125 実のある女
どれだけ血が流れたとしても、海の水嵩が増す訳じゃない。だが、幾千幾万の犠牲の中で、たった一人でも救われるというのなら、それは決して悪い話じゃない。
この殺戮で救われた命もある。スラムヤクザ共に奴隷として使われていた者たちがそれだ。
血と埃に塗れ、疲れ果てて帰った俺を見たルシールは、右手の包帯にある『蛇封じ』の神字が消えかけている事に気付き、顔色を変えた。
「……アビゲイルさん。少し、お話があります……」
「……」
眉間に深い皺を寄せた金属バットに呼び付けられたアビーは、眉を寄せた苦々しい表情で俺から離れた。
見えなくなった場所で、二人は超音波の会話を始め、やがてルシールの金属バットが火を噴いた。
「お黙りなさいッ!」
離れていても聞こえる。アビーが修道女を嫌う訳がなんとなく分かった。
始めこそ勢いよく超音波で対抗していたアビーだが、その内、ルシールの金切り声しか聞こえなくなった。
以前、使っていた長屋の一室では、ゾイが今にも泣き出しそうな顔をして、あれこれ世話を焼いてくれた。
真っ先に汚れた神官服を剥ぎ取られ、裸にされた俺は有無を言わさず風呂にぶちこまれた。
ゾイは執拗に俺を洗い倒し、綺麗に磨き上げた後は食事を摂るように勧めて来たが、どうしても食欲が湧かない俺は、その勧めを断った。
「今は何も食べたくない。疲れたんだ。もう、百年も千年も眠りたい」
「……」
目に涙を浮かべたゾイが押し黙った所で、いつものように澄ました表情のルシールが現れた。
「そんなに眠られては困ります」
「……」
俺にも超音波の説教が始まるかと思ったが、そんな事はなかった。
「ゾイ。ディートの食事を持って来なさい」
よく分からないが、この二人の上下関係は確立している。殆ど命令と言っていいルシールの鋭い指示を受けたゾイは直ちに部屋から走り去り、あっという間に食事を持って戻って来た。
「……」
食事の内容は、ルシールの得意な包み焼きの料理だった。
「ゾイ、実のある女になりなさい。成すべきを為すのです。思いやりも過ぎれば毒でしかありません」
「は、はい。すみません。先生……」
小さく頷いたゾイは、肩を縮めて項垂れた。
それから、『実のある女』のルシールは、もういいと言う俺の口に、容赦なくメシを突っ込んだ。
その間、ずっと無言だった事がルシールの強い怒りを想起させ、俺は恐怖に震えた。
ゾイは目を輝かせた。
「せ、先生、流石です……」
俺は、尊敬する相手を間違っていると思った。優しいゾイが金属バットになっては堪らない。
「…………」
俺だって人間だ。疲れる時もあれば、甘えたい時もある。口一杯にメシを突っ込まれたまま、この『実のある女』とやらを何とかしてくれと視線を送ると、ゾイは、ついっと視線を逸らした。
やがて、詰め込むだけの食事が終わり、ルシールが小さく咳払いした。
「ゾイ。少しディートと大事な話をします」
明言こそしないが、場を外せという意味だ。
性格の悪いロビンなら絶対に従う事はない言葉だろうが、素直で従順なゾイは、酷く心配そうな顔で俺を一瞥して、黙ってその場を去った。
「……」
二人きりになり、ルシールは黙って俺の右手の包帯を取り替えた。
「……蛇が消えません。殺し過ぎです……」
だが、ルシールの『蛇封じ』の呪が効果をなくした訳じゃない。ただ、効果時間が短くなっただけだ。
「……痛みますか……?」
「……」
酷く痛む。この極寒の夜は特に。アスクラピアの蛇は悪食だ。死者の命は勿論、俺の苦悩すらも食い尽くして成長するだろう。
俺の信仰する神はケチ臭くしみったれている。悪質な金貸しのようだ。取り立てには俺の命も含まれる。この『聖痕』は、いずれ命取りになるだろう。
「ルシール。あと何日、抑えて居られる?」
「……二ヶ月ほどかと……」
それが俺の寿命になる。二ヶ月の間に、この憎たらしい『聖痕』をなんとかしなければ、俺は死ぬ。
『逆印』は、邪悪な母が施した極悪無比な呪いの証だ。
「……これも、計画の内ですか……?」
「……」
「今のうちに、切り離す事をお勧めします」
最悪、そうなるだろう。尤も……あの邪悪な母が、その程度で俺を見逃してくれるとは思えないが。
だがこれでいい。これでいいのだ。如何なる物であれ、無制限な力は破滅に向かって進むのみ。
母が俺を受け入れたように、俺もこの『呪』を受け入れる。
「……ルシール、俺は思うのだ。母はしみったれているが、これが頭お花畑の与えるだけの神ならどうなった?」
「……それは」
「きっと、人は考えるのを止め、すがるだけの家畜のような存在に成り下がる。代償に破滅が含まれるからこそ、努力と研鑽を忘れずに居られる」
そこで、ルシールは声を荒げた。
「……しかし、これではあまりに……!」
信仰を尽くした行き先の末に破滅があるとするならば、それは無慈悲が過ぎる。ルシールの言いたい事はそんな所だろう。
「……何とかする。今は見逃せ……」
「……っ!」
ルシールは、ぐっと唇を噛み締めて黙り込んだ。
その目元がたちまち紅潮し、頬に大粒の涙が伝って落ちる。
「……」
苦手だ。
ルシールは俺好みの容貌をしていて、この女の泣き顔は、いつだって俺を酷く困らせる。
強気で勝ち気そうな顔だ。実際に気が強く、何もかもに黙って従うような女ではない。あのアビー相手にも一歩も退かない。我慢ならなければ信仰すらも捨てる。
そんな女が流す涙は、いつだって俺を弱くする。
ガキの身体で様にならないが、俺は黙ってルシールを抱き寄せた。
「……案ずるな。きっと、なんとかなる。なんとかする……」
さて、男にとって『実のある女』の流す涙ほど質の悪い物はない。
「……」
ガキの身体でよかった。
ルシールを抱き締めながら、俺は小さく息を吐く。ろくでもない関係にならずに済んだ。
……少し残念ではあるが……
俺も男だ。好みの容貌の女に、こうも隙があると付け入りたくなる。
ゾイやアビーなんかには殺されてしまうかも知れないが……
それでも、男には我慢できない時というものがある。『ディートハルト・ベッカー』がガキで本当によかった。
俺は妙に納得した。実務的で居られるからだ。
「……ワクチンは、どうなっている……?」
「……」
ルシールは泣き濡れた顔で俺を見上げる。
……なんと卑劣な。
ガキでなければ、必ず過ちを犯していただろう。
俺の胸に顔を埋めたまま、ルシールはか細い声で呟いた。
「……効果があった五番ワクチンを中心に製造を進めています。急いでいますが……」
その後のルシールの説明では、ワクチン製造にはグレタとカレンの二人が取り組んでいるとの事だ。
「……エヴァさんと他の子供たちも、既にワクチンを接種済みです……」
惰弱過ぎて、連れて来た時はどうなるかと思っていたが、グレタとカレンの二人は、思いの外、役に立っているようだ。エヴァを含めた子供らへのワクチン接種の説得も二人が行ったようだ。
「そうか」
安全性の高い牛痘ウイルスによるワクチンでないのが残念だが、極小とはいえ、どちらにしても重症化の危険は残る。だが、早期の症状なら術で抑えてしまえる。ワクチン接種を躊躇う理由はない。
「では、早速明日より、一般人へのワクチン接種を開始する。既に発症している者にも効果はある。諦めるなと声高に喧伝しろ」
「はい……」
健気に頷いたルシールは、力なく立ち上がった。
俺は、つい呼び止めたくなる。
「ルシール……!」
「……はい?」
だが、何を言うべきなのだろう。
少し考え……実務的な子供の俺はこう言った。
「……分かっていると思うが、喜捨は取るなよ……」
「はい。それはもう」
その言葉に満足し、俺は頷いた。だが、念の為にこう付け加えた。
「金持ちからもだ」
「……」
ルシールが僅かに怯んだのを見て、俺は大きく溜め息を吐き出した。
この悪い癖がなければ、本当にいい女だったのに……
俺の回りには、残念な女しか居ない。