109 ゾイさん
「こっちこっち……」
微笑みながら言うゾイに従って、俺たちはアクアディの街の一角にあるという大きな用水路を目指して歩いた。
「ああ、ゾイ。どうしようかと思っていたところです。本当に助かりました」
等と言うルシールの後頭部を、俺は思い切り力を込めて睨み付けていた。
俺は低い声で言った。
「ルシール……やってくれたな……!」
ルシールは聞こえないフリをして、頑なに俺に向き直ろうとしない。
告解する前の事だ。責めてはならないと分かっているが、なんの為にロビンを遠ざけたのか。なんの為に、ゾイに別れも告げずやって来たと思っているのか。
この件に巻き込みたくなかったからだ。
危険を省みず、涙を流してまで俺との同行を望んだロビンの事を思うと胸が痛んだ。
「くそッ!」
どうにもいたたまれず、俺はルシールの尻を蹴飛ばした。
「ぴっ……!」
その衝撃にルシールは小さく悲鳴を上げたが、それでも俺に向き直ろうとしない。少しばかりの羞恥心はあるようだ。
何故だ。俺の回りには、俺の気持ちを理解しようとする者が一人もいない。
更に三度ルシールの尻を蹴飛ばした所で、疲れた俺は顔を拭って気持ちを切り替える事にした。
「……ルシール……金は持っているか……?」
「は、はい……少しですが……」
俺は鼻を鳴らした。
「小銭に用はない」
ルシールには、ヒュドラ亜種討伐の報奨金と聖エルナ教会の運営資金の管理を任せてある。下水道に入るのはいい。それでパルマに向かうのもいいだろう。だが……
「金貨で二百枚用立てろ。それと食料品や日用雑貨のような必要物資を買い付けて来い。お前、一人でだ」
現在、パルマは封鎖されている。
アビーらを苦しめるものは天然痘だけではない。食料品や医薬品の類いも不足しているだろう。
先ずはパルマ入りを優先した俺だったが、この不細工な顛末に考えを改めた。手ぶらでは、俺の救援を待ち望むアビーやエヴァに対して申し訳が立たない。
ルシールは、恐る恐るといった感じで振り返った。
「……ひ、一人で、ですか……?」
不機嫌な俺は答えず、ルシールの尻を蹴飛ばした。
「痛っ、痛い! ディート、痛い!」
「とっとと行け」
アビーは侠客だ。あいつには面子がある。とりあえず金貨二百枚が出戻りの代償だ。それぐらいの事はせんと、あいつはともかく、回りが納得しない。
今のパルマでは金など無用の長物だろうが、それでもご機嫌伺いの道具にぐらいはなる。それで駄目なら、指の一本二本は覚悟せんといかんだろう。
どっと疲れた俺は、大きく溜め息を吐き出した。
「……」
このアクアディの街はまだ封鎖こそされていないが、天然痘の脅威に晒されるのは時間の問題でしかない。おそらくだが、もう物資の高騰が始まっているだろう。
ルシールが凄い勢いで走り去り、俺は、ゾイ、グレタ、カレンの三人と向き直った。
「……ディ、怒ってる……?」
そう言ったゾイは、背中に大きなリュックを背負っている。
「当たり前だ」
賢いゾイの事だ。リュックには必要な物資が山ほど入っているのだろう。ふと見れば、グレタとカレンの二人も大きなリュックを背負っている。それは心強くもあり頼もしくもあるが、俺はこのドワーフの少女を危険な目に遭わせたくない。
パルマまででいい。ゾイには帰れと言いたいが、素直に従うとは思えない。
「はぁい」
ゾイは、いつものように甘ったれた声で言って、難しく考え込む俺の口の中に伽羅の破片を押し込んで来る。
「ふむう……」
いつもながら、このキック力が堪らん。鼻腔を突き抜ける爽やかな香りが幾らかの苦悩を拐って消えて行く。
「ゾイ……言うまでもないが、命懸けになるぞ。分かっているか……?」
微笑むゾイは俺を見て、悩ましい溜め息を吐き出した。
「…………いいよ」
くそッ。なんなんだ。何故、いつもセクシャルな間がある。
駄目だ。俺にはゾイを説得する自信がない。ルシールに関しては、最初からゾイら三人の随行を提言していたし、あいつの説得も望めない。
とりあえず、俺はゾイの説得を後回しにして、怯えたようにゾイの顔色を伺うグレタとカレンに向き直った。
「……何故だ。何故、お前たちのような未熟者が来る。帰れ……!」
「え……」
グレタとカレンの姉妹二人は、泣きそうな顔で目尻を下げるが、俺は厳しく睨み付ける事で二人の随行に拒絶の意思を突き付ける。
ふわふわの髪。羊人は穏やかな性格の者が多い。二人共、低い鼻に目尻の垂れた穏やかな顔付きをしている。だが、この羊人というやつはドワーフに負けず劣らず頑固なのだ。
まず答えたのは姉のグレタだ。
「か、覚悟はしてますから……私たちの事は、お構いなく……」
続けて、妹のカレンがぼそぼそと小さい声で言った。
「……ゾイさんが……」
「ゾイさん?」
姉のグレタは十六歳。妹のカレンは十四歳。そしてゾイは十二歳。何故、さん付けになる。
「ゾイ……?」
ふと強い殺気のようなものを感じ、視線を横に滑らせると、ゾイが目を細めてカレンを見つめていたが、俺と目が合うと、張り付けたような笑みを浮かべた。
「……」
俺はまた溜め息を吐き出した。
駄目だ。聞きたくない。アシタの言う通り、ゾイには裏の顔がある。 スラム育ちの悪の側面だ。
心の中はぐしゃぐしゃだった。
俺の為なら、幾らでも容赦なく振る舞うロビンの顔とゾイの顔が脳裏で重なって消える。ロビンが居ない今、このゾイの裏の顔は、俺にとって必要な物の一つだ。
俺……『ディートハルト・ベッカー』は高位神官だ。五つの戒めがある。ゾイは、俺には出来ない事をするだろう。それはおそらく、とても大切な事だ。そして汚れ仕事になる。駄目だ。ゾイにそんな事を押し付ける訳にはいかない。
「……ゾイ」
覚悟を新たにして、厳しく睨み付ける俺に、ゾイが言った。
「教会騎士は駄目だよ。だって、覚悟がないもん。教会騎士は弱いよ。弱くなった。ゾイの方が強いよ」
「…………」
俺は疲れ、右手で顔を拭った。
やはり駄目だ。涙を流したロビンとは違う。俺は、真っ直ぐ見つめ返すこのゾイの覚悟を折る言葉を持たない。
俺は口の中の伽羅を吐き捨てた。
「そこまで言うなら、好きにしろ……」
「うん。するよ」
平然と答えたゾイの様子に、俺は、ぶん殴られたような気分になった。
惰弱な事に、アシタが居ればと思った。あいつは馬鹿だが良識がある。度を超えない所がいい。
苛立った俺は、石畳の道を強く踏み躙った。
「……三人共、絶対に俺の指示に従え。それが最低条件だ……!」
「うん、分かったあ」
いつものように甘ったれた声で言って頷くゾイの様子に、俺は疲れ果て、大きな溜め息を吐き出した。
◇◇
信頼がストップ安のルシールが大荷物を抱えて帰って来た。
「先生……」
ゾイはてきぱきと指示を出し、ルシールの持っていた大荷物をグレタとカレンの二人に背負わせる。
その間、俺はルシールの後頭部を睨み付けていた。
ルシールは高位の修道女だ。高位神官である俺から感じる圧力は相当なものだろう。勿論、わざとやっている。
「ああ、ゾイ。ありがとう。本当に助かりました……!」
やはり、ルシールは俺の方を見ようとはしない。
俺は腰の後ろで手を組み、口の中で新しい伽羅を転がしながら、ずっとルシールに圧力を加え続けた。
アクアディの街の一角にある用水路に入り、パルマを目指す。
途中、河を渡らなければならないのは変わらない。ゾイの先導で用水路を辿り、『溜め息橋』の下に掛かった木の板の上を渡って河を渡る。
灯台もと暗し。
橋の上では、ザールランド騎士団一個中隊がパルマへの道を封鎖しているが、その真下を抜けていく俺たちには気付かない。そんな彼らに対しても、申し訳なく思う。
「情けない……」
まだパルマに入ってもいない。
この先が思いやられ、俺は静かに溜め息を吐き出した。