119 危ない橋
「お、オレ、死ぬ、のか……?」
呆然とするフランキーに、俺は聖印を切って見せる。
「自らのした事を省みろ。長生きできるとでも思っていたのか? 冗談も休み休み言え」
「……」
俺の言葉に、フランキーの瞳の中の憎悪は消え去った。
仲間を全員殺してでも『生』に執着した。致命傷を受けながら、あの下水道で動かず、万が一の救助に賭け、そのあまりに分が悪いギャンブルにも勝利した。自分だけは違うと思っていたのだろう。特別だと自惚れていたのだろう。だが、そんな事はない。高位神官の言葉には、そう知らしめるだけの力がある。
俺は、フランキーが安心できるように言った。
「最悪なお前は、地獄でも心地よくやって行けるだろう」
「……っ!」
そこでフランキーは、もぎ取るように視線を切り、親指の爪を強く噛んで深く考え始めた。
「ふむ……」
今はアビーの椅子になり、その人生では最悪の瞬間を迎えているフランキーだが、頭だけは悪くない。面白い答えに期待したいものだ。
◇◇
俺はその場に腰を下ろし、昨夜あった出来事をアビーに報告した。
「……そうか。ジナは生きてたのか……」
ジナ生存の知らせを受けたアビーは、驚くでもなく、怒り狂うでもなく、ただ疲れたように顔を拭った。
「……アダ婆と同じ病気なんだろう……?」
そして、このアビーもただ者ではない。自らもまた因果から逃れられぬ事を知っている。
「テンネントウ、だっけ? あんたの手紙を見て、あたしは凄く嫌な予感がしたんだ」
「そうか。改めて殺すか?」
アビーは深く溜め息を吐き出した。
「いや……ディ。あんたに任せるよ」
近付きたくない。それがアビーの『直感』が出した答えだ。
俺は頷いた。
「そうしろ。この一件が終わり次第、聖エルナ教会に送って下女として働かせる」
「ああ、そうしておくれ……」
「……」
長い沈黙があった。
犯した罪から生じた因果からは、誰も逃れられない。アビーもまた、深く考え込む様子だった。
続けて、俺は『ワクチン』についての説明を行った。
「わくちん?」
天然痘は独特の症状から生じる経過がある。一度罹患して治癒してしまうと免疫抗体が出来、二度と罹患する事がなくなる。
「メンエキコウタイ?」
話の間、アビーは、ずっと口をへの字に曲げていたが、概ね理解したようだ。
「えっと……あんたの言う『わくちん』はよく分かんないけど、あのヤバい病気に罹ったヤツは、もう二度とあの病気に罹る事はないってのは分かった……」
『ワクチン』の説明に関しては非常な困難を伴ったが、それでもアビーは理解した。
「ああ、つまりあんたは、わざと弱い『テンネントウ』の素を作って、それに罹る事で『メンエキコウタイ』とやらを作りたい訳だ」
「ああ……その認識で合ってる」
天然痘については調べている俺だが、俺は元居た世界では医者でもなければ研究学者でもない。ワクチン製造に関しては、どうしても手探りの部分がある。
「わくちんねえ……」
アビーは狐目を細め、胡散臭そうに俺を見つめている。
「……」
周囲の面々も同じだ。俺に詐欺師を見るような険しい視線を向けている。
俺は、じくじくと痛み出した右手を擦りながら、スイに頼んで鞄から十個の小瓶を出してもらい、それを床に並べた。
「ディ、その右手はどうしたんだい」
「俺にも色々ある。今は見逃せ」
ジナから『逆印』を消した事は説明した俺だが、その代償については説明していない。
アビーは険しい表情で俺の『右手』を見つめている。
「……」
さて、問題のワクチンだ。
俺は学者ではない。実際のワクチンの製造には、幾つかの方法があり、それを完璧に理解している訳ではない。
目の前に並んだ十個の小瓶には、それぞれ番号が振ってあり、横一列に並んでいる。
「……ここにあるのが、取り急ぎ作ったワクチンな訳だが……」
正確には『ワクチンもどき』だ。それだけに、想像した効果を発揮するかは疑わしいものがある。
アビーは眉間に皺を寄せ、嫌悪感剥き出しの表情になった。
「……つまり、あんたはテンネントウの素を作った訳だ……」
その言葉に周囲は怯み、椅子をやっているフランキーなどは身動ぎして逃げ出そうとしたが、それはアビーがケツを引っ叩く事で押し留めた。
俺は小さく息を吐く。
「……この中のどれかが『ワクチン』だ。だが、俺にはどれが一番優れた効果を発揮するか分からん。アビー。お前に選んで欲しい……」
「……」
アビーは、睨むようにして床に並べた十個の小瓶を見つめている。
「……そういう訳分かんない事は、全部あんたにやって欲しい所だけどね……」
「それが出来るなら、もうやっている。お前の『直感』が頼りだ」
「……」
アビーは深い溜め息を吐き、天を仰いで嘆息した。
「……あたしは、あんたの親分だ。そう言われちゃ、逃げる訳には行かないねえ……」
アビーはフランキーに腰掛けたまま、顎に手を当てた格好で十個の『ワクチン』を凝視した。
「……………………」
ややあって、言った。
「右の二つは駄目。なんか分かんないけど、嫌な予感がする……」
希釈割合が薄く、毒性の強い一番と二番の瓶を取り除く。
残りのワクチンは八個。
アビーは難しい表情で呟いた。
「……左の三つは弱い……」
血印聖水を使って、極力毒性を弱めたものだ。完全に浄化されており、ワクチンとしての効果は期待できないという事だろう。
これで八、九、十番のワクチンが消えた。残りは五本。
「……」
アビーは残った五個の小瓶を見つめていたが、暫くして首を振った。
「……駄目だ。これ以上は分からない……」
「充分だ」
ワクチンの小瓶は、毒性の弱い順に並べていた。ならば答えは出たも同然。
俺は五番の小瓶を手に取った。
「こいつを採用する」
「……」
アビーは、俺が手に取った五番のワクチンを難しい表情で見つめていたが、暫くして首を縦に振った。
「……いいだろ。んで、次はどうすんだい?」
残った五本の小瓶には『ワクチン』としての効果が期待できる。
俺は言った。
「一番毒性の強い三番ワクチンは、フランキーに投与して様子を見よう」
「……んなっ!」
一番危ない橋を渡るフランキーは悲鳴を上げ、アビーは腹を抱えてゲラゲラ笑った。
だが、俺も例外じゃない。
「五番ワクチンは俺が使う」
俺のその言葉に、周囲は静まり返った。
三番ワクチン程ではないが、五番ワクチンもそれなりに毒性の強いものだ。天然痘が発症し、重症化すれば俺も危ない。
俺は続けて言った。
「で、アビー。お前はどうする?」
「え?」
「じゃない。お前もワクチンを射つんだよ」
俺たちには時間がない。ここに引き籠って、ワクチンの効果が出るまでのんびりしているような暇はない。
スラムヤクザを皆殺しにする。
ワクチンは完成させる。
全て同時進行だ。そして、アビーが俺の『親分』である以上、危ない橋は一緒に渡ってもらう。
一蓮托生のルシールもそうだ。
あいつには、俺と同じ五番ワクチンを接種してもらう。
「……」
アビーは、ぼんやりとして俺を見つめていたが、暫くして頷いた。
「じゃあ、あたしも五番で」
これも『直感』だろうか。アビーは、俺と一蓮托生になる事を迷いなく選んだ。
「……一応言っておくが、死ぬ危険もあるぞ……」
アビーは、まだガキだが『ヤクザ』だ。いざとなったら腹が据わる。鼻を鳴らして笑った。
「どれを選んでも危ない橋なら、あんたと同じ橋を渡るさ。当然だろう」
「そうか……」
五番ワクチンが足りない。ルシールには他のワクチンを接種してもらう事になる。
俺と一蓮托生なのはルシールじゃない。
女王蜂アビーだ。
それを言外に突き付けられたような気がして、俺は複雑な気持ちになった。
「……」
俺は暫く考える。
他の者は実験結果を待ち、更に安全性の高いワクチンの接種を待つ事が出来るが、そのワクチン製造を行うルシールは一番天然痘に罹患する可能性が高く、ルシールだけは先にワクチンを接種しておく必要がある。
六番ワクチンはルシールに接種してもらう事になる。
俺は内心で小さく舌打ちした。
同行するゾイの事もそうだが、ここまでで思惑通りに事が運んだ事が一度もない。
忌々しい限りだ。
「他にワクチン接種の希望者は居るか?」
「……」
皆、黙って俯く。
試しにエヴァに視線を送ってみたが、エヴァは頑なに俯いて俺と視線を合わせない。
根性のないヤツだ。
「じゃあ、仕方ないな。よし。まずはフランキーだ。フランキーを押さえ付けろ」
フランキーは悲鳴を上げた。
「やっ、やめろっ! やめてくれっ! オレに妙な事をするんじゃねえ!!」
俺は静かに聖印を切る。
「案ずるな。沈んでは行くが、いつも同じ太陽だ」
おっと。こいつは死んで行くヤツに使った言葉だった。
まぁ、いい。
俺は嗤った。