121 命の選別1
「ディート。身体の調子は……?」
「うん……悪くない……」
砂の国、ザールランドの日中は溶け出しそうになるほど暑い。蒸し暑くなく、乾燥しているのだけが救いだ。そして、夜はとことん冷え込む。日中との寒暖差は五十度を超える。『人間』には酷く堪える。
だが、俺はこの砂の国の夜が嫌いではない。
「……」
星が近く見えるから。
「……ディート、長屋に入りましょう。この寒さは……人間の貴方には厳し過ぎる……」
「……もう少し……もう少しだけ……」
身を切るようなこの寒さは、いつだって新鮮な死を思わせる。
「……ディート。その『瞳』で夜を見るのはやめて下さい……」
「夜を見てるんじゃない。星を見ているんだ」
新しく得た『闇の瞳』は、世界を少し違うもののように見せる。
「どうか……どうか、闇を見るのはお止め下さい。貴方が、何処か遠くに行ってしまいそうで怖いんです……」
「俺には、まだやる事がある。何処にも行かない。ルシール、そんな顔をするな」
どうにも俺は、このルシールの涙と悲しそうな顔に弱い。めそめそと泣くような女ではない。いつもは凜としていて、あのアビーにだって一歩も引かない度胸もある。
だが、俺と二人きりになるとルシールはこうなのだ。目尻を下げ、酷く心配そうな顔をする。
「右手は……」
「うん、もう痛くない。麻酔なしでも眠れる。心配するな」
尤も、ルシールの作った神字による『蛇封じ』の封印がなければ駄目だ。包帯を解くと『聖痕』が発する痛みに悶え苦しむ事になる。
時折、しくしくと痛むが耐えられない事もない。字を書いたり、食器を使う事は無理だが、多少動かすぐらいは出来る。これ以上、回復の見込みはなさそうではあるが……
「……」
星を見る俺に、ルシールは静かに言った。
「あの、フランチェスカという娘は遠ざけなさるよう。業が深すぎます。ろくな死に方はしないでしょう」
流石に、妖精族の血を引く高位の修道女。俺ほどではないにしても、このルシールも特別な『眼』を持っている。
俺は静かに聖印を切った。
「ヤツ次第だ。思い煩うな」
悲しみを与えるにしても、喜びを与えるにしても、全ては一つに絡み合っている。
しみったれた母の言葉ではそうだ。
「…………」
ルシールは答えず、静かに聖印を切って返した。
星を見上げたまま、俺は言った。
「明日、スラムヤクザ共を皆殺しにする」
「はい……」
ルシールは、泣き出しそうに目尻を下げ、また悲しそうな顔をする。
「……それは、お止めしません。ただ、あの畜生共は人身売買も行っております。今、正に囚われの身になっている者も居るでしょう……」
「……分かっている。そこには留意するつもりだ……」
善と悪は神の両手と聞いた事がある。それが本当だとするならば、善きにつけ悪しきにつけ、それらは世界に必要なものなのだ。
だが、人間の俺はこう思う。
善にしろ、悪にしろ、過ぎた物は害毒にしかならない。俺が持つ『闇の瞳』は、その二つを見極める為に与えられたのだ。
願わくば……この夜空に輝く銀の星が、新しい道を指し示しますように……
俺は『アスクラピアの子』として祈るだけだ。
深い静寂の闇の中、静かに祈りを捧げる俺を、ルシールが物言いたげに見つめている。
◇◇
新しい朝がやって来た。
居住用の長屋では、アビーが全員を集め、車座になって簡素な食事を摂っている。
一際早く食事を終えたアビーが、器をスイに押し付けて言った。
「……そんで、ディ。何処からやる……?」
「勿論、一番デカくて気に入らない所からだ」
先制攻撃で、まずは頭を潰す。それが出来れば、下位の者など取るに足らん。
このパルマのスラム街に巣食うスラムヤクザ共の大きな組織は三つある。
音沙汰がない事からして、奴らの方でも天然痘の脅威に晒されている事は間違いないだろうが、容赦しない。
既にワクチンで免疫抗体を獲得した俺とアビーが先頭に立ち、先ずはこの三つの組織を潰す。
そんな事を考えながら、左手での食事に苦戦していると、ごく自然に進み出たスイが食器を取って代わりに食べさせてくれた。
一々、礼は言わない。
一ヶ月寝込んだ際、このスイには世話になりっきりだった。酷い額面の負債がある。
そして、ジナだが……天然痘から回復した後は、俺から離れない。少し離れた場所で犬のように丸くなり、食事を終えた後は、まるで番犬のように目線だけで周囲を警戒している。
絶妙な距離感で、目障りにも邪魔にもならないので放置している。相変わらず、俺にはジナの考える事は分からない。
アビーは、このジナをとことん無視した。俺に任せると言った言葉に矛盾はない。まるで空気のように扱っている。死んでいても気にも留めないだろう。他の連中もそうだ。『毒犬』には居場所がない。この場の全員から忌み嫌われている。
アビーが厳しく言った。
「あたしとディは暫く外すよ。エヴァ、それとそこのチビ。仲良くしろとは言わないけど、揉めるんじゃないよ」
「……分かった」
エヴァは、何とも言えない複雑な表情で俺とゾイを見比べ、小さく頷いた。
「……」
一方のゾイだが、食事を済ませた後は、眉間に皺を寄せ、アビーの言葉には不満を滲ませた表情で答えない。
スラムヤクザの殲滅には、このゾイも志願したが、俺が居残りを言い付けた為だ。
俺の指示には絶対に従うというのが、このパルマへの随行条件だった為、指示には従うが本心では同行を強く望んでいる。
「……」
俺の胸中は複雑だった。
ゾイの事もそうだが、この殺戮から決して逃れる事の出来ないアビーの事が一番気掛かりだ。
アビーは、まだガキだが侠客を張る以上、絶対にこの報復を行わなければならない。確実に人を殺すという事だ。
「……」
俺は黙って聖印を切る。
アビーの顔に躊躇いの色はない。寧ろ嬉々として笑っている。スラムヤクザに憤りを感じるのは、この孤児たちの頭目であるアビーには当然の事だ。
それが俺の気持ちを重くさせる。
手を汚すのは俺だけでいい。そう言いたいが、アビーだけは駄目だ。この集団の頭目を張る以上、この報復は避けて通れない。
他者に人殺しを強いるなど、俺は、あまりにも罪深い。
少し遅れ、食事を終えた俺が、邪悪な母に呪詛という名の祈りを捧げて居ると、意外な所から発言があった。
「お、オレも行く。手伝わせてくれ……」
フランキーだ。
食事中の為、拘束こそ解かれているものの、背後にはエヴァが控えており、不審な動きをした際は即座に殺すと警告されている。
返事をしたのはアビーだ。
「あん? フランキー、どういう風の吹き回しだ?」
「オレだって、あいつらは大っ嫌いだ。ぶっ殺してやりてえ。そ、それに……」
背後のエヴァは殺気立っていて、それにビクつくフランキーは、おどおどと俺に向き直った。
「お、お前……ディ、だったな。高位神官だろ? その、オレは……死んだら地獄に落ちるのか……?」
俺は神官だ。死後の世界は見た事がないが、『神』の存在を信じている。この世界に於いては何度も会った事がある。信じない訳には行かない。そして、人には『魂』があると信じている。
『魂』があり『神』が存在する以上、天国と地獄の存在も疑っていない。
俺は鼻で嘲笑った。
「フランキー、お前は間違いなく地獄行きだ。この俺が保証しよう」
アスクラピアの高位神官のお墨付きで地獄に行くのだ。信仰深くなくとも、この世界の住人は恐れ慄くだろう。
「お、オレは、ただ……生きて行く為に……」
「お前の苦労話に興味はない。言い訳は地獄でするんだな」
「そんな……」
こいつはこいつで、過酷な環境に応じて生き残る為に必要な事をしていたつもりなのだろう。だが染み着いた業が深すぎる。
「……」
思い当たる所が有りすぎるのか、フランキーは深く項垂れた。だが、一瞬後には顔を上げた。
決意を込めた表情で言った。
「あ、あんたの弟子にしてくれ……!」
「……」
その言葉は予想外だった。
俺がポカンとしていると、その顔を見たアビーが強く吹き出した。
「ぶふっ、よりによって……」
どういう意味だ。酷い事を言われたのは分かる。だが、フランキーの言葉を少し面白いと思う俺も居る。
◇◇
力が無分別と偶然によって邪道に陥る事があるように、どのような罪を犯した者であっても、分別と偶然によって正道に引き戻されないという事はない。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
「……いいだろう。同行を許可する。働き次第になるが……考えてやってもいい……」
アビー以上の悪たれのフランキーだが、思いの外、信仰心が強いようだ。気紛れのような俺の言葉に飛び付いた。
「そ、それでいい!」
「そうか。だが、俺は厳しいぞ。この同行に当たり、お前には武器と防具の携行を許さん。そして、先頭になって戦え」
俺は、真っ先に死ねと言っている。
「わ、分かった……や、やる……やるよ……」
「ちなみに役立たずはいらん。足手まといだと感じた時は殺す。お前の口は臭すぎる」
俺は、このフランキーを塵ほども信用していない。
「……」
俺がフランキーの同行を許可した時は、一瞬、色めき立ったアビーだったが、今は面白そうに成り行きを見守っている。
一方、ルシールは大きく溜め息を吐き出して嘆息した。
「ディート……貴方はどうして……」
フランキーは遠ざけるべきだと進言したのはルシールだ。額を押さえて首を振った。
これから、俺は罪深い事をするのだ。このフランキーに与える機会など、その罪深さに比べれば大した事じゃない。
この顛末に、アビーは腹を抱えて大笑いした。
「面白くなって来たね! それじゃ行こうか!!」
「そうだな……」
俺は静かに聖印を切って返す。
もう、命の選別は始まっている。