114 地獄1
アビーが眠るのを待ち、部屋を出た。
時刻は既に夜半になろうとしていたが、廊下では、そわそわと落ち着きのないエヴァが俺を待っていた。
俺の顔を見るなり、エヴァが開口一番言った。
「ビーは?」
「もう大丈夫だ。落ち着いた。明日には部屋から出て来るだろう。渋っても俺が引きずり出してやる。安心しろ」
そう聞いて、エヴァは大きく胸を撫で下ろした。
「……ルシールは?」
今から、地獄絵図だろう隣の長屋に行くつもりだ。危険だが、あいつにだけは同行させるつもりでいる。
エヴァは小さく頷いた。
「妖精族の人か? あの人、無茶苦茶使えるね。ガキのあしらいが上手い。スイも落ち着いて寝ちまったよ」
「そうか」
まあ、光りものに目がないという情けない欠点こそあるが、ルシールは高位の修道女だ。経験、実力共に申し分ない。子供の扱いも、あいつに期待していたものの一つだ。
「ゾイはどうしている。メシぐらいは出してやったか?」
そこで、エヴァは顔をしかめた。
「……あいつなら、メシはあんたと食うの一点張りさ。まだ長屋の警戒をしてくれてるよ……」
「ふむ……そうか。ところで、そのゾイの事だ。アビーにはもう許可を取ったが、許せとまでは言わんから、暫くは見逃してやってくれ。頼む」
俺が頭を下げて見せると、エヴァは一瞬意外そうにして、それから頷いた。
「そりゃ、分かってるよ。時と場合は考えるさ」
やはり、エヴァは馬鹿ではない。あっさりと了承した。だからこそ、俺はこのエヴァにも期待している。言った。
「……話は変わるが、エヴァ。お前、いつまでここに居るつもりだ?」
「……え?」
「名ばかりのNo.2の俺と違って、実質は、お前がここのNo.2だ。独立したいとは思わないのか?」
そこで、エヴァは険しい表情になった。
「なんだ、あたしにビーと逆縁切って出て行けって言ってんのかい?」
「違う。そういう意味じゃない。アビーのヤツは、これからもっとデカい縄張りを手に入れる。お前が、いつまでもアビーの腰巾着をやってるようじゃ困るんだよ」
まあ、容赦ない事を言ったから、エヴァは一瞬でキレた。
「腰巾着だってえ!? っざけんな! 相変わらずヤな野郎だ! あんたは!!」
その意気、大いに結構。俺は笑った。笑って言った。
「じゃあ、お前も親分になれ」
「え?」
その時のエヴァの顔といったら、相当な見物だった。自分自身がリーダーになるなんて考えた事もなかったのだろう。目を丸くしてキョトンとした。
「お前は排他的な所が駄目だが、強いし頭も切れる。形はアビーの組織の傘下という事になるが、お前自身も親分になって、自分の縄張りを持て」
これは当然の事だ。組織が巨大になれば、アビーが一人だけで全てを支えきれる訳がない。傘下に置くという形で組織を分割させるのは自然の成り行きだ。
「お前自身の子分を持て。ちゃんとアビーにも敬意を払えるヤツだ。いいな?」
「ちょっ、待っ……」
「嫌だ。待たない」
すげなく言って、俺は神官服の裾を翻す。
これは決定事項だ。エヴァだけじゃない。もっとリーダー格を張れる人材が必要だ。
ルシールらが居るだろう部屋に足を向ける俺だったが、その俺にエヴァが付いて来る。
「あたしが親分!? はあ!? 」
「なんだ、嫌なのか? アビーから少ない小遣いを貰って、腰巾着のままでいたいのか?」
「ざけんな! クソ野郎!!」
「ははは」
エヴァとは不仲だが、それなりにこいつの事は理解しているつもりだ。
俺は笑いながら、無責任に言った。
「そうそう、近い内にヤクザ共にカチ込むぞ」
「はあ!?」
エヴァは驚いているが、アビーもまたヤクザだ。やられっぱなしじゃ面子が立たない。これは当然の報復だ。やらなきゃナメられる。
俺は、きっぱりと言った。
「ヤツらを皆殺しにする」
そう聞いたエヴァが立ち止まり、俺は背中に視線を感じた。
「大丈夫だ。全て俺とアビーがやる。この街も、少しは綺麗になるだろう」
ゴミはゴミ箱へ。
そういう事だ。
◇◇
「……あんたが一番ヤクザだよ……」
背後でブツブツと呟くエヴァを引き連れ、向かった長屋の一室では、ルシール、グレタ、カレンの三人がガキ共を寝かし付けていた。
「……随分と減ったな……」
その一室で眠っていたのは、スイを含めて五人程のガキ共だ。エヴァは八人やられたと言ったが、これでは計算が合わない。
エヴァが悔しそうに言った。
「……逃げたんだ。今のアビーは落ち目だからね……」
「そうか」
人の生は彩られた影の上にある。これもその一つに過ぎない。
「その内の何人かは天然痘で野垂れ死ぬだろう。帰って来たヤツは暖かく出迎えてやれ」
「……」
エヴァは黙っている。
裏切り者は許せない。排他的なのが、こいつの悪い所だ。だが、この危機的状況で見限って逃げた者を許せないという心理が分からない訳じゃない。
「帰って来たヤツは使い潰せ」
「……」
エヴァは、どっと疲れたかのように溜め息を吐き出した。
「……やっぱ、あんたが一番ヤクザだよ……」
その言葉に、俺は鼻を鳴らして嗤った。
そして――
「ルシール、来い。ここはグレタとカレンに任せろ。俺たちに休んでいる暇はない」
「はい」
ルシールに慌てた様子はない。
これでも高位の修道女だ。奉仕活動の一環として似たような経験があるのだろう。
「エヴァ。お前も疲れているだろう。休め。無理そうなら、そこの二人に頼め。未熟だが、眠りの術ぐらいは使える」
「分かった……」
そうだ。
俺は、先ず身近な地獄にケリを着けなければならない。
グレタとカレンの姉妹にこの場を任せ、ルシールと共に長屋の外で警備を続けるゾイの元に向かう。
砂の国、ザールランドの夜は氷点下まで冷え込む。目深に外套を被る俺に、ルシールが静かに言った。
「……ディート。首尾は……」
「どう転がるか分からんが、今の所は上手く行っている。スラムヤクザを一掃する」
「是非、おやり下さいませ。このような幼子たちに刃を向ける者に、生きる資格などありません」
これも『慈悲』と『慈愛』だ。俺たちが信仰する神は甘くない。驚くには値しない。
俺は頷いた。
「ああ、ここは任せるぞ」
「はい」
ルシールには、既に『聖女』に至る道筋は話してある。この段階で、俺たちの意思に齟齬はない。
通りに出ると、風に乗って肉の焼ける匂いがした。
通りの中央で、口元にマスク替わりの布を巻いたゾイが、赤石を使って火を炊いているようだ。十二体の召喚兵は、そのゾイの指揮下で油断なく長屋の周囲を警備している。
この生真面目さと忍耐強さがドワーフの強味だ。アシタ辺りなら集中力が切れていただろう。
「ゾイ、何もなかったか?」
「……」
ゾイは、火の中で折り重なるスラムヤクザの男たちを指差した。
俺が殺したのが八人。
そこに二人増えている。召喚兵かゾイか分からないが、新しくやったのだ。
「……とりあえず、腹が減ったな。何か食おう……」
人肉の燃え立つ炎で暖を取りながら食事するのは、地獄に向かう風情がある。
「うん。賛成」
ゾイもまたスラム育ちだ。地獄に近い場所で育ったのだ。敵に掛ける情けはない。
その後は、三人並んでビスケットのような携帯食料で簡素な食事を済ませた。
「フランキーはどうするの?」
「ああ、そんなヤツが居たな。どうしてる?」
「少し水と食料を分けてやって、後は縛って転がしてるよ」
「そうか。朝一番でアビーに差し出せ。好きにするだろう」
「分かったあ」
俺が必要以上にフランキーに情けを掛けない事を知り、安堵したのだろう。ゾイは笑った。
それはルシールも同じ事だ。
『下水道』で、フランキーは明らかに仲間を殺した形跡があった。俺は「生きたい」と言ったフランキーの願いに応えた。これ以上の情けは必要ない。
「……ディート。もう野に下るのですか……?」
俺の神官服に襟章がない事に気付いたのだろう。ルシールは驚く事こそなかったが、少しだけ表情を曇らせた。
「……少し予定が早まっただけだ。気にするな……」
「そうですね」
これは、ただの確認だ。寺院との決別の意思はルシールも変わらない。地獄に行くのは俺たちだけでいい。
「…………」
漠然と夜空を見上げ、俺は呟いた。
「……この世界の星は、綺麗だな……」
『科学』が発展していないせいで、空気が澄んでいるのだろう。この世界の星はやけに近く見える。
きっと、天国にも近いのだ。
妙な感慨を持つ俺の言葉に、ルシールもゾイも答えない。
どうでもいい。
天国は、俺には一番程遠い場所だ。そろそろ地獄に向き合う準備が出来た。
「行くか。ルシール」
「それでは、何処までも……」
「……」
共に地獄に向かう俺たちを、賢いドワーフの少女だけが、黙って見つめていた。