118 闇の瞳
聖エルナ教会での、とある晩の事だ。
一日を終え、遅く。
その晩も、アシタがロビンの命令で俺の部屋を訪れる。
アシタは疲れ切った表情だ。
毎晩のようにアシタに命じ、『俺』を探らせるロビンの考えは分からない。
ただ、俺が思うのは、アシタに諜報の類いは向かないという事と、ロビンからは悪意のようなものは感じないという事だけだ。
「なんでもない。あたいは疲れてなんかねーよ」
等と言うアシタの顔には、はっきりとした疲れの色が浮かんでいる。
「『下水道』と比べりゃ、こんなとこ天国みたいなもんさ」
会話の内容は色々だ。
この聖エルナ教会での生活や、同室のゾイの事。口やかましいルシールの事。喋っているのは殆どがアシタで、その内容は他愛ない愚痴が殆どだ。
「ロビンとはどうだ。上手くやっているか?」
「ロビン姉ちゃんか? あの人は、あんたの事ばっかりさ」
「そうか」
傲慢な人種主義的性格はさておき、『教会騎士』レネ・ロビン・シュナイダーは有能な人物だ。あいつが俺に固執する訳は、未だ以て謎だ。
その晩もアシタの言う事は変わらない。日常生活の愚痴から始まって、やっぱり日常生活の愚痴で会話は終わる。
俺は、その殆どを黙って聞いているだけだ。
理由は幾つかある。
まず、俺は『高位神官』だ。何気なく放った言葉が対象に影響を与える場合がある。特に議論が白熱し、感情的になった場合は不味い。
次いで、どうしてもアシタの話には興味が湧かないというもの。その殆どが愚痴であるし、或いは過去の下水道生活に関する事が殆どだ。
その中には『フランキー』の話もあった。
「フランキーは、ど畜生さ」
『フランチェスカ』……通称『フランキー』。こいつはハイエナの獣人だ。
「ハイエナの獣人……」
異世界人である俺は、種族特性に疎い。
俺が興味を持ったのは『フランキー』という人物でなく、『ハイエナ』種の獣人だ。
アシタが語るには、ハイエナの獣人は、一見して犬人に似ているが、全くの別物であるらしい。完全な女性上位種。男より女の方が体格がよく、それに比例して腕力も強い。このハイエナ種にとって、『オス』はただの交配相手に過ぎない。『群れ』の中での『オス』はグループの最下層に位置する。
アシタは言った。
「あいつは、こす狡い。ビーは無茶苦茶フランキーのヤツを嫌ってる」
下水道を塒にするスラム育ちのガキ共は、大抵の悪事に手を染めるが、アビーの場合、絶対にやらない事がある。
「ビーは、女を売るのが嫌いなんだ」
「ふむ……」
それは知っている。
盗みもすれば、殺しもやらかす悪たれのアビーだが『売春』はやらない。
女王蜂アビゲイルが最も嫌うものが『売春』と『麻薬』だ。
幾ら腐った生活を送ろうとも、身体と魂は売ってはいけない。それがアビーのプライドだ。俺が最も好ましく思うアビーの美点でもある。
「けど、フランキーは違う。あいつは、売れるもんならなんだって売っちまう。信じられるか? テメーを慕うガキだって売っちまうんだ」
アビーの元を去ったアシタだが、決してアビーを嫌っている訳ではない。尊敬できるからこそ、六年もの長い間、従ったのだ。
俺は静かに言った。
「因果は巡る。それが裁かれるべきならば、いずれ報いがあるだろう」
アシタは肩を竦めて笑った。
「報いか……あんたがそう言うんだ。きっと、そういうものもあるんだろうな……」
皮肉っぽく言うアシタには、まだ信仰心というものが育っていない。
俺は何も言わず、静かに聖印を切った。
◇◇
「アビー、俺だ! 会えるか!?」
部屋の中からは、笑い声と共に機嫌の良さそうなアビーの返答があった。
「いいよ、入りな!」
扉を開ける。
部屋の中には、拘束され、四つん這いになったフランキーの背中に腰掛けるアビーが居た。
「おはよう、ディ。あんたのくれた椅子、気に入ったよ」
「そうか」
さて、命冥加に生き長らえたフランキーだが、俺に助けられた事は、決して運が良かったとは言えない。
俺は高位神官だ。
一応、フランキーには、慈悲と慈愛を以て尋ねた。そのまま、鼠の餌になった方がいいんじゃないかと。
フランキーは俺の慈悲と慈愛を突っぱねた。だからこうなった。
神というものは……
近くて遠く。遠くて近い場所にいる。そして俺たちを見つめている。見守っている。
「……」
俺は静かに聖印を切った。
「アビー、一応言っておく。そいつには強い反骨の相が出ている。絶対に信用するな。絶対に重用してはいけない」
重ねていうが、俺は高位神官だ。新たに備わった力の一つに『人相見』の類いもある。『宣告師』とは全く違う種類のものだ。顔付きを見れば、そいつの人と為りは分かる。
俺の忠言に、アビーは笑顔で頷いた。
「うんうん、分かってるよ。こいつには、近い内に『奴隷紋』を刻む。死ぬまでこき使ってやる」
これも因果の内の出来事だ。
アシタが居れば、フランキーのこの顛末をどう思っただろう。
「そうか」
或いは殺してしまうかもと危惧したが、そうでないというなら重畳。フランキーには過酷な生活が待っているだろうが、それは因果応報だ。
そこで俺は指を鳴らし、無造作に祝福をばら撒いた。
ガキ共もそうだが、一晩を経てグレタやカレンも疲労の色が見える。それを除いてやる。
アビーの元に残り、この過酷な状況を耐えていたガキの一人が呟いた。
「……おくのひと?」
どうやら、俺はまだ即神仏候補でいるようだ。笑みを浮かべ、互いに顔を見合わせるガキ共の様子にうんざりして小さく息を吐く俺に、スイが駆け寄って来て抱き着いて来る。
「……ただいま、スイ……」
「うん……お帰りなさい、ディ……」
俺を見上げるスイの表情には複雑な色が浮かんでいる。
不安、妬み、怒り、喜び。
勝手に出て行き、勝手に帰って来たのだ。放って置かれたスイの気持ちは無理もない。そして俺は、このリザードマンの血を引く左利きの少女に頭が上がらない。
「……すまなかった」
「うん……」
そこで、漸くスイは笑顔を見せた。にぱっと笑う。子供の子供らしい笑顔に、俺も思わず笑みが浮かぶ。
「高位神官? 嘘だろ……?」
そう呟いたのは、衰弱甚だしく、黙ってアビーの椅子をやっていたフランキーだ。祝福による回復効果で口を開く元気が出たのだろう。
フランキーは呻くように言った。
「……そういう事か。畜生……!」
元を辿れば、同じ下水道暮らし。二人の集団としての格はほぼ同等だったが、俺の出現により、アビーはあっという間にのし上がり、二人の差は見るも無残に広がった。
「ずっこいぞ、アビー……!」
悔しそうに呻くフランキーの様子に、アビーは手を打って笑った。
「そうさ、フランキー! あたしには『アスクラピアの子』が付いてんだ!!」
そのフランキーは、今はアビーの椅子をやっている。ここに至り、二人の差は決定的なものになった。
「畜生……畜生……!」
這いつくばり、俺を見上げるフランキーの顔は、嫉妬と憎悪に塗れてぐしゃぐしゃに歪んでいた。
「お前か……! お前が居たから……!」
「……」
フランキーには何の感情も湧かない。
だが、ほんの少し違えば、アビーとの立場は逆転していてもおかしくなかった。フランキーの考えている事はそんな所だろう。
「…………」
俺は『闇の瞳』でフランキーこと『フランチェスカ』を『観る』。目を合わせて言った。
「違う。お前はアビーのようにはなれない」
挑発とも取れるその言葉に、フランキーの目が強い怒りに燃え上がる。
「なんだと……!」
俺は鼻を鳴らした。
「無駄だと思うが言っておく。少しは性根を入れ替えろ。死相が出ている」
「……」
力を持つ高位神官の言葉だ。
フランキーは、頭だけは悪くない。『死の宣告』を受け、忘我の表情で俺を見上げる。
「お前は呪われている。お前自身が思うより、ずっと。お前が情け容赦なく殺めた者が、売り払った者が、地獄から上げる怨嗟の声が聞こえるか」
「……」
暗闇の深淵を覗くとき、深淵もまた覗き返している。
「お前は災いの使者だ。だが災いは、その使者すらも見逃さん。それを知る時が、お前の最期だ」
因果は対象を選ばず、分け隔てなく宿痾のように付き纏う。
俺が持つ『闇の瞳』は、静かにフランチェスカの運命を見つめている。