117 朝が来る
ジナの逆印を除く代償として、右手がイカれた。『聖痕』が焼け付くように激しく痛む。
その痛みに呻く俺の姿に、ルシールが悲鳴を上げた。
「ディート!」
右手は動かない訳ではない。無理をすれば動かせる。だが、あまりにも痛みが酷い。
麻痺術を使って、感覚ごと痛みを除こうとしたが効果はない。聖痕は『母』の施したものだ。これに母の力は通じない。当然の事だった。
念のため、所持していた麻酔薬を用いて漸く痛みを消した。
『薬』は効果があった。得難い情報だ。痛みはなくなったものの、右手は感覚が殆どなく、指一本動かない。
「くそッ……!」
また悩みが一つ増える。
『右手』はもう邪魔にしかならない。麻酔が切れれば、また痛みに悶え苦しむ事にもなるだろう。
頬を流れ落ちる冷たい汗を拭い、ジナに回復の術を使う。
俺の力は、もう『第一階梯』等という誰かの定めた基準には収まらない。銀の星が舞って、顔にそばかすのような天然痘固有の痘痕を残したものの、ジナの治癒には成功した。
『逆印』の呪は完全に消えている。問題なく癒した。
そして『聖痕』は、良くも悪くも俺の術に影響を及ぼさないようだ。忌々しくはあるが安堵する。
感覚のない右手は鉛のように重く、邪魔だった。そして『薬』を使い続ける以上、時間を置いて今度はその薬の副反応に悩む事になるだろう。そうなれば、切り落とす事も考えなければならない。
「ああ、ディート! なんて無茶を……」
麻酔を使い過ぎた。視界が霞み、意識が微睡む。ルシールの声が酷く遠い。気が遠くなる。
……くそったれが!
◇◇
時間がない。
天然痘の脅威は俺の予想を超えている。牛痘ウイルスからの安全な種痘作成を考えていたが、そんな悠長な事は言ってられない。
強毒の類いだが、今回入手した天然痘患者の瘡蓋を弱毒化して、人痘種痘を作成するしかない。
時間だ。まずは時間が欲しい。完璧な種痘を製造する迄の時間を稼ぐ代替品が必要だ。
「……」
少しの眠りから目を覚ますと、そこはアビーらが居住区として利用している長屋の一室だった。
右手がしくしくと痛んだが、耐えられない事もない。見ると右腕は包帯でぐるぐる巻きになっていて、その包帯には無数の神字が書き込まれている。
「これは……」
「先生がやったんだよ……」
答えたのはゾイだ。目尻を下げ、酷く心配そうな顔で俺の背中を擦った。
「……蛇封じか。考えたな……」
妖精族は不思議な術を使う。
この『神字』も、妖精族が使う不思議な術の一つだ。古代の神が遺した文字の一種で、それ自体に力がある。完璧ではないが、ルシールはその神字を使って俺の『聖痕』を封じようとした。
「……助かる」
依然、右手は役に立たないが、邪魔にもならない。痛みが軽減されただけで大分違う。まだ経過を見る必要はあるが、これで麻酔の使用を控える事が出来る。
そこで、ゾイが尖った声で叫んだ。
「毒犬! ちょっと来い!」
最早、苛立ちを隠そうともしないゾイの様子に困惑する俺の元へ、部屋の片隅で丸くなっていた犬人が鼻息を荒くして駆け寄って来る。
「ジナ……?」
そのジナだが、清潔感のあるレギンスに裾の長いTシャツのような衣服に着替えている。随分と見られる格好になった。
ゾイが怒ったように言った。
「ディに謝れ」
「……」
一種、豹変したとも言えるゾイの様子に困惑して言葉もない俺の目の前で、ジナはそれが当然の事のように土下座した。
「ごめんなさい」
「……」
ゾイは、一瞬、右の拳を振り上げ……それから俺の視線に気付き、怒りを誤魔化すように小さく咳払いした。言った。
「お前は、これから一生、ディの為に尽くすんだ」
「うん」
ジナは這いつくばったまま頷いて、それから嬉しそうに部屋中を駆け回った。頭のネジの跳び具合は相変わらずだ。
そのジナに、ゾイが怒って叫んだ。
「ディの近くで騒ぐな! 殺すぞ!!」
ゾイが……壊れてしまった。
ここに居るのは、とっても怖い『ゾイさん』だ。俺の知ってる、物静かで可憐なゾイじゃない。
「……」
ショックを受ける俺の様子に気付いたのか、そこでハッとしたゾイが小さく身震いした。
「せ、先生なら隣の部屋に居るよ。呼んで来ようか?」
「いや……俺が行く」
種痘の作成方法は既に説明してある。ルシールは既に種痘作成に取り掛かっているのだろう。
「……アビーは?」
その問いには、ゾイはいつものように笑顔で答えた。
「知らない。でも、フランキーを渡したら喜んでたよ」
「そうか」
まあ、フランキーは酷い目に遭うだろうが自業自得だ。
俺は神官服を肩に掛け、ゾイとジナを伴ってルシールのいる隣室に向かった。
「……ところで、ゾイ。分かっているだろうが、俺と一緒に居るのは良くない……」
俺もルシールも、既に天然痘患者に接触している。感染の危険があるという事だ。既に免疫を獲得しているジナとは違う。俺やルシールと一緒に居る事は、ゾイにも感染の危険が生じる。
「今さらだよ」
「……そうだな。今さらだな……」
何でもない事のように言うゾイと、相変わらず愚かなジナを伴って向かった隣室では、何重にも布のマスクを装着したルシールが既に幾つかの種痘の作成を終えていた。
既に免疫を獲得しているジナを除き、当然だが、俺とゾイもマスクと手袋をしている。
俺の考えた種痘の作成方法はこうだ。
天然痘患者の瘡蓋を乾燥させ、弱毒化させた上で水で溶き、更に毒性を弱める。希釈倍率が違うもの。浄化作用の強い聖水を用いて弱毒化させたもの。合計十種類のワクチン作成を思案した。
ちなみに天然痘ウイルスはアルコールで簡単に不活化するが、今回は効果の強い生ワクチンで行く。
さて……
ルシールに作成させたこの十種類のワクチンの内、どれが一番効果を発揮するかだが……
「ディート!」
俺の来訪に気付いたルシールが立ち上がり、目尻を下げた表情で駆け寄って来る。
「体の具合は? 聖痕は……」
「うん、心配を掛けたな。問題ないとは言えんが、悪くない。助かったぞ」
「はい……」
そこでルシールは気が抜けたのか、肩を落として大きな溜め息を吐き出した。
「……ワクチンは?」
「もう出来てます。問題はどれを使用するかですが……」
そう。問題はそこだ。毒性が強過ぎれば、ただ天然痘を感染させるだけだ。弱すぎれば効果がない。さて、どうするかだが……
人体実験できれば、それが一番よかったんだろうが、今回、そういう時間はない。そんな事をしている間にもパルマは壊滅してしまう。
俺は少し考え……
「ここは、一丁、勘で行くか……」
幸い、俺には『直感』に優れた親分がいる。そいつに選ばせよう。
「アビーだ。あいつに会いに行く」
ここが俺の居た世界なら、あり得ない方法だが、幸いここは異世界だ。『違うルール』が適用される。今回は、その『違うルール』を逆用する。
「……アビーに、選ばせるの……?」
ゾイは凄く嫌そうな顔をした。
おそらくだが、フランキーを差し出した際に何かあったのだろう。
「俺が一人で行く。お前たちは残れ。それと……ルシール。お前はまだ仕事がある」
俺の術で殆ど消えかかっているが、ジナの顔には、まだ水疱が残っている。既に病状を克服しつつあるジナの身体からは、更に有効性がある種痘の作成が期待できる。
ワクチンの数が絶望的に足りない。量産体制が必要だ。だが今は身近に居る者を守る為のワクチンが必要だ。その開発を急がねばならない。
ルシールには引き続きワクチンの作成を命じ、俺は出来上がった十種類のワクチンを持ってアビーが居る部屋に向かった。
右手は使えない。
肩掛け鞄にワクチンを突っ込んでアビーの元に急ぐ。
エヴァたちが居る部屋から、アビーの上機嫌な笑い声が聞こえる。俺の帰還を経て、アビーは引き籠りを止めたようだ。
現状、俺とルシールには天然痘感染の疑いがある。その為、俺は部屋の外からアビーに大声で呼び掛けた。
「アビー、俺だ! 会えるか!?」
部屋の中からは、笑い声と共に機嫌の良さそうなアビーの返答があった。
「いいよ、入りな!」
「……」
勿論、アビーにも天然痘の脅威は説明してある。もっと警戒すると思ったが、簡単過ぎる。
俺は少し考え……結局は考える事を止めた。ワクチン開発の成功は時間の問題に過ぎず、度を超えた警戒はワクチン作成の妨げになると思ったからだ。
扉を開ける。
そこには…………