110 拾い物
アクアディの街の用水路に入り、『溜め息橋』の下から河を渡る。
向こう岸までは二、三十mという所だが……その河に掛かった『橋』が酷い。
橋といっても、スラムの子供たちお手製のものだ。何枚もの板を重ねて作ったお粗末な代物で、半ば水没している。
「……本当に渡れるのか?」
決して口に出すような事はしないが、ゾイの場合、小柄だが全身筋肉質で見た目よりかなり重い。グレタやカレンはほぼ成人しているような体格であるし、それはルシールに至っても同様だ。
ゾイからは、不安極まりない返事があった。
「……多分……」
「誰か落ちそうだな……」
このお手製の『橋』自体がお粗末なせいもあるが、非常に不安定だ。一人ずつ渡るしかない。
仮に落ちたとしても、河自体はそんなに深くないし、流れもそんなに早くない。物資は駄目になるかもしれないが、流されるような事はないだろう。
俺以外は……
そう。人間の子供である俺が一番危ない。小柄で軽く、しかも非力だ。もし、河に落ちれば確実に流される。
「……」
その場合、橋の上にいるザールランド騎士団に救助を求める事になる。言うまでもないが、物凄く見苦しい。
俺は少し考えて……
「……この橋は駄目だな……」
『橋』の使用を諦めた。代わりに六体の聖闘士を召喚して、そいつらに肩車してもらう格好で河を渡る事を提案した。
この方法なら足は濡れてしまうものの、背負った物資は無事であるし、何より確実だ。
今にも壊れそうな『橋』を渡る事にはルシールらも抵抗があったらしく、俺が聖闘士の利用による方法を提案した時は、あからさまにホッとした顔をしていた。
問題なく、全員が河を渡った所で『溜め息橋』の真下にあるデカい排水口へ。この排水口から『下水道』に入り、そこを上がった先が目的地であるパルマだ。
六体の聖闘士は消さず、ゾイの指揮の下、『下水道』を先行させる。
複雑な気分だが、ダンジョンでの経験が役に立った。『下水道』は暗く、不潔なだけでなく危険だ。しかも迷路のように入り組んでいる。
「ゾイ、どうだ。やれるか?」
聖闘士の指揮権を委譲されたゾイは、目を瞬かせて、暫く召喚兵たちを使って色々と試していた。
「いいね。これ、すごい」
「ああ、何体でも喚べる。好きなように使ってくれ。なんなら潰しても構わない」
「分かったあ」
そこで、ゾイの雰囲気が弛緩したように感じた。
使い潰せる召喚兵は、攻撃だけでなく壁にもなる。先行させれば未知の脅威も減るだろう。それがゾイの緊張を緩和させたのだ。
「んじゃ、行こっか」
眉間に寄った皺が消え、にっこり笑う。スラム育ちのゾイをして、『下水道』は危険な場所なのだ。
聖闘士たちを先頭に、ゾイの先導で下水道を進む。
耳を打つのは汚水の流れ。進むに連れて辺りが闇に染まり、『人間』の俺には視界が覚束なくなった。
俺は幾つかの補助術を発動させて視界を確保すると共に、五感を強化して不測の事態に備える。
ゾイは感心したように何度も言った。
「すごい。これが……ディなんだ……」
念の為、物理防御の術も重ねる。
更に奥に進むに従って、下水道は幅広くなり、中央に流れる汚水を挟んで、左右の細い道を行く。
俺は用心深く言った。
「……ゾイ。魔物はいるのか……?」
「いっぱい、いるよお」
そう言って、ゾイは足元に這っていたデカいゴキブリのような虫を踏み潰した。
『昆虫』系の魔物……
『震える死者』とは違う。出現する魔物には、恐らくアンデッドもいるだろうが、ここでは随分勝手が違う。補助を除いて、俺の術はあまり頼りにならない。使い潰しが利く召喚兵とゾイの戦闘力が主戦力になる。
ゾイの話では、歩いて一時間程で出口に付くそうだ。大した距離ではないが、『砂鰐』が出現した場合は回り道した方がいいとの事だ。
「……砂鰐……」
この『下水道』で最も厄介な魔物がその砂鰐のようだ。汚水の中に引き摺り込まれたら助からないとも。
「……しんどいな」
汚水の流れる排水路を挟んで二つの細い道。戦闘可能な空間の限られたこの場所では、アレックスやアネットのようなA級冒険者でも苦戦するだろう。しかし……
「堪らん匂いだ……」
既にパルマ地区に入った。防疫も兼ね、マスク代わりに口元に布を巻き付けて進む。
途中、中型犬程もデカい溝鼠の集団と戦闘になったが、それはゾイと聖闘士が問題なく蹴散らした。
魔素の存在は感じない。
『魔物』ではなく、この『下水道』という環境で異常発育しただけのただの溝鼠だ。この溝鼠たちは集団で動き、相手が人間でも平気で襲い掛かって来る。
子供が生きていくには、あまりにも過酷な環境だ。
ゾイは三年。アビーやアシタたちは、この『下水道』で六年もの間、生活したのだと言う。その過酷な生活を想像すると、俺は酷く憂鬱な気分になった。
不意に、ゾイが言った。
「……ここからは、気を付けて……」
「……?」
それは、おかしな忠告だった。
何度か戦闘をしたが、それは特に危なげなくクリアした。体感では既に一時間近く歩き、出口が近い筈だ。実際、微かに外気の流れを感じる。
ゾイは険しい表情で言った。
「ここ……フランキーの縄張りなんだ……」
その名前は、確か、アビーやアシタが何度か口にした名前だ。
汚水の流れる排水路を挟み、そのフランキーとアビーとは縄張りを近しくしていた。
「……誰も居ないようだが……」
「落ち目だったからね。でも、ゾイたちが出てって、ここら辺は全部フランキーの縄張りになってる筈だよ……」
俺は内心で小さく舌打ちした。
出口を間近にして、最後の敵はスラムのガキという訳だ。
当たり前だが、子供は殺したくない。交渉で済めばいいが、アビーと同じ程度の悪たれだとしたら厄介だ。
「――ひっ!」
不意に、カレンが小さい悲鳴を上げた。
「……」
しかし、ゾイに驚いた様子はなく、鬱陶しそうに目を細めてカレンを睨み付けただけだ。
「ゾイ、ど、どうしたのです?」
教会でぬくぬくと過ごしていた修道女たちにはキツい環境だ。それは年長であるルシールも同じ。カレンのように取り乱す事はないが、俺にべったりと張り付いて離れない。
ゾイが言った。
「……血の匂いがする……」
俺には分からない。汚水の流れるこの酷い環境で、血の匂いを嗅ぎ分けられるのは、スラム育ちのゾイならではの特性だろう。
ゾイは呆れたようにカレンを見て、メイスを手にずんずんと先に進み、立ち止まった。
そこで、俺も漸くカレンが悲鳴を上げた原因に気付いた。
「おお、神 よ……」
ルシールが震える声で言って、何度も聖印を切った。
立ち止まったゾイの足元には、一人の子供が俯せになって倒れていた。
ゾイは、その子供を無造作にメイスで突き転がして、仰向けの態勢にした。
「……死んでる。大丈夫だよ……」
死んでるから大丈夫だと言うゾイの感性はおかしい。だが、トラブルが避けられたのは間違いない。
俺は先頭を行くゾイの元に歩み寄り、その子供の死体を調べる。
「……」
歳の頃は、十歳から十二歳という所か。男の子。身体に複数箇所の外傷がある。死因は失血死。ナイフのような刃物で何度も腹を刺されている。それが致命傷だろう。
天然痘ではない。
俺は疲れ……首を振った。
あたら幼い命を喧嘩で散らすとは、なんとも不憫な話だ。
「……仲間割れだね……」
ゾイがそう言って、辺りを見回すのに釣られて俺も顔を上げると、狭い通路のそこかしこに転がっている子供たちの姿が見えた。
「ルシール」
俺の言葉に頷いたルシール、グレタ、カレンの三人が子供たちに近付き、生存者を探している間、ゾイは興味なさそうに辺りを見回して警戒していた。
「……」
ゾイの感性は問題がある。
あのロビンでも、ここまで無関心に振る舞う事はないだろう。その程度には悲惨な光景な筈だが、ゾイは眉一つ動かさず、警戒の姿勢を解かない。
技量はまだロビンに及ぶべくもないだろうが、ゾイは既に優秀な戦士としての資質を備えている。
これをどう思うべきか。
おそらく、この場で誰か死んでも、それが俺以外の者であるなら、ゾイは顔色一つ変えず対処するだろう。
少し進んだ暗がりから、グレタの震える声が聞こえた。
「……一人、生きてます……」
その声に反応したゾイがグレタに駆け寄って、生きている一人の子供の身体を蹴飛ばして仰向けの態勢にする。
険しい表情で言った。
「フランキーだ……」
こうして俺は、この『下水道』で、フランチェスカという一人の少女と出会う事になった。