115 地獄2
フード付きの外套を目深に被り、口元には何重にも布を巻く。
ここは天然痘の震源地だ。防疫は幾らやっても切りがない部分があるが、手を抜く訳には行かない。
「ルシール、離れるな。先ずは二人一緒に行くぞ」
両手に分厚い手袋を嵌め、夜陰の中を隣の長屋に向かう。
縁側に当たる廊下では、二人ほどが倒れ込んでいるのが見えた。
身体中に天然痘特有の膿疱があり、ぴくりとも動かない。生きているようにも思えない。
「……中に入る。まずは生存者を探す……」
この俺の手を以てしても、死者だけはどうにもならない。零れ落ちた命は救えない。
エヴァの話では『八人』。残る六人は、まだ長屋の中に居るという事になる。
「……触れるなよ。まずは生存者の有無を確認してからだ……」
「……」
ルシールは、眉間に皺を寄せた険しい表情で小さく頷いた。
「疫病は初めてか……?」
「はい……」
「俺もだ」
防疫がいかに難しく、厳しいかについては、ルシールにも聞かせている。その表情は険しいままだった。
こんな事とは、関わらないのが一番いい。そういう意味では『寺院』の出した結論も、あながち間違いとは言えない。
だが、俺は力を得た者としての義務がある。母は、残酷でしみったれているが、その一方で慈悲と慈愛の戒律を残した。
大きな『力』は、無分別と偶然によって邪道に導かれる。よって、『力』は正しく使われなければならない。弱者救済は、アスクラピアの子の存在意義とも言える。
手に持ったランタンを翳し、用心深く長屋の一室一室を見て回る。
生存者は三人。
しかし、何れも症状が重篤で助かる見込みはない。
「……ここが異世界で、良かったな……」
結果から言って、第一階梯の神官の祝福と回復の術は、天然痘末期の患者にも効果はあった。
天然痘特有の膿疱の症状が治まり、惨たらしい見た目は幾分元に戻った。だが、高熱が下がらない。膿疱は白くなり、小さくなったがそれだけだ。間を置かず膨れ上がり、再び膿疱として出現するだろう。これでは『治った』とは言えない。
都合、三度の術の行使の後、状況が好転する気配を見せないのを確認して、俺はそれ以上の努力を諦めた。
母の術は偉大だが、完璧な癒しをもたらすものではない。ここが魔法の限界だ。それを痛感する俺がいた。
ルシールは静かに首を振った。
「……ディート。慈悲を……」
この場合の『慈悲』は救済ではなく『殺せ』という意味だ。
俺は……
「いつも同じ夢だ」
母の手は、いつだって優しい暗闇から差し伸べられている。
「赤い花の咲く木。春の花が咲き乱れる街。その街角に立つ寂しく古い家」
俺は静かに祝詞を詠み上げ、その間、ルシールは跪いて祈りを捧げていた。
「静かな庭で、母がお前の体を揺する。……もう久しく前から、家も庭もなくなっている……」
そう。全ては夢だ。現の苦しみも喜びも泡沫の夢でしかない。せめて最期は安らかに眠っていてほしい。
「……いまは草原に道が通じ、風が吹き抜けて行くのみだ。そこにはもう、お前の故郷も家も何もない。母が見せる夢のほか、何も残っていない……」
忌々しいが、寺院の判断は正しい。こんな事とは関わらないのが一番いい。
『送別の祝詞』により、母の手は速やかに三人を召し上げた。
もう、苦しみも痛みも喜びもない。後に残るは静寂のみだ。
◇◇
暫く黙祷して死者の為に祈る。
『子供』の『死』は、俺を暗鬱な気分にさせる。ダンジョンの奥を思う。神秘を思う。心は思い窶れる。
「……」
誰一人助けられないとは……
俺は、なんとかなると心の何処かで傲っていたのだろう。そんな俺を、現実は強かに打ちのめした。
俺は神官服の裾を翻す。
「……ルシール、瘡蓋を集めておいてくれ。俺は他の部屋を浄化して来る……」
「……」
静かに頷いたルシールは、予め用意してあった小瓶に、ピンセットで天然痘患者の瘡蓋を集めている。
そのルシールを後に残し、俺は再び長屋の部屋を見て回る。
……ジナが居ない。
あいつの事については、エヴァからもゾイからも報告を受けてない。だとすれば、何処かに居る。そう考えるべきだ。
そして、時間の経過からして……生きているとしたならば……既に病状を克服している……。
恐ろしい事だ。今のジナの状況は想像もつかない。
何処かしらに後遺症を残している可能性がある。身体中のそこかしこに痘痕があるだろう。そして額には母の『逆印』がある。
……呪われた者だ。
母の残した逆印がある限り、あいつには何処にも居場所がない。
ぼんやりとしたランタンの明かりが照らす闇の中、俺は囁くように呼び掛ける。
「……ジナ、ジナ……生きてるなら出て来い……」
静寂が支配する闇の中、いらえは何処からもない。
「……俺だ。ディだ。もう怒ってない。全て俺がなんとかしてやる。出て来るんだ……」
やはり返事はない。
報告がないだけで、ジナは既に死んでいて荼毘に付されている可能性もある。
だが、諦めない。
「……ジナ、出て来い。食い物も水もあるぞ……」
そう言った瞬間、まだ確認していない長屋の一室から小さな物音がしたように感じた。
……いる。
どんな状況かは分からないが、ジナは生きている。隠れて用心深く俺を警戒している。
だが、隠れているのがジナでない可能性もある。俺は新たに三体の剣闘士を召喚して身の回りを警戒させた。
「……ジナ。ジナ……」
決して怒ってない。俺は穏やかに呼び掛けつつ、物音がした一室の扉を開け放った。
「う……」
瞬間、その一室から漏れ出た臭気に吐き気を催して一歩引き下がる。
手にしたランタンの明かりが室内を照らす。
部屋の中には薄汚れた毛布と空になった食器。子供たちが作っただろう粗末なベッドがある。
そのベッドの下。
ランタンの明かりに反射して、震える光彩が二つ、俺を見つめ返している。
「……ジナ?」
一瞬だったが、微かな明かりに照らし出された顔は確かにジナのものだった。
酷く怯えていて、ベッドの下から出て来ようとしない。額の逆印もそのままだ。しかし……
なんという生命力。
天然痘の死亡率は20~50%。この劣悪な環境下ではそれ以上の死亡率になるだろう。だが生きている。
怯えている様子からは考えづらいが、万が一の反撃を恐れた俺は、床を滑らせるようにして、水の入った水筒をジナに押しやった。
「……!」
素早く伸びた手が水筒を引っ掴み、ベッドの下に引き込む。
「…………」
ベッドの下のジナは、水筒に噛み付くようにして牙で穴を空け、そこから漏れ出した水を薄く長い舌で、びちゃびちゃと舐め取って水を飲んでいる。
「……」
その光景を見守ること暫し。
見る限りに於いてだが、ジナは酷く怯えているものの、エヴァにやられた怪我や天然痘の病状からも既に解放されているように見える。
(獣人か……)
この生命力は、確かに『人間』のものとは違う。
「……ジナ、出て来い。食い物もあるぞ。どうした……?」
「……」
ジナは怯えたように俺を見て、何度も首を振る。渇きに嗄れた声で、悲しそうに言った。
「……いやだ……」
「どうして? 俺なら、もう怒ってない。誰もお前を責めはしない」
こいつは確かに愚かで間抜けだが、このような仕打ちを受けなければならない程の悪人ではない。
「……だれ?」
あの頃から、俺の容貌は随分と変わっている。ジナは俺を認識できないようだった。
「ディだ。No.2だ。覚えてないか……?」
「……No.2? ディ? あすくらぴあのこの……?」
俺は用心深く言った。
「そうだ」
「……」
恐らくだが、闘病中、ジナは相当に責められたのだろう。俺を見つめ返す瞳には怯えの色しかない。
「……あすくらぴあが、おこってる……」
渇きの為、涙すら流れる事はないが、痘痕に塗れたジナの顔はくしゃくしゃの泣き顔だった。
反撃の可能性はない。
そう確信した俺は、三体の剣闘士を消して、一対一でジナと対峙する。
「……逆印の事か。大丈夫だ。それもなんとかしてやる。出て来るんだ……」
「ほんとか……?」
「ああ、本当だ。信じろ」
嘘だ。
そんな保証は何処にもない。あの邪悪な母の仕込みだ。考えがない訳ではないが、神の御業というやつだ。俺にどうにか出来るとは思えない。
こいつは、もう終わってる。
それが俺の正直な心境だ。
何せ、神の呪いを受けたのだ。こいつは、生きていても何処にも行けない。『アスクラピア』はこの世界の神の一柱だ。信仰の有る無しに関わらず、その呪いを受けた者を誰も許しはしない。寄って集って叩き殺すだろう。
だが、俺はこうも思う。
母が、この天然痘の脅威から逃れる為にジナに逆印を施したとするならば、現状では、もうこの逆印は必要ない。
ならば、消せる。
俺は母を信仰する。信じている。そんな分からず屋ではないと。
「ジナ、来い。俺が逆印を消してやる」
◇◇
時という日輪の馬が運命を引いて行く。
覚悟を決めて成すべきを為せ。
運命の手綱をしかと取り、意を決して行くよりない。
何処へ行くか、誰が知ろう。
何処から来たのか、誰も覚えてはいないのだから。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
遅れました。すみません。
皆さんの応援で社畜はなんとかやってます。
度々、こんな事があるかもですが、二日に一話の更新は厳守して行きたいと思っています。