126 奇妙な部屋にて
夜。
身を切るような、冷たい雨が降っている。
柔らかな潮風が吹いて来て、僕の濡れた髪を揺らした。
目の前に大きな鉄の船が停泊していて、明るいオレンジの光を放っている。
そこから少し離れた場所で、神官服を着た黒髪、黒い瞳の男が煙草を吸っていて、紫煙が潮風に流されて消えて行く。
とても寂しい場所だった。
港には、その神官服の男と僕しか居ない。
男は咥え煙草。遠い目で、波打つ暗い海を見つめたまま動かない。
僕は、この男を知っている。
「……どうかしたんですか……?」
僕は、僕……『ディートハルト・ベッカー』になった男に声を掛ける。
「……」
彼は僕を見る事はせず、紫煙を吐き出して、ただただ降り頻る雨の中、海を見つめている。
大人の男だ。
僕の父さんより少し背が高い。
髭をさっぱりあたっていて、鋭い目付き。この男につまらない冗談は通用しない。
彼は呟くように言った。
「……たまに来たくなる。それだけだ……」
「そうですか」
僕は消えたはずだ。でも、この男に存在を許されている。消える事を許されてないとも言える。
彼は言った。
「お袋が死んでからは……ただ、がむしゃらに生きて来た……」
知ってる。
「気が付くと、ポケットの中に金が唸ってた」
それも知っている。
僕はこの男の全てを知っている。黒髪、黒い瞳の男。鏡合わせの僕。駄目になった僕の代わりに、邪悪な母が呼び寄せたもう一人の僕。今は、この世界で『ディートハルト・ベッカー』をやっている。
「……終わりのない夜のようだ……」
何時間、そうしているんだろう。
彼の神官服は、降り頻る雨に濡れてびしょ濡れだった。
「疲れたんですか?」
「どうだろうな。よく分からない」
決して退かない事を誓った夜に、無邪気な笑顔を忘れた男。
僕と違う環境で育ったもう一人の僕。同じ魂。成熟している。彼なら母の試練にも耐え得るだろう。
闇に汚れた漆黒の瞳を持つ男。
その頬を濡らすのは涙じゃない。ただただ降り頻る雨だ。
潮風が吹いて来て、彼が吐き出す紫煙が闇に流れて消えて行く。
僕と同じ魂を持つ男。
何処までも悲しい男。
闇色の瞳。成熟して、身の守り方を覚えた事と引き換えに、悪魔の魂を手に入れた。
「吸うか……?」
そう言って、彼は、雨に濡れてくしゃくしゃになった紙箱から煙草を一本突き出して来た。
「……」
僕は頷き、男と同じ格好、咥え煙草で闇の中、波打つ漆黒の海を見つめた。
「……悪くないね」
「そうだろう。たまに、こうしたくなるんだ」
強いハッカの香りが鼻腔を突き抜け、紫の煙が潮風に流されて消えて行く。
僕らは二人並んで、黙って海を見つめていた。
「……子供でも居れば、違ったのかもな……」
彼を愛している人はいるけれど、彼の帰りを待つ人は、この世界の何処にも居ない。
ここは彼の心象風景。僕の世界じゃない。毒された彼の世界だ。
色は違っても同じ瞳。形は違っても同じ魂。見つめるものは同じ。
性格の悪いあの教会騎士の女の人が居れば良かった。彼を溺愛する彼女なら、手段を選ばず彼を慰めただろう。
慈悲深いあの修道女が居れば良かった。優しい彼女なら、意地っ張りな彼の隣に寄り添って離れる事はしないだろう。
「……悲しいんですか……?」
「さぁ……どうだろうな。本当は、よく分からないんだ……」
僕らは、お互いを理解し過ぎた。
雨と潮と強いハッカの香り。
強く太陽が輝けば、そのぶん闇も深くなる。冷たい雨と、オレンジの光が広く射すこの闇が心地よかった。
暫くして、彼は行儀悪く煙草を吐き捨てた。
「……そろそろ、帰る……」
彼の知識では『アスファルト』とかいう変わった路面だ。雨に濡れていて、オレンジの照り返しが目に優しく美しい。
「そうですか。僕はここに残ります」
「……」
彼は黙って神官服の裾を翻す。
「また、会えますか?」
僕に背中を向けたまま、彼は夜の雨空を見上げる。
「……」
そして、また煙草に火を点けた。彼に時折々の感傷はあっても、未練は存在しない。
冷たく言った。
「いや、これきりだ」
「……」
別れの言葉は、降り頻る雨と闇に染まる波音に掻き消されて消えて行った。
ここは奇妙な部屋。邪悪な母が創った不思議な空間。
「幸運を祈ります」
「……」
彼は紫煙を吐き出して、その言葉を嘲るように鼻を鳴らした。
馴れ合いを嫌う。彼はそういう男だ。そのように自分を作った。
本当におかしな事だけど……誰も、彼に迷う権利を許さない。
冷たく苛烈に、彼は選択し続ける。母が休めと言うその日まで。
孤独な魂だ。過酷な日々に愛を忘れつつある。その姿は、荒れた海の中、灯りもなく闇を流離う一艘の難破船のようだ。
僕と同じ魂。でも違う。僕らは強く結び付くと同時に、互いに強く離れたがっている。
残された僕は、彼が残した優しい闇に、いつまでも留まって居ようと思った。
◇◇
愛のない者だけが欠点を克服し得る。したがって、完全足り得るには愛をなくさねばならない。
しかし――
必要以上に愛をなくすべきではない。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇