132 怒り
俺は激しい怒りに震えていた。
奪われたワクチンはどうでもいい。大した数じゃない。そもそも、このパルマで実績を上げた上でワクチンの製造法はザールランド帝国に流すつもりだった。
問題は、聖エルナ教会に残ったポリーら四人の修道女たちの事だ。
新しいワクチンの製造法は、書面にしてポリーに送ってある。ポリーがその書面を素直に寺院に渡すようならいいが、その光景が想像出来ない。
もし、ポリーらが俺に義理立ててワクチンの作製法を秘匿した場合、寺院や教会騎士たちは何をする?
考えが甘かった。
俺は『寺院』がそこまでやるとは思わなかった。パルマの救済に多額の喜捨を要求した事も、俺がパルマ入りしてからの行動を考えると、関わらない方がいい事だ。
スラムヤクザを皆殺しにした事は俺の判断だが、ワクチンが間に合わず、瀕死の天然痘患者に『死者の送別』を使って回った事、あれは違う。アスクラピアの子の義務だ。関わらない方がいい事だ。やらずに済むなら、その方がいい。
どのような理由があれ、人を殺して回るなど、死神か悪魔の所業でしかない。
そう実感した時、寺院が要求した多額の喜捨は迂遠な拒絶とも取れ、俺には、それが悪い事ばかりだとは思えなかった。
関わらずにいた方がいい事もある。
必ずしも『寺院』の存在は悪ではないかもしれない。あれを非道な守銭奴と見切るのは、まだ早いかと考えていた。だが……
「聖エルナ教会を襲撃しただと? 彼女らに何の罪がある? 何もしていない! ワクチンが欲しいのなら、何故、堂々と俺の下へ来ない!!」
俺は、このパルマで、決して許されない事をした。罰されるとしたら俺だ。それが死神の裁きというなら、甘んじて受けよう。だが、助祭として残したポリーは違う。尋問されている可能性がある。寺院のクズ共が実務的なリアリストなら、拷問を受ける可能性すらある。
あまりの怒りに全身から神力が溢れ出し、銀の髪が音を立てて巻き上がる。
「……遊びは終わりだ……」
何もかも知った事か。この足で寺院に向かう。奴らを皆殺しにしてでもポリーらを助け出す。
俺は鼻を鳴らした。
「……アレックス。ワクチンならアビーの塒に行け。ゾイ、フランキー、ジナ、お前たちはアレックスたちとアビーの下へ帰れ。これは命令だ……」
――ロビン!
――――ロビン!!
――――――ロビン!!!
あいつとは、信念の違いから衝突する事も多かったが、まさかここまでするとは思わなかった。
いや、遂にやったというべきか。
あの狂信者は、俺の最も激しい怒りに触れた。
「……殺してやる……」
もっと早くそうしておくべきだった。俺のあまりにも激しい怒りに、アレックスすら息を飲む。
「ちょ、ディート……」
「……黙れ。今の俺に声を掛けるな。誰でもいい気分なんだ……」
神官服の裾を翻し、その場を立ち去ろうとした俺に――ゾイが言った。
「罠だよ。行けば、シュナイダーの思うつぼだ」
「…………」
「ディは優しいから、こうすれば絶対にやって来る。それがシュナイダーの考えだよ」
「だから……?」
これが罠だという事は百も承知だ。だが、ポリーらが危機的状況にある事は間違いない。俺にはこうする以外の選択肢はない。
だが、ゾイは真っ向から俺の考えを否定した。
「ポリーさんたちは無事だよ」
俺は激昂して叫んだ。
「その保証が何処にある!!」
身を焦がすような激しい怒りに神力が溢れ、辺りに青白いプラズマが迸るが、それでもゾイは怯まない。
「もし、それをしたら、ディは絶対にシュナイダーを許さない。だから、シュナイダーは絶対にポリーさんたちを傷付ける事はしない。出来ない」
「あの傲慢なレイシストが信じられるか」
お喋りは、もう沢山だ。
レネ・ロビン・シュナイダーは殺す。聖エルナ教会を襲撃した教会騎士も全員殺す。寺院に居るクズ共も全員殺す。
「ゾイなら、罠を張る。ディを怒らせて、冷静で居られないようにして、誘き出して捕まえる」
「……」
「シュナイダーじゃない。ゾイを信じてほしい」
「…………」
「ディ、少し頭を冷やして。放って置いても、シュナイダーは自分からやって来るよ」
「……………………」
理屈では分かっている。ポリーらが捕らえられているとしたら、それは体のいい人質だ。ゾイの言う事は正しい。だが、俺はどうしてもこの怒りを抑えられない。
「今は何も考えないで、ディ」
「……」
「もし、ポリーさんたちに何かあった時は……ゾイを殺していいよ」
「……っ!」
これもルシールの薫陶の賜物だろうか。
ここで、俺は思い疲れる。
己の言葉に命を賭けてまで、俺を制止するゾイの言葉に逆らってまでする事ではない。
ポリーらはともかく、レネ・ロビン・シュナイダーの命にそこまでの価値はない。
「……」
俺は静かに息を吐く。
「……分かった。ゾイ、お前を信じよう……」
「うん、ありがとう」
「……」
俺は静かに聖印を切り、僅かな時間瞑想する。
ロビンではない。ゾイの知性と判断を信じるのだ。
瞑想を終えた時。
辺りは、妙に静まり返っていた。
情報を伝えたアレックスは大汗を流してその場に立ち尽くし、アネットは腰を抜かしてへたり込んでいる。
ジナは怯え、壁にべったり貼り付いたフランキーの陰に隠れようと必死だった。
宿屋の親父とマリエールに至っては、いつの間にか姿を消していた。
◇◇
暫くして――
マリエールの取った宿の一室で、俺は地獄のような静けさの中で落ち着いていた。
「……まず、アレックス。お前が壊した宿の調度品は弁償しろ……」
「あ、ああ……」
「宿屋の親父にも、きちんと詫びておけ。このパルマでの狼藉は俺が許さん」
「わ、分かった。もうしない……」
いつの間にか戻って来たマリエールは窓枠に腰掛け、口の中で飴玉を転がしている。一見、アホのように見えるが、この女の頭脳は驚くほど明晰だ。
「……マリエール。ロビンの一件をどう思う……?」
「ドワーフの子と同じ。あの教会騎士に、そんな度胸はない」
「……何を根拠に……」
「先生に説明しても、絶対に理解できない」
「……」
マリエールの言葉に、何故かアレックスとアネットの二人が深く頷く。
ゾイが言った。
「……多分だけど、アシタがもうなんとかしてると思う……」
「アシタが……?」
何故、そうなるのか深く考えるが、答えは出ない。出口のない迷路に迷い込んだようだ。
フランキーが、おどおどと言った。
「そ、それより師匠。こ、ここには、仕事で来たんだよな……?」
「うん? ああ、そんな話だったな……」
今はもうやる気がない。そんな気分じゃない。
俺はぞんざいに言った。
「アレックス、アネット、マリエール。賭場を開くんだ。金を貸してくれないか?」
アレックスとアネットは異口同音に言った。
「「はあ?」」
だが、マリエールだけは即答してくれた。
「いいよ。幾ら?」
「金貨で二、三百枚。多ければ多いほどいい」
アビーも金がない。どうせ借りるなら、多ければ多いほどいい。
マリエールは少し考えて、それから言った。
「金貨で千枚までなら貸せるけど、条件がある」
俺は僅かに怯んだ。
金貨で千枚というと、約一億シープ。遠造が貯め込んでいると言っていたが、確かにマリエールは貯め込んでいる。
「うん、なんだ。言ってくれ。利子か? それなら十日で一割で――」
その俺の言葉を遮って、マリエールが言った。
「返さなくていい。その代わり、先生、一緒に暮らそう」
「……なんだって?」
これはロビンのせいだ。少し怒り過ぎて、耳と頭がおかしくなった。俺が痛む頭を抱えていると、代わりにゾイが答えてくれた。
「エルフの人は、無理しなくていいよ」
「無理してない。お金で先生が買えるなら、そうするだけ」
「ディは売りものじゃないよ」
マリエールは口の中で飴玉を転がしている。表情を変えずに言った。
「全財産なのに、残念」
ゾイはマリエールから目を離さず、言った。
「お金は、アレックスさんとアネットさんが貸してくれるよ。エルフの人のお金はいらない」
「……」
訳が分からないが、ここにいるのは怖い『ゾイさん』だ。
「この話は、エンゾさんも噛んでるよ」
その言葉に反応したのはアレックスだ。
「エンゾが? なら、心配ないね。いいよ、二百までなら貸したげるよ」
「……エンゾが……そう……」
それまで沈黙を守っていたアネットだったが、無表情で飴玉を転がすマリエールとゾイの顔を見比べながら、静かに頷いた。
「……いいわ。お金なら、私も貸してあげるわ……」
「決まりだね。エルフの人の世話にはならないよ」
そこでは、とっても怖いゾイさんが、表情を変えずに口元だけで笑っていた。