106 前夜
聖エルナ教会。
俺は司祭に宛がわれた自室で、静かに瞑想していた。
――アスクラピア――
親愛なる癒しと復讐の女神。しみったれていて、奇跡の代償として術者に犠牲を要求する。
あれの考える事は虫けらの俺には理解できない。だが、見守っている。俺のする事を見つめている。
「……」
薄く目を開くと、そこにはルシールがいつもの澄ました表情で立っていて、俺が瞑想を終えるのを待っていた。
「……すまん、ルシール。待たせたか。声を掛けてくれてもよかったのに……」
「いえ……深く瞑想されていたようでしたので……」
そうルシールは謙遜するが、呼び出したのは俺だ。明日、一番でパルマに乗り込む。その人選を任せていた。
「シュナイダー卿を遠ざけたのは賢明な判断です」
「……」
ロビンの話はしたくない。その事から逃げるように、俺は顔を背けた。
「……それで、パルマに乗り込む人員は決まったか?」
「はい」
まず、このルシールは連れて行く。それは決定事項だ。本人も納得している。任せたのは、それ以外の補助の人員の選定だ。
「ポリーを新たに助祭として任命して下さい。この聖エルナ教会の管理を任せます」
「うん……そうだな……」
ルシールの代わりとなると、年長であり、経験、実力共に兼ね備えたポリーしか居ない。問題はそれ以外の人員だ。
ルシールは澄ました表情で言った。
「グレタ、カレン、ゾイが志願しています。この三人を連れて行きます」
「……なに?」
俺は自分の耳を疑った。
気の弱いグレタとカレンが、パルマに顕現する地獄に耐えられるとは思わない。ゾイに至っては癒しの能力すらない。
「……」
俺は目を細め、澄ました表情のルシールと見つめ合う。
ルシールは馬鹿ではない。この人選には意味があるのだろう。一任したのも俺だ。しかし……
「……本当に、その三人の意思なのか……?」
ルシールは言った。
「グレタとカレンには、市井での奉仕活動の義務が残っております」
「なんだ、それは。答えになってない」
確かに、二人に奉仕活動を申し付けたのは俺だ。そこに間違いはない。だが、パルマでの奉仕活動は命懸けになる。それを知らないルシールでもないだろう。
「では、誰ならいいのです。ディート、貴方は、きっと誰を選んでも反対するのではないですか?」
「む……」
俺は熟考する。
パルマの事だけを考えるなら、最適な人選はルシールとポリーだが、その場合、この聖エルナ教会を仕切る者が居ない。
ロビンは頼れない。あいつに暇を出したのは俺だ。
「……」
俺は深い溜め息を吐き出した。
ロビンは……
ああ、くそッ。
あいつの涙が、これ程まで俺に堪えるとは思わなかった。だが、今回、あいつの守護は頼れない。剣と盾で対抗する問題ではない。種類が違う。同行には非常な危険が伴う。きっと、あの狂信者は恐れず俺と進み……命を落とす。パルマでの事だけに関わらず、あいつは、いつか必ず、俺の責任で命を落とす。それは……
俺は強く首を振って、ロビンに対する思考を追い払う。
「……ゾイは……」
ロビンがそうであるように、ゾイにも同じ事が言える。心構えはともかく、ゾイには今回の試練に立ち向かう手段がない。パルマへの同行には『癒し』の力を持つ事が大前提だ。
俺の考えなど、お見通しなのだろう。ルシールは顔色一つ変えず言った。
「ディート。貴方の身の回りの世話と守護の人員が必要です。シュナイダー卿に暇を出された今、代わってその役目を負う者が必要です」
「必要ない」
ゾイを連れて行くのも、ロビンを連れて行くのも変わらない。危険だ。承服できない。
俺は深い溜め息を吐き出した。
「……ルシール。もう、お前だけでいい。他の随員はいらん……」
「三人共に、覚悟は出来ております」
尚も食い下がるルシールに、俺は強く鼻を鳴らして見せた。
「未熟な者は死ぬ。連れて行けん」
命を救う為に行くのだ。足手纏いはいらない。そして今回、俺がルシールの同行に強く拘るのには理由がある。
「…………ルシール、聞け……」
「はい……」
眉間に皺を寄せたルシールは険しい表情だ。随員の件は譲るつもりはないのだろう。面倒臭い事この上ないが、あの三人を死なせる訳にも行かない。
俺は瞑想中、奇妙な部屋で母と語った件について話した。
「奇妙な部屋……?」
「母の作った特殊な擬似的空間だ。何もない。あるのは暗闇だけだ」
奇妙な部屋の事については何も分からない。あそこでは、時間の流れすらどうなっているか分からない。ほんの少し滞在しただけで数日経っていた事もあるし、今回のように殆ど間を置かず帰った事もある。
(神、か……)
母との邂逅を経る度に、良くも悪くも『神』とやらの存在を間近に感じざるを得ない。
あれは人の価値観で計れる存在ではない。あれのする事は、善だの悪だのという薄っぺらい二元論で語るべきではない。そんなものは既に超越している。
「ディート?」
「……すまん、母の話だった……」
俺の悪い癖で、思考が深くなると、つい周囲の事が疎かになる。
ルシールは呆れたように肩を竦めた。
「また、母に会われたのですね。もう、驚きはしませんが……」
「うん……」
そこで俺は、どこから話すべきか深く考える。
「……ルシール。お前も知っているだろうが、母は復讐を是とする神だ……」
そうだ。母は、癒しを行うと同時に復讐に加護を与える。あれは複雑なのだ。慈悲深くある一方で、残酷でもある。善と悪とは、神の両手だという話を聞いた事があるが……
俺は首を振った。
今、考える事ではない。
「……今回、母は聖女の命をご所望だ……」
「――!」
そこで、ルシールの顔色が変わった。
「……」
瞬き一つせず目を見開き、肩を小さく震わせている。
俺は短く、端的に言った。
「聖女を殺す」
「……」
ルシールは一言も喋らない。ただ刮目し、ひたすら俺を見つめ続ける。
「……あれは、母にとって『いらない子』だ。指を咥えて見ているだけの『寺院』の連中の事もいらんようだ……」
『不実の子』……酷い言い様だ。誠意と情愛に欠ける子。母はそう言った。聖女だけじゃない。寺院の連中も母の怒りを買ったのだ。
「……」
気が付くと、ルシールは肩を震わせて笑っていた。
そうだ。恨みに思わない訳がない。慈悲と慈愛を以て行動したルシールに、聖女は理不尽と暴力とで報いた。そして、俺たちの信仰する神は頭お花畑の甘ちゃんではない。
「これは、お前の当為だ」
俺は俺でしかない。幾ら信仰する母が聖女の死を望んだからとはいえ、俺が必ずしも同じ意思とは限らない。だが、このルシールは違う。
「……お前には復讐する権利がある。母は、必ずお前に力を貸すだろう……」
「…………」
黙って俺を見つめていたルシールの頬がみるみる内に紅潮し、熱い涙が伝う。
「ディート……是非、是非、おやり下さい。このルシールが地獄までお供致します……」
「……」
俺は小さく頷いた。
ここまでの経緯と言動で、ルシールが強く聖女と寺院を嫌悪していた事は分かっていた。敵うなら、我が身を捨ててでも復讐を望む事も。
ロビンに暇を出したのは正解だった。
あいつは寺院に所属する騎士だ。この事を告げれば、必ず道に迷う。俺に対する心情と、寺院への忠誠心で板挟みになる。
我ながら惰弱な事だ。
俺は……ロビンを苦しめたくない。あいつが道に迷い、悩み苦しむ様は見たくない。
いつからそうなった?
「……」
あのしみったれた女は、俺のこの苦悩を喜んで見守っているのだろう。何もせず、ただ見つめているのだろう。
自嘲の笑みが込み上げる。言った。
「他の随員はいらん。パルマへ向かうのは、俺とお前だけでいい」
地獄へは、俺とルシールの二人だけで行くのだ。
「はい……ああ、はい……!」
「……」
復讐は甘い毒だ。母を信仰する以上、ルシールもその業から逃れる事は出来ない。
ルシールは恍惚として言った。
「……ああ、ディート。私たちだけで行きましょう。私たちだけでいい。何処までも貴方に付いて行きます……」
「……」
俺は複雑な心境だった。
こう言えば、必ずやルシールが他の随員を寄せ付けない事は分かっていた。
「明日、一番でパルマに向かう。今日は休め」
「はい……ああ、はい……!」
二人だけだ。
行き着く先が本物の地獄でも、ルシールは笑っているだろう。
この毒は、それほどまでに甘い。
俺は疲れ……顔を拭った。
狂信者に代わり、金属バットがアップを始めました。
『アスクラピアの子』第三部少年期『聖女』編始めます。頑張りますが、二、三日に一話の更新を予定しています。よろしくお願いいたします。