113 蛇の道は……
襟章を取られた事はいい。
今の地位に未練がある訳じゃない。最終的な目標が『聖女』にある以上、寺院との決別は時間の問題でしかない。だが――
今のアビーは危うい。
エヴァが言うには、ずっと『気を張っていた』。それはつまり、『スキル』を使い続けていたという事だろうか。
壁に凭れ掛かるようにして腰を下ろす俺の胸に額を押し付けながら、アビーは低い声で言った。
「……ディ。あんたが居なくなってからは、くそったれの毎日だったよ……」
「すまん……」
腫れ物に触るような気分でいる俺に、アビーは首を振った。
「……いいさ。あの馬鹿は、あたしが連れて来たんだ。あんたは、あんなに嫌がってたのに……」
少し落ち着いたようにも見えるが、今のアビーが危うい事に変わりはない。体調も気分もかなり落ちている。俺は用心深く言った。
「……そうだな。それより、少し休め。酷い顔だ……」
「……」
「……アビー、今は考えるな。俺が帰ったんだ。全部、上手く行く……」
そこで、俺はアビーの額に口付けして、かなり強目の祝福を施した。
「……っ!」
身体の周囲に目映い銀の星が舞い、アビーは全身を震わせた。
第一階梯の神官の強い祝福だ。
これで体調や気分も変わるはず。身体を起こし、俺の顔を見上げたアビーの顔色は、目の下の隈が取れて随分マシな顔色になっていた。
アビーは、うっとりとして、俺の胸に頬を擦り付けて来る。
「……あぁ……いいよ……また腕を上げたねえ……」
「……」
そこでアビーは起き上がり、ささっと髪を整えた後は、その場に胡座をかいて座り込んだ。
「……大分、すっきりしたよ。だらしないとこ見せちまったかね……」
「いや……」
アビーは十五才だ。ガキ共の中では最年長とはいえ、まだまだ大人の保護を必要とする年齢だ。特にアビーの場合、大勢のガキを手下に置く以上、受ける重圧も相当なものだろう。
「アビー、お前はよくやった。よく耐えた」
しっかりしかけたアビーだったが、そこでまた、へにょりと目尻を下げてまた俺の胸に顔を埋めた。
「……うん、今回はしんどかったねえ……」
俺はアビーの背中を擦ったり、髪を撫でたりしながら様子を見るが、アビーは俺から離れず、暫く黙っていた。
甘えたい気持ちなのだろう。
背中を擦ってやると、アビーは気持ち良さそうに溜め息を吐き出した。
「……それで、ディ。あんたが帰って来て、またツキが戻って来たって思いたいけど、何か考えはあんのかい?」
「勿論だ。暫くは忙しくする。その為の人員も連れて来た」
「……人員って、あんた以外にも、誰か来てんのかい?」
そうだ。今のアビーを休ませるのは必須事項だが、トラブルを避ける為に幾つか言って置かねばならない事がある。
まずは、聖エルナ教会から連れて来たルシールら三人の修道女の事。
今は非常事態だ。アビーは頭から拒絶する事こそなかったが、『修道女』と聞いて顰めっ面になった。
「苦手だねえ。ああ、苦手だ。あたしは、アスクラピアの修道女は嫌いだ」
「今は言うな。その内、二人は落ちこぼれだが、一人は元修道院長の腕利きだ」
高位の神官である俺と、やはり高位の修道女であるルシールが力を貸すのだ。それがどれだけ大きな事か分からないほど愚かなアビーではない。だが……
「……あんた、よりにもよって修道院長様をお連れになったってのかい……?」
アビーは呆れたように溜め息を吐き、続けて苦虫を噛み潰したような顔になった。
「ああ、クソ! 有難い事なんだろうね。分かるよ。全くのくそったれだけどね……!」
そして、これだけは言って置かねばならない。
「……ゾイも居るが……」
俺が、ゾイの名前を出した瞬間のアビーの変化は劇的だった。俺が全てを言い終える前に立ち上がり、激昂して叫んだ。
「ああ!? あのチビ! まだ、あんたに付きまとってんのかい!?」
「……」
アビーお得意の超音波攻撃に、俺は会話を打ち切りたくなったが、こればかりは途中で断念する訳には行かず、首を振った。
そこで、俺はこのパルマに入る為に酷く難儀した事を話した。
ザールランド騎士団に、全く信用されず『溜め息橋』を渡れなかったこと。
「けっ、そりゃそうだろう。寺院でまともなヤツなんか居ない。神官さまも難儀だねえ」
アビーは痛烈な皮肉を言って、その後は難しい表情でまた胡座の姿勢に戻った。
「それで『下水道』を通る必要があったと。あんたが言いたい事がそれだけなら、あたしがぶっ殺しちまわない内に、今すぐ叩き返すんだね」
「許せとは言わん。今は見逃せ」
「やだね!」
そう突っぱねるアビーだが、こればかりはそうも行かん。
「なら、俺も物資を持って引き上げる」
「……ぐっ!」
と、言葉に詰まるアビーに、俺はすかさず畳み掛ける。
「聞け、アビー」
そこでアビーは髪の毛を描き毟った。
「ああ、畜生! また始まったよ!!」
有難い『お説教』の始まりだ。
無理が通れば道理は引っ込む。アビーは馬鹿ではない。だからこそ、俺の話を無視できない。
「アビー。俺が教会を捨てて、あんたの下に戻るのはいい。だが、俺がアスクラピアの神官である事は変わらない。それをどう思っている」
そうだ。執着心だけでは結果は変えられない。元が馬鹿でないアビーは、それだけに言葉に詰まる。
「そ、それは……」
「考えなしか。愚か者め。俺を縛り付けたいなら、口先だけじゃなく、それだけの価値がある何者かになれ」
「…………」
アビーが黙り込み、いつものパターンに入った。
俺は難しい表情で続ける。
「これから先、どれだけ多くの問題が俺たちの前に立ち塞がると思っている。ゾイの事は些細な問題だ。これぐらいの事も、お前は我慢出来ないのか?」
「で、でも、あのチビは逆縁切りやがったんだ! これを許しちゃ、あたしも面子が立たないね!」
「ふむ……」
突っぱねるばかりが俺の『お説教』ではない。俺は頷き、アビーの言い分にも一定の理解を見せる。
「それがつまらんと言ってる訳だが……いいだろう。お前の面子も立ててやる。だから、今は見逃せ」
睨み合う俺とアビーだが、そのアビーは何処か面白そうにしている。意地悪そうに、にやにや笑った。
「言ったね。あんたが何を考えてんのか分かんないけど、あたしゃ半端な事じゃ許さないよ!」
「その時は、俺の手でも足でも好きな所を持って行け」
ガキでも、アビーは侠客だ。面子が命と言っていい。そこを曲げろと言う以上、俺も覚悟を見せなきゃ話にならない。
だが、そこでアビーは怯んだように仰け反った。
「そ、そこまでは言わないよ……」
「……?」
よく分からないが、アビーはそこまで俺を追い詰める気はないようだ。
俺は改めて言った。
「アビー。お前は、このパルマを支配しろ」
「へ……?」
アビーは、ぽかんと大口を開けて間抜け面を晒しているが、これは俺の計画の一つに過ぎない。
このパルマのスラム街から天然痘を撲滅する。それが出来れば『名声』が手に入る。
「アビー。覚悟を決めろ」
「か、覚悟って……」
スラム街とはいえ、一つの街を手中に置くのだ。ただのガキでいていい訳がない。
「ただの小悪党じゃつまらん。どうせなら、大悪党になれ」
「大悪党……?」
天然痘は一掃する。その方法は既にある。だが、それだけで街一つ手に入れる事は出来ない。
俺は言った。
「スラムヤクザを皆殺しにする」
それで『実力』を示す事が出来る。
アビーと俺が支配する街にゴミはいらん。どうせ住むなら、少しでも綺麗な街に住みたい。
『名声』と『実力』。この二つを以て、パルマを裏面より支配する。そうすれば、誰も俺たちを無視できない。
……『聖女』に手が届く。
俺は『寺院』という超巨大組織に、なんの後ろ楯もなく挑むような馬鹿ではない。
天然痘の撲滅も、スラムヤクザの一掃も『聖女』に近付く為の足掛かりに過ぎない。
そして――
あの邪悪な母に、俺の親孝行ぶりを見せ付けてやる。
きっと、想像を超えて面白い話になるだろう。その時になって、母がどんな顔をするか楽しみだ。
俺は唄うように言った。
「おお、母よ。なぜ、貴女は復讐を是とされたのですか?」
その対象は、何も、あんただけが例外じゃなかろうに。
俺は『アスクラピアの子』ディートハルト・ベッカー。
蛇の道は蛇。
それだけだ。