116 聖痕
ややあって……
這い出すようにして、低い姿勢のジナがベッドの下から姿を現した。
「……」
ランタンの明かりで確認したジナの顔は、まるで何百回も殴られたかのように腫れ上がり、でこぼこだった。
天然痘の症状による皮膚の隆起。それが膿疱になっている。ほぼ瘡蓋になっている事からして、『治りかけている』というのが正確な状況だろう。
肩に掛けていた鞄から携帯食料を取り出して、やはり床を滑らせるようにして押しやると、ジナは俺から視線を切らないまま、携帯食料をもぎ取って、またベッドの下に戻ってしまった。
「ジナ……」
警戒心が強すぎる。誰も信じられないのだろう。俺がアビーの元を去り、約一ヶ月。潜伏期間を含めれば、その殆どが闘病生活だった筈だ。
――『毒犬』。
ゾイはそう呼んでいた。あの面倒見のいいスイまでもがこのジナを見放している。そして、ジナの看病が原因で天然痘に罹患し、死亡した者の事を考えると、相当酷い扱いを受けた筈だ。今、生きているのが不思議なぐらいだ。
「……」
ジナは携帯食料を咀嚼しながら、ベッドの下で、じっと俺を見つめている。
無理もない。
「……ジナ、出て来るんだ。逆印を消す。その醜い痘痕も消してやる……」
それでもジナは動かない。
この警戒心の強さは、犬人の特徴の一つでもある。愚かで、それだけに一度警戒心を抱くと中々に厄介だ。時間を掛けるしかない。
俺は、肩掛け鞄を少し離れた場所に置いて、その場に腰を下ろしてひたすら待った。
元より、俺たちの間に信頼など欠片もない。我慢比べだ。
「ジナ……ジナ……」
諭すのではなく。また、急かすのでもない。俺は穏やかに呼び掛け続ける。
粘つくような時間が過ぎる。
やがて――音もなく背後で扉が開く気配があった。
「ディート……?」
天然痘患者の瘡蓋の採取を終えたルシールがやって来た。
「……」
部屋中に充満する酷い臭気にルシールは黙り込み、膿と血で汚れた部屋を見回した。そして、ベッド下でこちらを警戒するジナを発見したのだろう。
――じゃらん、と鎖の鳴る音が聞こえた。
「……それが逆印の子ですか……まだ、生きていたのですね……」
ルシールが朝星棒を取り出す気配があった。
母の逆印を負う者だ。母に仕える修道女であるルシールが、その存在を許す訳がない。
「……初めて見ます……」
呟くように言ったルシールの声色には何の感情もない。殺意があるのは明白だ。
アスクラピアを信仰する者にとって、『逆印』を負う者は、軍神アルフリードの子らと同じく、悉く『神敵』である。
『逆印』を負う者には慈悲も慈愛も必要ない。ただちに打ち殺すべし。それがルシールの見解だろう。以前なら、それで合っていたが今は違う。
警戒心を強め、更にベッドの下に潜り込むジナから目を逸らさず、俺は言った。
「ルシール、ここは問題ない。下がれ」
「しかし……」
「何度も言わせるな。下がれ……!」
俺は待ったを掛ける形で手を上げて制止するが、ルシールは動かない。
「…………」
以前、ジナとの間にあった経緯は説明している。俺は、このジナに一度殺され掛けた。その事実がルシールを強く警戒させている。
手は出さない。だが、俺一人にするつもりもない。それがルシールの答えのようだ。
俺は小さく舌打ちした。
これでは、ロビンを連れて来たのと何も変わらない。
駄目だ。落ち着け。今、俺が怒気を発すれば、益々ジナを警戒させる。逆印を消すどころの話じゃなくなる。
苛立ちを収める為、ポケットから取り出した伽羅の破片を口に放り込んだ――
ところで、俺はとんでもないヘマをやらかした事に気付いた。
「……すまん、ジナ。嫌いだったな……」
鼻の利く犬人は匂いの強いものを嫌う。俺のこの悪癖も、ジナとの間に生じた諍いの理由の一つだ。
「……」
ジナは答えない。ずっと俺を観察している。警戒を解くつもりはないようだ。
俺は口に含んだ伽羅の破片を取り出し、話を拗らせたルシールに向かって投げ付けた。
「…………」
ルシールはロビン以上に平淡な顔付きをしていて、俺の行動など気にも留めない。伽羅の破片が転がる音が虚しく部屋に響いただけだ。
また粘るような時間が流れる。
俺とジナは見つめ合い、我慢比べの時間が続く。
犬人は……殊にこのジナの場合、頭のネジが何本か跳んでいる。何を考えているかは、さっぱり分からない。
はっきり言おう。
苦手だ。馬鹿と天才は紙一重というが、あれは本当の事だ。何を考えているか分からないという一点に於いて、この二つは何も変わらない。凡人の俺は、成り行きに任せるしかない。
そして、寒い!
砂の国、ザールランドの夜はとてつもなく冷え込む。部屋の中に居ても、体感温度はマイナス十度を下回る。暖炉に赤石の一つも投げ込んでやりたいが、余計な行動でジナを警戒させる事は避けたい。補助術で冷気に対する耐性を向上させたい所だが、それもまたジナを警戒させるだけだろう。
厄介だ。不器用な俺は、沈黙と忍耐で答えるしかない。
やがて青白い朝陽が射して来て、俺がずるずると鼻水を垂れ流し出した頃になって……
漸くジナが動いた。
「……ってほしい……」
何か言ったが、寒すぎて聞こえない。耳の先まで冷え切っている。俺は分かったフリをして頷いた。
「いいだろう」
何でもいいから早く出て来いと喚き散らしたかったが、もうその元気すらない。
だがジナは、そろそろとベッドの下から這い出して、俺の元までやって来た。
そして、この『逆印』を除く方法だが……何せあの邪悪な母の掛けた呪だ。一筋縄では行かない事は分かっている。
「……ジナ、来い……」
鼻を啜りながら、右手の手袋を取り去る。方法は一つ。あれしかない。
――『奪う手』だ。
母の術には対象の命を奪い取る術があるが、それを昇華させた俺の『オリジナル』。
命以外のものを『奪う』には、幾つかの条件を満たす必要がある。
白蛇の剣闘士を奪ったのもこの術だ。ヤツは母に仕える騎士だ。
『蛇』の影響が強い。
ヒュドラ亜種の時も同様だ。神話種とはいえ、ヤツもまた『蛇』だった。だからこそ『奪う』事が出来た。
この術には、まだ昇華の余地がある。俺はまだ未熟で同種に類いするものしか食えないが、本来、アスクラピアの蛇は悪食で何でも喰らう。
(蛇よ……俺の中の蛇よ……!)
俺は内なる蛇に語り掛ける。
右手が青白く輝く。銀の髪に星が舞う。その姿は正しく……
背後のルシールが、ごくりと息を飲み込む。ダンジョンでのロビンと同じように恐れ慄く。
「……アスクラピア……?」
正しくそうだ。青白い唇の女。しみったれた女神。親愛なる母の手を模したのがこの術だ。
「アスクラピアの二本の手。一つは奪い、一つは癒す」
まだ未熟だが、これが俺のオリジナル。『神の手』だ。
「あ……」
不吉を象徴する俺の『右手』に怯えたジナは小さく呻いたが、それでも逃げない。
『右手』がジナの額に……『逆印』に触れる。
「ぐぅっ……!」
その瞬間、『右手』に焼け付くような激痛が走った。
触れた瞬間に理解した。
これは『喰えない』。神話種すら喰らった俺の蛇だが、神の力は巨大過ぎる。偉大過ぎる。桁が違う。研鑽を重ねたとしても無理だろう。
これが『神』か……
そう内心で唸る俺の『右手』から、しゅうっと音を立てて煙が上がる。無理なものは無理だ。
だが……俺は思うのだ。
親愛なる母よ。俺は間違っているか? このジナは愚かだが、現状、『逆印』を必要とする程の存在か? そうではない筈だ。
神官の力は、全て借り物だ。祈るしかない。しみったれた母の助力を請うしかない。
これは『喰えない』。分かっている。だが、ジナには必要ない。しみったれた母だが、道理が分からない程の邪悪ではない。
そして――
「ぐぅうぅっ!」
あまりの激痛に耐えきれず、『右手』を離したとき。
ジナの額から『逆印』が消えていた。
「うぐ……!」
未だ激痛が走る『右手』を見ると、手の平に……『聖印』が浮かんでいる。
『奪った』のではない。写し『奪った』。逆印は裏返り『聖印』になって俺の『右手』に刻まれた。
「……こうなるか……」
激しい痛みが続く。逆印は聖印となり、呪としての効力を失くしたが『聖痕』となって右手にその痕跡を残した。
「くそッ……くそッ……!」
この手はもう駄目だ。あらゆる意味に於いて使い物にならない。
神の力は巨大過ぎる。虫けらの俺には扱えない。
この日、しみったれた母は、ジナの逆印を消す代償として俺の『右手』を奪った。
◇◇
太陽を直視するべきではない。それは、ともすれば大きな不幸を伴うからだ。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇




