビーは驚きつつも複雑な表情をしていた。
俺……ディートハルト・ベッカーを手元に置き続ける以上、この女王蜂も寺院との敵対は避けられない道だからだ。
「俺の襟章を千切って捨てたのは、お前だ。アビー」
「……あぁ」
疲労困憊の状態であり、判断力が怪しい状況でやった事だ。俺としては、アビーが弱腰になり、引き下がるのならそれでもよかったのだが……
意外にも、アビーは寺院との敵対をあっさりと受け入れた。
「……まぁ、しゃあないね。んで、あんたはどうなのさ。寺院と揉めて勝算はあんのかい……?」
「やってもない事が分かるか」
と言っては見たものの、強大な寺院を敵に回して、必ず勝つとは言えない。寧ろ、負けの目が濃い選択だ。
「ふぅん……」
アビーは俺に抱き着いて、俺のポケットから伽羅の破片を取り出したかと思うと、それを自分の口の中に放り込んだ。
「……さて、どうしようかねえ……」
それから親分専用のソファに寝っ転がり、口の中で伽羅を転がしながら、考えること暫し。
アビーは、ぽんと手を打った。
「いいよ、やろう。寺院は前から気に入らなかったんだ。思い切って、やっちまおう」
「……」
俺は内心で笑みを浮かべた。
アビーは気付いてすらいないが、強い『直感』がその判断に影響を与えない筈がない。
「あたしゃ、大悪党になるって決めたんだ。あんたが一緒なら、それも悪かない」
「……そうか」
アビーの『直感』が、どの方向に働いたかは分からない。だが、戦える。『俺』という存在は、寺院を敵に回して戦える。
「それで? お次は、どこをへこませるんだい?」
俺は笑った。笑って言った。
「ザールランド帝国だ」
話は長時間に及んだ。
俺が計画の全てを話し終えると、ソファに転がったままのアビーは、手を打ってケラケラ笑った。
「そいつぁ、豪気だ!」
◇◇
そして、今だ。
エヴァとジナを含めた数人の部下を引き連れて、ベックマン邸にやって来たアビーは、ザールランド帝国三人の重鎮を一瞥して、興味なさそうに小さく鼻を鳴らした。
「オッサンに爺さんかい。湿気たツラが並んでるねえ」
そのあまりに無礼な言い様に、ゲオルクは眉間に深い皺を寄せた。
その顔に、こう書いてある。
……なんだ、コイツ?
今のアビーは、このパルマを支配するスラムヤクザの筆頭だ。最早、肩を並べる者はなく、足を引っ張る者も居ない。
この国の重鎮も、女王蜂の存在を知る事になる。惨めな思いをさせられる事になるだろう。
アビーは俺の隣に深く腰掛け、お行儀悪くテーブルの上に足を投げ出した。
のっけからかました。
「それで、お偉いさん。パルマを捨てたのは、あんたたちだろう? 野面晒して、いったい何しに来たんだい?」
「――っ!」
その無礼極まる言動に、いきり立とうとした副長のイザークと憲兵団団長のトビアスの二人を制止したのはゲオルクだ。
「待て、二人共」
「……」
アビーはニヤニヤ笑っている。
不敵な笑みを絶やさないアビーに、ゲオルクが用心深く言った。
「……失礼だが、お前さんは誰かな……?」
「あたしゃ、アビゲイル。アビーって呼びな。親分でもいいよ」
そこで、俺は態とらしい咳払いをした。
ビジネススタイルは、もうやめだ。
「爺さん、言ってなかったが、俺はこのアビーの部下なんだ。ここからの話は親分とやってくれ」
俺がそう言った時のゲオルクの表情は見物だった。
「……」
ぽかんとして言葉もない。
ここに『三人』だけで来るぐらいには度胸も分別もある爺さんだ。一国の騎士団を纏める以上、それなりに優れた人材である事は間違いない。それが、驚きのあまり言葉もない。
まぁ、そうだろう。
第一階梯の神官がスラムヤクザの構成員とは思いもしまい。
「俺は俺でやる事がある。アビー、ここは任せて問題ないな?」
「問題ないねえ。行って来な。でも、護衛はちゃんと付けるんだよ!」
「あぁ、分かってる」
ゾイとフランキーに、新しくやって来たジナ。そこにルシールを加えて俺は交渉のテーブルを降りる。
さて、女王蜂はワクチンという餌でどれだけの物を帝国から毟り取るだろう。
だが、三人だけでやって来た爺さんの心意気には評価すべきものがある。
その心意気に免じて言った。
「誠実に時間を利用する事だ。何かを得ようとするなら遠くを探すな」
「……っ」
鋭いゲオルクは、それで全てを察したようだ。
俺とアビーとを何度も見比べ、落胆したように大きく溜め息を吐き出した。
「……アスクラピアの子にとって、我々は交渉する価値すらないという事か……」
正しく、そうだ。
今度こそ、誠実に対応するのだ。さすれば道は開かれる。
……多分。
「ではな、爺さん。今度は間違えるなよ」
若い内の過ちは極めて結構だ。それが己を成長させるだろう。だが、年寄りと愚か者はそうするべきではない。
どちらも、命が短いのだから。
去り際、エヴァが、俺にだけ聞こえるように小さい声で呟いた。
「可哀想に……絶対、あんたが一番のヤクザだっての……」
俺は変わらない。
冷たくて悪い男のままでいる。
◇◇
この世界の特徴として、獣人は多産傾向にある。一度の出産で、最低でも二、三人の子供を出産する。そして人頭税を払えない家庭がパルマに子供を捨てる。それはもう、いとも簡単に捨てる。
この『人頭税』に因って孤児が増えた。そして、ザールランド帝国は増え過ぎた孤児たちの受け皿としてスラム街としてのパルマを作らねばならなかった。
人頭税を納める必要のないパルマの住人に人権はない。法を犯して捕まる事もない代わりに、あらゆる法の優遇措置から除外される。このパルマは力が物を言う場所だ。弱者は食い物にされるだけだ。
ゲオルク。イザーク。トビアス。彼等はスラム街の住人をナメている。この国のシステムを造り上げた『皇族』や『貴族』を恨む民衆をナメている。
俺はアスクラピアの神官らしく、スラム街出身であるアビーを代表に、帝国に対して復讐する機会を与えた。
まぁ、幾つか条件は出したから帝国が滅びるような事はないが、笑えない損害を受ける事だけは確かだ。
そして俺は、邸にある一室で、三人の教会騎士の中から一人を選び、尋問していた。
「先ず……お前らは何をしに来たんだ……? まさかとは思うが、暴力で俺を捕らえに来たのか?」
「そ、それは……」
教会騎士の一人、クリストフは中隊の隊長でもある。恥じ入ったように俯いた。
「…………」
沈黙は肯定の証。
「まるで罪人だな。何条もって、俺を捕まえるつもりだった?」
クリストフは、酷く言いづらそうに乾いた唇を舐めた。
「…………さ、殺人、放火、強盗、誘拐……他にも……その、あります……」
勿論、俺は仰天した。
「おお……とんでもない悪党だな、そいつは……」
スラムヤクザを皆殺しにした事を言っているのだろう。だが、放火と強盗に関してはアビーの仕業だ。誘拐の方は、奴隷だった者を勝手に解放した事を言っているようだ。
「だが、それは帝国憲兵団の仕事だ。お前ら教会騎士の仕事じゃない」
その帝国憲兵団にしても、過去から現在に至るまで、パルマの治安維持を放棄していると言っていい。
ここは『ゴミ箱』だ。
この国の歪んだシステムを維持する上で、出来上がったゴミを捨てるゴミ箱。
「しかし、大司教と聖女が貴方を捕らえろと……」
「ふむ……」
ここで聖女が出て来るか。しかも大司教のおまけ付きと来た。
俺は少し考えて、それから言った。
「確かに、俺は人を殺した。大勢殺した。麻薬売買や人身売買、果ては誘拐や強請たかりを商売にしているような連中だ。人として許せなかった。それは……いけない事なのか?」
「それでも、罪は……罪です……」
正論だが、俺は酷く気分が悪くなった。
「そうだな。いずれその報いを受ける日もあるだろう。だが、それをするのは、お前たちじゃない。お前たちにその権利はない」
このザールランド帝国は、ちゃんとした法治国家ではない。貴族や皇族という一部の特権階級が多数を支配する封建制度の国家体制を敷いている。
そこで生まれたゴミは、パルマへ捨てられる。
帝国からしてみれば、そのゴミ箱の中で起こった出来事などどうでもいいだろう。
「まあいい。お前らが上に従って、考えなしに憲兵の真似をしたという事は分かった」
ちなみに、俺はこの国の政治体制に興味はない。どのような政治体制であれ、所詮はそれを扱う者次第だ。そもそも俺は政治家ではない。
「……確か、まだ罪状があると言ったな。それはなんだ?」
「……」
そこで、クリストフは複雑な表情を浮かべた。
「……貴方は、外法を使われた……教会法に抵触しています……」
『外法』。確か、グレタとカレンが言っていた『悪魔の邪法』とやらだ。あの時は、アスクラピアの術以外の方法による治療……外科的処置に対してその言葉を使っていたが……寺院はそれを知らない筈だ。では何を指して外法と言っているのだろう。
思い当たる事は一つしかない。
「それは……ひょっとして、ワクチンの事か……?」
「……そ、そうです。あの得体の知れない錬金薬の事です……」
「…………」
俺は軽い目眩がした。
まるで原始人を相手にしているような……俺の世界の歴史を否定されたような……虚しさと苛立ちとが入り混じった複雑な気持ちになった。
「なあ……一つ聞くが、俺が聖エルナ教会に送ったワクチンをどうした?」
そこで、クリストフの視線が激しく揺れた。
「げ、外法の産物です。あれは、は、破棄しました……」
「……」
その行動に関して怒りは湧かない。ただただ、愚かだと思うだけだ。
「あれだけで、何人の命が救えたか、お前は知っているか?」
「…………」
このパルマでワクチンが爆発的な効果を発揮して、天然痘が終息に向かっている事は、人口の逆流入が何よりも強く物語っている。帝国が動くぐらいだ。寺院や教会騎士が、それを知らない訳がない。
「わ、私は……」
「ああ、無理して答えなくていい。お前たちには何も期待していない」
俺は首を振った。
猿と知性ある会話をするのは不可能だ。俺はこの教会騎士たちに対する尋問を断念した。
「ルシール。この猿共からポリーの居場所を聞き出しておいてくれ。必要なら術を使え。拷問も許可する」
猿に人権はいらん。このパルマの流儀でやらせてもらう。
「…………はい」
短く答えたルシールの目は、何処までも冷やかなものだった。
それも当然だ。
俺は知識を出しただけで、ワクチンの製造と接種に一番積極的だったのがこのルシールだ。一般人から商人に至るまで、ルシールの顔を知らぬ者は居ない。パルマでの天然痘終息はルシールの功績と言っても過言ではない。
俺は神官服の裾を翻す。
猿共が何か言い訳めいた事を喚いていたが、聞こえない。聞く価値がない。
俺は……大勢を殺した。
そして、この世界にない知識を使って大勢を生かした。
母の力に依らない方法だ。この世界では『革命』とも言えるだろう。
川の水が流れるように、全ての事象は変化して行くものだ。その変化を受け入れられない時、人は緩やかに滅びの道を辿る。
「緩やかな革命、か……」
なんとなくだが……アスクラピアが俺を喚んだ訳が分かったような気がした。