107 お前は誰だ
闇を切り裂き、緩やかに昇る太陽を見つめていた。
「……」
俺が短い祈りを捧げる間、その背後でルシールが同じように右手を胸に当て、静かに祈りを捧げている。
振り返ると、ルシールはゴツい革の胸当てに革のレギンス。左手には鉄球の付いた朝星棒と呼ばれる特殊なメイスを持っていた。
「……えらく仰々しいな……」
そもそも修道女の在り方は一つではない。場合によっては従軍する事もある。そして、高位の修道女であるルシールは戦闘訓練も積んでいる。と言っても護身程度のものだが、術なしの状態では俺より強い事は間違いない。この場合、『武装』は覚悟の現れだった。
ルシールは微笑んだ。
「行きましょう、ディート」
「そうだな……」
しっかり休みは取った。
神話種を吸収した俺の器は拡張され、『神官』としての力は上がっている。
――『天然痘』――
天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つ。疱瘡又は痘瘡とも言う。
非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱が生じる。致死率は20~50%と非常に高い。仮に治癒したとしても痘痕を残す。1980年、世界保健機関(WHO)により根絶が確認された。俺の世界では、人類史上初にして、唯一根絶に成功した感染症だ。
思い返すのは、アビーに殺されたアダ婆の事だ。あの婆さんには天然痘に罹患した形跡があった。
なんという皮肉。しみったれた女が戯れる指先で運命を回しているとしか思えない。いや……
これは被害妄想が過ぎる。
いくら、あの邪悪な母でも、天然痘という悪魔で運命を弄ぶとは思えない。そもそも、そんな事をするぐらいなら、ジナに逆印を刻むような事はしないだろう。
俺という存在は、ディートハルト・ベッカーという存在に代わり、この天然痘という悪魔に対処する為に喚ばれたのだろうか……
分からない。神の考えている事は、虫けらの俺には分からない。
分かっているのは、天然痘に対するには『魔法』だけでは無理だという事だ。これに勝利するには『医学』という力が必要だ。
◇◇
居住塔を降りると、朝だというのに、酷く礼拝堂の方が騒がしい。保護下にある一般人たちが騒いでいる事はすぐ分かったが……
「……外に出してやれと言った筈だが……」
ルシールは短く溜め息を吐き、呆れたように首を振った。
「天然痘の危険を説明した所、今度は出たがらないのです」
「では、何故、騒ぐ必要がある。ここに居れば食料はある。安全も確保されているだろう」
現在、この聖エルナ教会に避難した一般人は二十名という所だが、パルマでパンデミックが発生し、親戚縁者もこの聖エルナ教会に避難させたいと望む者がいる。それがこの騒ぎの原因であるというのがルシールの説明だ。
「ここからは出たくない。だが、連れて来いという訳か。愚か者の我儘に付き合っている場合ではない。見せしめとして何人か叩き出せとポリーに言ってやれ」
その容赦ない言葉に、ルシールは表情を曇らせるが『防疫』とは厳しいものだ。
『教会』には強い神聖結界が張られてあり、疫病に対しても耐性が期待できるが万全ではない。もし、教会内に天然痘ウイルスを持ち込んだ場合、待ち受けるのは地獄だ。そうなってから後悔するのでは遅い。
「ルシール。俺たちが行くのは、こういう地獄だ。気が変わったなら残れ」
「いえ……」
「そうか。嫌になったら、いつでも離脱しろ。こんな事は手始めに過ぎない。俺は、もっともっと残酷な事をする」
死と罪を糧にこの地獄を進む。
ゾイやアシタとは会わない。愚かにも随員を望む事が分かっているからだ。
◇◇
全ての物事に対し、公平であるという事は愚かしい事だ。それは自我を破壊するようなものだ。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
アスクラピアは複雑で不完全な神だ。この言葉は『公正』の戒律に反するが、アスクラピアは教えの一つとして、戒律に矛盾する言葉も残した。
俺は、一人の人間として、この矛盾と不完全さを愛する。これこそ人間らしさと呼べるものであるからだ。
だからこそ、アスクラピアは母と呼び信仰するに相応しい。例え、しみったれていて意地悪かろうとも。
俺が自らの考える所を述べると、ルシールは、一瞬ぽかんとして、それから微笑った。
「……」
ルシールは黙って聖印を切り、前室を身廊の方に向けて歩いて行った。
その先には礼拝堂がある。
そして、両開きの扉を開け放つなり叫んだ。
「やかましい! 文句がある者は出て行きなさい!!」
流石は金属バットだ。まぁ、この程度の覚悟なくして防疫などやってられないが。
ぎぎ、と軋んだ音を立てて扉が閉まってしまうと、ルシールの声が遠くなり、前室に静寂が訪れる。
ルシールは大声で、何やらポリーを叱責しているようだった。
俺に与えられた時間は少ない。
一ヶ月だ。長くとも、一ヶ月で種痘を作成し、この状況を打破する。完璧は望むべくもないが、時間稼ぎにはなる。犠牲者も大きく減る。
静かになった前室で、俺は一頻り祈りを捧げた。
これから罪深い事をする。大勢の者を救うが、大勢の者を殺す。俺は、死んで後、きっと地獄に落ちるだろう。だが……
◇◇
頭上に輝く清らかな銀の星が、新たなる道を指し示しますように。
◇◇
ルシールは民衆の説得に、思いの外、時間を取られているようだった。
時間を持て余し、顔を上げると、居住塔へ向かう階段付近に、こちらを睨むようにして立っているアシタの姿があった。
「……」
俺は腰の後ろで手を組み、アシタを一瞥した後は視線を逸らした。
アシタは圧し殺した声で言った。
「……ロビン姉ちゃんをクビにしただろう。なんでだ……?」
「……」
答える必要を感じない。俺は嘲笑って鼻を鳴らした。
アシタは酷く怒っているようだ。
「ロビン姉ちゃんは確かに性格悪いし、無茶苦茶意地が悪いとこあるけど、あんたの為に尽くしてただろ。なんでだよ。ロビン姉ちゃん、無茶苦茶泣いてたぞ」
「……」
「なんか言えよ。クソが……!」
答える必要を感じない。俺は黙っていた。
「……ロビン姉ちゃんが、獣人で青狼族だからか……?」
俺は呆れて首を振った。
アシタは問題の性質を理解していない。ただ、感情だけで物を言っている。だが、その感情の厚さは好ましい。それに免じて一言だけくれてやる事にした。
「馬鹿は黙っていろ」
パチンと指を鳴らすと、アシタは在らぬ方に視線をさ迷わせ、その場に崩れ落ちるようにして眠りに落ちた。
「せめて、この程度の術には耐えられるようになってから言え」
まだ半人前ですらない。俺は、そんなヤツの言う事に耳を貸すほど暇じゃない。
そして、間を置かず泣き腫らした顔のロビンが居住塔の階段を降りて来た。
「……」
俺は小さく舌打ちした。
ロビンは無駄に有能な所がある。先にアシタが現れたのは、きっとロビンの指示だろう。様子を見て、それから考える。全く以て無駄に有能だ。
「……パルマに、行かれるのですか……?」
しゃがれた声。格好こそまともだが、泣き腫らした目元が赤くなっていて、いつもは整えられた髪もてんでバラバラで纏まってない。
……哀れだった。
くそッ。パルマ行きを控え、こいつにだけは会いたくなかった。
「……どうか……どうか、ロビンもパルマに伴われますよう、この通り伏してお願い申し上げます……」
そう言って、ロビンは平伏した。
「……っ!」
それは騎士が見せていい姿ではない。俺は慌ててロビンに駆け寄りそうになったが、ぐっとその場に踏み留まる。
「……シュナイダー卿。貴女はよくやりました。私の意思は変わりません。出来る事なら、寺院や教会とは関わらず、貴女自身の幸せを追求して欲しいと思っています……」
俺は殊更他人行儀に振る舞う事でロビンを遠ざけようとしたが、それは無駄なだけでなく逆効果だった。
ロビンは平伏したまま、震える声で言った。
「……私に、何か落ち度がありましたでしょうか……」
「……」
俺とロビンとは、度々以上に衝突したが、それだけに互いに対する理解も深い。こいつの人種主義には我慢ならない所があるが、俺に献身的であった事だけは疑ってない。
これは昨夜も散々した話だ。
ロビンは、先ずクビを宣告した俺の言葉を信じず笑っていたが、本気だと分かると見栄も外聞もなく泣き出した。
己に落ち度があったか。獣人である事を隠していたからか。それでは容姿が気に入らないのか。それとも性格か。……まぁ性格は気に入らないが、冗談を言うような雰囲気でもなかったので、そのどれでもないと答えた。
そこまで考えた所で、ルシールが礼拝堂から戻って来た。
「シュナイダー卿?」
ルシールは平伏したままのロビンを一瞥し、首を振っただけで何も言わない。冷たく嘲笑う事すらしない。
「終わりました。ディート、行きましょう」
「ああ、そうだな……」
俺は冷たく言って神官服の裾を翻す。語る事は何もない。
「……」
そこでロビンが立ち上がる気配があり、俺は殆ど反射的に振り返った。
ロビンは、泣き濡れた顔で笑っていた。
「……貴方に付いて行けるのは、私だけだ……」
「……」
「……知ってるんですよ? 貴方は、いったい誰なんですか……?」
「…………」
「……中身が違う。貴方の魂は子供のものじゃない。特別な『何か』だ……」
『超能力者』故の超感覚というやつだろうか。いつからかは分からないが、ロビンは『俺』の正体を看破していたという事だ。
「……」
少し長い沈黙があったが、俺は表情を変えずにロビンの言葉をやり過ごした。
答えたのはルシールだ。
「シュナイダー卿。そんな詰まらない事を言って、ディートの気を引くつもりなんですか? 貴女には失望しました」
二人共、気付いていた。
これは殊更隠していた訳ではないから驚くには値しないが、はっきりそうだと言った訳ではない。俺が正体不明の『何か』と知りつつ、それでも付き従うロビンとルシールの考えは分からない。
今にも泣き出しそうな顔で、ロビンが言った。
「……貴方は、いったい誰なんですか……?」
俺は鼻を鳴らした。
「言いたい事はそれだけか?」
冷たく言って、再び踵を返す俺は、背中に恐ろしい程の圧力を感じた。
「……許さない……ディートハルト・ベッカー……後悔させてやる……! 絶対に許さない……!!」
言うべき事は何もない。ただ少し、重苦しいだけだ。
俺はディートハルト・ベッカー。
『アスクラピアの子』。死と罪を糧に、一人でもこの道を踏み締めて行く。
それだけだ……
本当に、それだけだ…………




