112 女王蜂、再び
アビーたちが居住用として利用している長屋は、他の長屋と違って周囲に壁を張り巡らせてある特別製だ。
スラムヤクザ共の襲撃も想定していたのだろう。その為、防御力は高い。
現状、どういう理由からスラムヤクザに襲撃を受けたかは分からないが、奴等の襲撃など、今の俺には取るに足らん。
目の前で木製の扉が開き、顔を出したのはエヴァとスイだ。二人とも酷く憔悴している。
「すまん、エヴァ。遅れた」
「……いや」
エヴァは、先ず、変わった俺の容貌に目を見張り、続いて、辺りに転がるスラムヤクザ共の死体を見て、ごくりと息を飲み込んだ。
「これは……あんたが……?」
「ああ、少し休んでもらっている」
もう二度と起きる事はないだろうが。
「そ、そうかい……」
自分で言うのもなんだが、俺の冗談はつまらない。エヴァは、にこりともしなかった。
「余計なお世話だったか?」
「いや……クソ野郎共さ。あたしらも手を焼いてたとこだったから、助かったよ……」
俺が小さく頷いて見せると、エヴァも同じように小さく頷いて見せ、それから俺の背後に立つ修道女たちを見て、眉間に険しい皺を寄せた。
「……そいつらは?」
「今回、俺一人では間に合わんと判断した。聖エルナ教会から連れて来た援護の人員だ。物資も持って来た」
それでもエヴァは、警戒するようにルシールらを見つめていたが、グレタとカレンが持っている大量の援護物資には目を輝かせた。
「く、食い物を持って来てくれたのかい?」
「ああ」
「そりゃ助かるよ!」
そこで漸くエヴァは警戒を解き、物資を受け取った後は、先ず俺にだけ長屋の中に入るように促した。
俺は予め召喚してあった六体の聖闘士に加え、更に六体の剣闘士を召喚して、それら全ての指揮権をゾイに委ね、長屋の警護に当たるように命じ、それから長屋の中に入った。
「……」
ゾイは目を細め、エヴァと睨み合っていたが、口に出しては何も言わなかった。
これは良くない火種の一つだが、今はアビーとの面会が先だ。
長屋の敷地内に入るなり、スイに抱き着かれた。
「ディ……ディ……! もぅ、やだぁ……!」
「スイ、良かった。無事でなによりだ……」
そのスイを抱き寄せながら、俺は胸を撫で下ろした。
このスイには、一ヶ月も面倒を看てもらったのだ。心配でなかった訳がない。
「……アビーは? あいつは無事か……?」
恐る恐る言う俺に、エヴァは難しい表情で頷いた。
「ああ、あんたの手紙を見てからは物凄く気を張ってる。あれから寝てないんだ。皆に、外に出るなって命令してからは、ずっと長屋の奥に居るよ……」
エヴァの説明では、この三日間というもの、アビーは長屋の奥に閉じ籠り、そこから指示を出すだけで外には一切出て来ないらしい。
エヴァは力なく言った。
「今のあたしらには、ビーの『直感』だけが頼りさ。絶対に外に出るなって……外はどうなってる?」
「……地獄だ。アビーの判断は正しい……」
しかし……『直感』か。
アビーは己の直感に並みならぬ自信を持っているようだったが、ここまでのものだとは思わなかった。おそらくだが、これが『スキル』というやつだろう。
「……でも、もう限界だった。食い物もなんもかもなくなって……ヤクザ共は調子に乗ってカチ込んで来るし……それでもビーは、外には絶対に出るな、ディを待てって……」
「うん……すまん。先ずはガキ共に食わせてやってくれ」
「……」
そこでエヴァは目尻を下げ、項垂れた。
「……八人やられた……」
「そうか……」
厳戒体制を敷き籠城を選んだアビーだったが、それでも八人が天然痘に感染した。
「そいつらはどうした?」
「……隣の長屋に押し込んだ。それが、三日前の話さ……」
「……」
やむを得ない事とはいえ、中は地獄絵図だろう。このエヴァにも、その連中が生きているか、死んでいるかは分からない。俺は答える事はせず、黙って首を振った。
「ビーは、今夜にでも燃しちまえって……」
俺が言った事だ。その判断も合ってる。だが……
「待て。俺が来た。アビーと話したい」
「ああ、そうしておくれな……」
排他的だが、仲間意識の強いエヴァにとって、幾ら正しいとはいえ、仲間ごと燃やせというアビーの苛烈な判断は堪えたようだ。殆ど泣きそうな顔で頷いた。
俺に抱き着いて離れないスイの肩を抱いたまま、エヴァの先導で進んだ先は、元々俺が居室として使っていた部屋だ。壁が厚く、外からはアビーが持っている鍵以外では開けられない。つまり……
「……」
俺は僅かに怯んだ。
アビーは、最悪、仲間全員を見捨てて、この堅牢に固めた一室で俺を待つつもりでいた。
とても正気とは思えない。
半ばリーダーとしての責任を放棄していると言っても過言ではない行動だ。
俺は指を鳴らして、エヴァとスイの二人を祝福した。
「……二人とも、酷い顔色だ。メシでも食って来い……」
エヴァとスイは、祝福による回復効果で安堵したかのような溜め息を吐き、小さく頷いた。
「……もう、あんただけが頼りさ。行くよ、スイ。ディの邪魔はするんじゃない……」
「……」
スイが別れを惜しむように離れ、エヴァと連れ立って去った。
部屋の前には俺一人だけになり……
「……アビー、俺だ。ディだ。開けてくれ……」
分厚い扉をノックすると、部屋の奥から微かな物音がして、こちらにやって来る人の気配があった。そして――
◇◇
キィ、と軋んだ音と共に僅かに扉が開いた。
「……」
僅かに開いた扉の向こうに、目の下にびっしりと紫の隈を張り付けたアビーが立っていて、俺の顔を見るなり、ぐっと手首を掴んで部屋の中に引っ張り込んだ。
部屋の中に突き飛ばすようにして俺を引き込み、アビーは後ろ手に扉に鍵を掛けた。
「……」
アビーは何も喋らない。
ぎょろぎょろと忙しなく狐目をさ迷わせ、俺を見付けた所で焦点が定まる。言った。
「……少し、変わったねえ……」
「……」
俺は黙って頷いた。
「……銀の髪に……夜の目……ふぅん……」
アビーは俺を壁に押し付け、じっと瞳の中を覗き込んで来る。
言った。
「あんたは、あたしのもんだ。そうだろう?」
「……あぁ」
今のアビーを刺激したくない。俺は用心深く言って、頷いた。
「……なら、いいんだ……」
アビーは瞬き一つせず、じっと俺を見つめている。
「まさかとは思うけど、手ぶらで帰って来たなんて言わないよねえ?」
「……勿論だ。食料に薬、金も持って来た……」
「まあ当然だね……ヤクザ共は?」
「殺した」
俺の言葉に、アビーは口元を歪めて不吉に嗤った。
「そうそう。それでいいんだ。流石、No.2だ。あんたは――」
そこまで言って、アビーは強く俺の腰を引き寄せ――唇を合わせた。
「…………」
長い口付けが続く。
舌で確かめるように俺の口腔内を蹂躙している間も、アビーは瞬き一つしなかった。
「……」
離れると、銀の雫が糸を引く。
アビーは微笑み、唇をぺろりと舐め上げた。
「おかえり。ディートハルト・ベッカー」
「あぁ、ただいま。アビー」
そして――
アビーは、神官服の襟章を引き千切った。
「こいつは、いらないねえ」
神官が襟章を取る行為は、野に下る事を意味している。
この瞬間、寺院の所属である第三階梯の神官『ディートハルト・ベッカー』は居なくなった。
神父ごっこは終わった。
もう、聖エルナ教会には戻れない。
「……」
アビーは半ば狂気の滲む瞳で俺を見つめ、また長い口付けを交わす。
囁くように言った。
「愛してるよ」
「あぁ……」
俺は短く息を吐く。
女王蜂の執着は、俺の思惑を遥かに超えている。もう戻れない。
だが、いつの日か……
俺は、執着心に満ちた女王蜂のこの歪んだ愛を捨てて、母の導くまま、行くのだろう。
俺が死ぬ時は、この女王蜂の一刺しに違いない。
そんな風に、考えた。