120 俺はもう満腹だ
さて、楽しいワクチン投与の時間になった。
俺は、こんな時の為に作らせた『注射器』を取り出した。
ドワーフの技術者に作らせたワクチン接種用の特別な『注射器』だ。
通常の注射器と違い、十五本の針が並んでいる。細い注射針に関しては、作るのに難儀するだろうと思っていたが、そこは手先の器用なドワーフだ。俺が居た現代社会でも使える細い注射針の立派な『注射器』を作ってくれた。
……まあ、値段も立派なものだったが……
右手が使えず難儀していると、スイが手伝ってくれた。俺は右利きだ。左手だけだと随分勝手が違う。
「ええい、フランキー! 動くな!」
「嫌だあ! やっ、やめろっ!!」
手足を拘束され、アビーの椅子をやっていたフランキーだが、力の限り暴れ回り、注射どころの騒ぎではない。
「往生際の悪いヤツだ」
ワクチンは肩口に接種したかったが、あまりに暴れ回るフランキーに手を焼いた俺は、結局の所、面倒臭くなり、フランキーの尻に注射器を突き立てた。
「ぎゃああっ!」
ワクチンを投与されたフランキーは断末魔の悲鳴を上げ、それからぐったりとなり、静かに涙を流した。
「……大袈裟なヤツだ。俺が酷いヤツみたいじゃないか……」
アビーはゲラゲラと手を打って笑っている。
そして、静かに涙を流すフランキーを見届けた後は、急に真顔になった。
「……んで、ディ。あんたのその右手はどうしたんだ?」
「うん……これか……」
ルシールの施した『蛇封じ』に依って痛みこそ軽減されたが、右手はものの役にも立たない。今はもう、付いているだけだ。だらりと垂れ下がり、鉛のように重い。
アビーは睨むようにして、ぴくりとも動かない俺の『右手』を見つめている。低い声で、圧し殺したように言った。
「……誰にやられたんだ……?」
これは、アビーにとって見逃す訳には行かない事のようだ。ただでさえ細い狐目を更に細くして、俺の右手を睨んでいる。
「まさかとは思うけど……『自己犠牲』とかいうヤツかい……?」
「……」
考えなくやった事の代償だが、その通りかも知れない。
俺は小さく溜め息を吐く。
正直に答えれば、アビーは今度こそジナを殺すだろう。
「……」
黙り込む俺の様子に、アビーは静かな怒りを燃やしている。
「……当たらずとも遠からずって所かね……」
「む……」
『スキル』の力は侮れない。
アネットの『マッピング』。ロビンの『戦況把握』。そして、このアビーの『直感』。『魔法』とは違う力だ。凡人の俺にはそんな力はない。
この世界は謎に包まれている。
そもそも『スキル』とはなんだ? 人間が努力で身に付けられる技能の枠を超えている。
謎はまだある。
母が度々俺に行う『刷り込み』とはなんだ?
呪われし者を焼き、死を誘う祝詞。傷を癒し、病を治す力。俺が身に付けたこれらの術も、人智を超えた特殊技能だ。
「貸しな」
深く考え込む俺から注射器を奪い取り、アビーは五番ワクチンの入った小瓶を手に取った。
「んで、こいつをどうすりゃいいんだい?」
「……」
考える時間が欲しい。
『白蛇』『スキル』『刷り込み』『焼き付け』『造られた聖女』『奇妙な部屋』『ダンジョン』そして、『アスクラピア』。
謎は他にも沢山ある。数え切れない程だ。俺はもう満腹だ。二年……いや、三年は考える時間が欲しい。
悪い癖だ。今は考え込む余裕はない。
俺は強く首を振った。
「……皮下注射する。複数箇所に分けて、上腕に射ってくれ。その後は傷口からウイルスが他の部位や人に広がらないようドレッシング材で保護する」
「……また、あんたと来たら、小難しい言い方をするねえ……」
俺が『魔法』や『スキル』を理解できないように、『医学』や『免疫学』は、この世界の人間には理解できないだろう。
アビーは説教された時のように、顰めっ面になっている。
「それで、どうなる?」
「一週間ほどで小さな水泡が出来れば予防接種は成功だ。免疫抗体を獲得出来る」
「しくじれば?」
「重症化する。死ぬ確率は半々といった所だろうな。止めるなら今だ」
一人で静かな場所に行きたい。
謎を煮詰める時間が欲しい。こんな馬鹿げた事をやっていたくない。
「はッ! 上等だ!」
アビーは自信満々で笑った。
もし『直感』のスキルが働いているのなら、俺たちは無事免疫を獲得するだろう。
「ディ、逃がさないよ」
アビーは微笑う。
俺が全力で運命に抗えば抗う程に、大いなる謎から遠ざかる。
アスクラピア。
親愛なる母よ。今は、あんたの意思に従おう。だが、いずれ……俺の手は、あんたを捕まえる。
謎の先に迫って見せる。
そこに、全ての始まりと終わりがあるだろう。
◇◇
俺とアビーは五番ワクチンを接種した。
一週間後、このワクチンが正常に効果を発揮すれば、もう天然痘は怖くない。仮に感染していたとしても、四日以内なら症状は抑えられる。その程度なら、術で治してしまえる。
六番ワクチンは、ルシールとゾイに接種される事になった。
五番ワクチンと六番ワクチン。どちらの効果が高いかは分からない。それこそ神のみぞ知る。
他の者は結果を待ち、より安全性の高いワクチンを接種する運びになる。
当初の予定通り、一ヶ月で現状を打破する。
ワクチンの効果は一週間で現れる。その頃にはアクアディの街でも天然痘のパンデミックが始まる。流行はザールランド全体に及ぶが、時を追って、逆にパルマでの流行は終焉に向かう。
その時、獲物が引っ掛かる。
寺院もザールランドも、パルマを……俺を無視できない。襟章もない野良神官の俺の前に、きっと『誰か』が姿を見せる。
母の戯れる指先が運命を回す。
無理をして手に入れた物だけが、晴れて王冠に値するのだ。
垂らした釣り針に掛かる獲物はどっちだ? どちらにしても聖女に近付く。この『闇の瞳』で全てを見極めてやる。
結果として――
ワクチンは予想通りの効果を示した。
一週間に渡り、発熱、全身の怠さ、筋肉痛の症状があったが命には別状はない。重症化する事はなく予防接種は完了した。
ただ、高濃度のワクチンを接種したフランキーだけは副反応による症状が酷く、一時は隣の長屋に隔離される事になり、その命の保証はなかったが、結局は免疫抗体の獲得に成功した。
アビーは面白くもなさそうに言った。
「本当、悪運だけは強いヤツさ……」
正にそうだ。
元が衰弱していたフランキーは、死んでいてもおかしくなかった。俺としては『スキル』の存在を疑わずに居られない。
これも異世界の特別な『ルール』だ。
アビーが明言しないように、『スキル』を持つ者はそれを隠匿している場合が多い。フランキーには、俺たちが知らない秘密があると思うべきだ。
そしてジナや軽度の天然痘を発症させた俺たちから、更に安全性の高いワクチンが作成され、その他の面々にも予防接種が完了した。
俺は鼻を鳴らした。
「遊びは終わりだ」
ここで俺は、チームを二つに分けた。
ワクチン製造のルシール、グレタ、カレン。
スラムヤクザ共を地獄に叩き込む実働班。
ゾイとエヴァは長屋の守護として残す。
俺とアビーは実働班として血で血を洗う抗争に乗り出す。最も……
「……あれから襲撃がない。ヤツらは、きっとそれ所の騒ぎじゃないんだろうがな……」
俺は何度も聖印を切る。
殺し、誘拐、売春、麻薬売買に始まり、果ては賭博に人身売買。悪という悪に手を染めるスラムヤクザ共だが、それが殺戮を容認出来る理由にはならない。
気に病むほど線が細い訳じゃないが、これからする事は罪深い。
「……アビー。徹底的にやるぞ……」
このパルマから、全ての膿を吐き出す。ゴミはゴミ箱へ。そういう事だ。
アビーは笑った。
「……いいね!」
ふと思い出したのは、邪悪な母の言葉だ。
『……喜びを与えるにせよ、悲しみを与えるにせよ……全ては一つに絡み合っている……』
俺には分からない。人間という虫けらである俺には、神の考えは分からない。
『生贄の叫びと……火炙りの死……全ては……神聖で、よい……』
さあ……命の選別を始めようか……