111 地獄の始まり
ざっくりと見回した感じだが、犠牲者は八人という所だ。
「ふむ……これは……犬人? ……少し違う。なんだ……?」
衰弱甚だしく、虚ろな目付きで在らぬ方を見つめるだけのフランキーは、一見して犬人に見えるが少し違うように見える。
まず耳の形が違う。少し丸みを帯びている。目元がつり上がり、皮肉っぽく歪んだ口元。小狡そうな顔立ち。斑模様の髪。犬人とは違う……と思う。
考え込む俺に、ゾイが言った。
「……ハイエナだよ。ハイエナの獣人。凄くずる賢いんだ。アビーも、こいつには苦労させられた……」
それは、アシタから聞いて知っている。今にも死にそうな、この『フランキー』に、アビーは大勢の仲間を殺されている。
「…………」
息絶え絶えのフランキーの下腹部には、三本ものナイフが刺さったままになっている。
頭は悪くない。引き抜けば出血で死んでいただろう。なるべく動かず、消耗を避ける事で万が一の救助の可能性に賭けた。ここで俺に会うとは、持ち合わせた『運』も悪くない。
「……これも因果の内か……」
傷の程度としては重傷だが、首なし騎士にやられたアネット程ではない。
俺は鼻を鳴らした。
「グレタ、カレン。治してやれ」
「え……」
姉妹は揃って俺の言葉に目を剥き、怯えたように引き下がった。
「む、無理です。ナイフを抜いた瞬間、死んでしまいます……」
「先に術を行使しろ。治しながら抜け。それで問題ない」
「え……でも……」
「黙れ。早くしろ。こうしている間もじわじわ出血している。お前らがぐずぐずしていると、こいつは死ぬぞ」
そこで妹のカレンがその場に座り込み、見たくないといった感じで固く目を閉じ、耳を塞いで首を振った。
「……無理ですっ! そんなの、やった事ないっ!!」
「今、やればいいだろう。こいつなら、失敗して殺してしまっても問題ない。お前らの教材にぴったりだ」
まぁ、こいつらが失敗した時はフォローするつもりだが、それを言ってやるほど俺は甘くない。時として、『癒し手』には非情とも言える冷徹さが要求される。
幸いとは言えないが、フランキーの腹にはナイフが三本刺さっている。
「ルシール、見本を見せてやれ」
「……はい、すみません。私の教育不足です……」
ルシールはカレンの惰弱に溜め息を漏らしつつ、呆れたように頷いた。
そして――
無造作にフランキーの腹に刺さったナイフを引き抜くより僅かに早く治癒の術を発動させる。その動作は素早く無駄がない。フランキーの負担はごく小さかった筈だ。
「……」
流石に高位の修道女。以前行った『研修』の成果もあるだろうが、表情一つ変わらない。むしろ、つまらなそうにしている。
「……よし、次はグレタ。お前がやれ。カレン、お前は後でお仕置きだ……」
「…………」
『お仕置き』と聞いて、グレタは、額からだらだらと汗を流したが、それでも動かない。
俺は小さく息を吐く。
「どうした。失敗してもいいんだぞ?」
「……」
グレタは動かない。瞬きすらせず、死にかけたフランキーを見つめて動かない。その膝ががくがくと震えていて、今にも踞ってしまいそうだ。
「グレタ。お前もお仕置きだな」
『癒し』は甘くない。時として対象を傷付ける必要もある。それを受容しつつ、適切に処置せねばならない。
「……お前ら、いったい何を覚悟して来たんだ……?」
今は、この二人の惰弱に付き合っている暇はない。俺はルシールがやったのと同じ要領で術の発動の後、フランキーの腹からナイフを二本引き抜いた。
ルシールが静かに言った。
「お見事」
フランキーは僅かに身動ぎしたものの、ナイフが抜けた瞬間には既に傷口はなく、出血もない。
「さて……」
俺は、フランキーの頬を思い切りひっ叩いた。
「起きろ、フランキー。人殺しの死に損ないが」
「う……あ……」
呼び掛けに応じ、虚ろな視線をさ迷わせて反応するフランキーの斑模様の髪の毛を引っ張って引き寄せ、俺は無遠慮に瞼の裏を開いて診察する。
「ふむ……重度の貧血に栄養失調。感染症には……罹ってないようだが……」
ハイエナの獣人。致命傷は治ったが出血と栄養失調による衰弱は続いている。ここに捨て置けば、鼠の餌になるだろう。
俺は『慈悲』と『慈愛』を以て尋ねた。
「このまま鼠の餌になって死ぬか、それとも俺に付いて来るか、今選べ」
フランキーは呻くように言った。
「……にたくなぃ……死に、だくなぃ……」
「結構」
俺は興味をなくし、フランキーを投げ捨てるようにして突き転がした。
そのフランキーを聖闘士に担がせ、下水道の出口に急ぐ。
グレタとカレンは駄目だ。
こいつらは優しすぎる。それが癒しの現場に於いて、如何に残酷な事か理解しない限り、真の『癒し手』にはなれない。
そしてゾイだが、目を細め、じっとフランキーを見つめている。
俺がやれと言えば、この瞬間にも躊躇わずフランキーを殺すだろう。その程度には、フランキーは恨まれている。
曲がりくねった道をゾイの先導で進み、やがて見覚えのある場所に出た。
『俺』が始まった場所。
少し開けた吹き溜まり。そこで、ガキ共に抱き着かれた格好で目を覚ました。
『俺』は、またここから始まるのだ。
◇◇
天然痘。
人類の有史以前よりあった病だ。身体に浮かぶ膿疱が特徴。ウイルスは身体中を巡り、やがてウイルス血症によって最悪の場合は死亡する。二週間程で症状は落ち着くが、膿疱は瘡蓋となって剥がれ落ち、痘痕となって痕を残す。この痕は天然痘患者のスティグマ(差別や偏見の対象)となる。また失明も天然痘の特徴だ。かの伊達政宗も天然痘で片目を失ったとされる。 人類史上、最も人類を殺した感染症がこの天然痘だ。
起源は不明。
人類にのみ感染する。そして人の動きによって広まって行く。その昔、日本で天然痘が流行した際には人口の約三分の一を失ったとされる。
それでも日本は幸運だった。
これが滅亡の引き金になった文明もあった程だ。
さて、この『天然痘』だが……一度感染すると二度と感染しないという特徴を持つ。そこから生まれたのが『人痘種痘』だ。方法は、天然痘患者の瘡蓋を吸引するというものだ。
……それでも重症化する可能性があり、死亡率は三%とされる。
この人痘種痘だが、効果はあるものの、自ら天然痘を拡散しているとも言える。やるべきではない。俺としては、安全度の高い『牛痘接種法』を使用したいが……
そして――
パルマに入った俺たちが見たものは、道端に重なるようにして倒れ込む人、人、人。全身に膿疱が浮かび上がり悶え苦しんでいる者も居れば、既に死んでいて腐臭を発している者もいる。
俺は笑った。
「……凄まじいな!」
ここまで来ると笑うしかない。
ルシール、ゾイ、グレタ、カレンも、想像を絶するこの惨状に言葉もないようだった。
「急ぐぞ。人や物には極力触れるな」
まずは、魔法の力でこれに当たる。
地下の地獄とは比較にならない地上の地獄が始まった。
外套のフードを目深に被り、ゾイを先頭に周囲を聖闘士たちに守らせ、パルマの街を『貧乏通り』に向けてひたすら駆け抜けて行く。
何処を見ても、倒れ込む人、人、人。今、正に地獄が顕現している。それは『貧乏通り』に入っても変わらない。
通りを賑わせていた露店は殆どが姿を消し、あれだけ多かった商人も見掛けない。
これは異常な事ではない。
歴史上、最短では十日で全滅した街もある。そこから逃げ出した人々が更に天然痘を拡散させた。
だが――
この地獄で平然と動き回っている者がいる。
スラムヤクザ共だ。
この期に乗じて、アビーの居住区である長屋に襲撃を掛けている。ガタイのいい数人の男たちが手に手に重量感のある武器を持ち、長屋の壁を叩き壊して屋内に侵入しようとしている。
そんな場合ではない。
俺は、このスラムヤクザ共の人間性の汚さにうんざりした。
「阿呆が……!」
◇◇
光と闇の間に風が吹く。
お前は疲れ、埃に塗れて歩く。空に不安が立ち込める。――たそがれと――死とが――
母の手から、どんな天使も、お前を救う事はできない。
お前の背後で命が躊躇いがちに留まり――そこから先を、一緒に行こうとはしない。
◇◇
「地獄で遊ぶんじゃない」
この危機的状況下に於いて、子供の住み処に大人が武装して詰め掛ける等、正気の沙汰ではない。
そんなヤツの命には、惜しむべき物は何もない。
死の呪いだ。祝詞は破棄してあるが、ゴミを消すには十分な威力がある。
男たちは、雷に打たれたようにその場で昏倒して動かなくなった。おそらく、何をされたか知覚する間もなく死んだだろう。皆が皆、驚いたような顔をして死んでいて傑作だった。
俺は聖印を切って頭を垂れる。
「俺がいいと言うまで、そこで休んでいてくれ」
全員、問答無用で殺した。
その事を歯牙にも掛けない俺の様子に、ルシールたちが息を飲む。
こいつらが、どう思うかなんて関係ない。
俺は死と罪を糧にこの道を進む。
こんな事は手始めにもならない。
俺は、もっともっと殺す。大勢を生かすが、その何倍も殺す。
その一例として、これよりパルマからザールランドを切り離す。
ザールランドがパルマを捨てるのではない。パルマがザールランドを捨てるのだ。
静寂の中、弾け鳴る死の音が聞こえる。
初めて人を殺したが、なんて事はなかった。何も感じない。殺したのがクズだからだろうか。
どうでもいい。
俺は腰の後ろで手を組み、固く閉ざされた長屋の扉の前で怒鳴った。
「アビー、聞こえるか! 俺だ! 今、帰ったぞ!!」
これより、母の代行者として、生き残るべき命を選ぶ。