108 あまりにも賢い少女
俺は弱くなった。
この世界に来た頃の俺なら、誰が死んだとしても一向に気に留めなかっただろう。
ゾイ、アシタ、ロビン……俺が死なせたくないと思う者はこれだけではない。アビーやスイ、エヴァ。共にパルマに向かうルシールもそうだ。
神官としての力が上がり、この手が大きくなる程に、俺は守りたいと思うものが増えて来る。
人間とは傲慢だ。この手に得たものだけで満足する事を知らない。
「……ディート。これを……」
「ん……」
ルシールが差し出して来たのは、身体を隠すフード付きの大きな外套だった。
天然痘の震源地に乗り込むのだ。俺が強い癒しの力を持つ神官だと知れれば大騒ぎになるだろう。
先ずは、俺を待つアビーの元に向かう。根本の現状を確認して、話はそれからだ。
ルシールの勧めに従って、俺は神官服を纏う身体と銀の髪を隠した。無駄な騒ぎを避ける為だ。
聖エルナ教会を出た俺とルシールの二人は、待ち合い馬車でパルマの近くまで向かった。
パルマはスラム街だ。
聖エルナ教会やオリュンポスのクランハウスがある『アクアディ』の街とは、河川にある石橋を挟み繋がっている。
スラム街に繋がるこの石橋は、通称『溜め息橋』と呼ばれる。アクアディの街からスラム落ちした者がよく身を投げる事からそう名付けられた。
その『溜め息橋』に、太陽の紋章が刻まれた外套を纏うザールランド騎士団の連中が一個中隊規模の人数(およそ200人)で『溜め息橋』を封鎖している。
馬車の幌を捲り、その様子を見たルシールが言った。
「ディート、どうします? パルマに繋がる道はこの『溜め息橋』だけではないですが……」
「時間の無駄だ。正面から行く」
パルマに繋がる橋は、この『溜め息橋』以外にも三つあるが、そのどれもが封鎖されているのは想像するに難くない。何処に行っても同じ。回り道は無駄だ。そもそも俺は犯罪を犯すのではない。堂々としていて問題ない。
俺たちは馬車を降り、そこからは徒歩で『溜め息橋』に向かった。
勿論、ザールランド騎士団の連中が前に立ち塞がって俺たちを制止する。
「止まれ。ここより先は、疫病の発生で封鎖されている。通行する事はならん」
さて……ここからは『ビジネススタイル』で、お行儀よく堂々と正面突破する。
「すみません。私は聖エルナ教会の司祭を務める者です。隊長様とお話がしたいのですが……」
外套を脱ぎ、第三階梯の神官服を見せると同時に聖女と同じ銀の髪を晒すと、ザールランド騎士団の連中は驚いたように鼻白んだ。
「寺院の命で来たのか……?」
そう言って前に進み出たのは、赤い羽飾りを付けた兜を被る若い騎士だ。恐らく隊長格の者だろう。
俺はアスクラピアを信仰する神官らしく右手で聖印を切り、静かに頭を下げた。
「いえ……パルマが危機的状況にあると聞き、自ら馳せ参じました。一方通行で構いません。通して頂けませんか?」
子供とはいえ、寺院に所属する第三階梯の神官の正式な『礼』だ。
若い騎士は僅かに怯み、制止するように手を上げた。
「ま、待て。待ってくれ。今回、我が帝国は、寺院に救済を要請していない……」
それは分かっている。理由の方は知らないが。
ふと不思議に思い、俺は首を傾げた。
「すみません。何故、寺院に救済を要請されないのですか?」
若い騎士は眉間に皺を寄せ、険しい表情で言った。
「……喜捨として、三千億シープを要求したのは寺院ではないか。何を言う……」
「三千億シープですって……?」
というと、金貨で幾らだ? えっと……十万シープが金貨一枚だから……金貨で三百万枚!?
「……」
絶句して言葉もない。
まさか、寺院がこれ程の守銭奴とは思わなかった。母が見捨てる訳が痛いほど理解出来た。
『喜捨』とは、喜んで捨てると書く。これはあくまでも『寄付金』であり、心付けだ。経済の再分配や弱者救済の意味合いもある。当然ながら、貧しい者からの喜捨は免除される。
俺は高位神官だ。力には責任と義務が伴うと考える。スラム街であるパルマの救済は当然の義務だと考えていた。
……寺院は、本当に母を信仰しているのだろうか。とてもそうは思えない。俺は強い目眩すら覚え、その場に座り込んでしまいそうになった。
その俺を、慌ててルシールが抱き留める。
「す、すみません。私は何も知りませんでした。貴方たちも辛いお立場だ。同胞の非道を心よりお詫び致します……」
「あ、ああ、うん……」
三千億シープ。分かりやすく言うなら、日本円で約三千億円。高価だが、それで天然痘が解決されるとしたら安いのか? 俺には分からない。それは、このザールランドの経済事情に拠るだろう。
再び絶句する俺に、ルシールがそっと耳打ちした。
「……払えない事もありませんが、この国が傾くのは間違いない額面です……」
まあ中世程度の文化圏の国だ。俺がいた日本という国とは比べ物にならない。三千億シープという額面は、一国を揺るがすのに充分な価値があるのだとしても不思議はない。
俺は改めて自己紹介した。
「私はディートハルト・ベッカーと申します。幼いですが、第三階梯の認定を受けた神官であり、聖エルナ教会の司祭の地位にあります。母の定めた慈悲と慈愛と奉仕の戒律を胸に参りました。喜捨はいりません。どうか、私を通して頂けませんか?」
俺は本気で言ったつもりだが、若い騎士の険しい表情は変わらない。むしろ、より険しい表情になった。
「聖エルナ教会だと?」
「はい。そうですが……」
「……そんな事を言って、また高い喜捨を要求するつもりだろう……」
「また?」
「聖エルナ教会から、井戸の祝福として金貨三百枚の喜捨を要求されたのは、つい先日の事だ」
「なんですって……?」
俺は知らない。また絶句して、ルシールの顔を見上げた。
「そ、そんな事をしてしまったかも知れません……」
ルシールの目が泳いでいる。
……光り物が好きだ。
ルシール・フェアバンクスという女は『金』が好きなのだ。不信感剥き出しで俺を睨み付ける若い騎士の顔を見て、俺は『溜め息橋』を渡る事を諦めた。
◇◇
再び馬車に乗り込んだ俺は、強い怒りに震えていた。
「ルシール……あぁ、ルシールよ……!」
ザールランド騎士団が寺院や俺を信用しないのも無理はない。聖エルナ教会の司祭という立場でパルマに向かう事は不可能だ。
「この愚か者が! なんという事をしてくれたんだ……!」
「も、申し訳ありません……」
井戸の祝福というと、ルシールに告解させる前の事だ。だからこれ以上責める事はしないが、目的のパルマを前にして、この体たらく。
馬車の中で平伏するルシールを前に、俺は頭を抱える羽目になった。
流石の俺もザールランド騎士団と事を構えるつもりはない。無理に『溜め息橋』を通るような事は出来ない。どうにかなると思ったが、見込みが甘かった。
他の場所でも同じだろう。形の上だけでも、俺が『寺院』の神官である以上、パルマに向かう事は難しい。
だが、行かねばならない。
必死で知恵を絞っていると、馬車が突然停車して、三人の修道女が乗り込んで来た。
何事かと顔を上げると――
「ゾイ……!?」
そこにいたのは、ゾイ、グレタ、カレンの三人組だった。
「何故、来た……」
ゾイは、こてんと首を傾げた。
「……ディが困ってると思ったから……」
そう。ゾイは賢い。一応とはいえ、寺院の神官である俺がパルマ行きに難儀する事はお見通しだったという訳だ。
「あるよ。パルマに行く道」
俺は頭を抱えた。ゾイは賢すぎる。この場の誰よりも賢い。言った。
「下水道を通るんだよ」
あの迷路のような『下水道』を通る? その手があったと膝を打つ俺だったが……
方向音痴の俺には不可能な事だ。道案内もなく『下水道』に入るのは自殺行為だ。
つまり、ゾイの同行を断る事は出来ない。
見ると、ゾイはルシールと同じ革の胸当てとレギンス。それにメイスを持って武装している。グレタとカレンも同様だ。
ただ、グレタとカレンは怯えている。何故怯えているのかは聞きたくない。ゾイの裏の顔を見てしまうような気がする。
ここで俺は骨身に染みた。
――ドワーフの意思は鋼で出来ている。その頑固さは年老いた山羊にも勝る――
そうと決めればそうなのだ。頑固なドワーフにとって、それ以外の道はあり得ない。
ゾイには鋼の覚悟があり、高い知性がその覚悟を裏打ちしている。あの狂信者すら振り切った俺が、この幼いドワーフの少女を振り切れない。
「ゾイが連れて行ってあげるよ」
そう言って、ゾイは、にっこり笑った。