孝行息子
俺は腰の後ろで手を組み、胸を張った姿勢で一寸先も見えない闇と対峙している。
いつかの弱々しい俺とは違う。
銀の髪と闇を溶かしたような漆黒の瞳。
ディートハルト・ベッカー。
俺という名の少年。
目の前には青ざめた唇の女。古ぼけた高御座に腰掛け、物憂い目で俺を見つめている。
――アスクラピア――
癒しと復讐の女神。しみったれていて、奇跡には高い代償を必要とする親愛なる母。
その隣に侍るのは盲の男、『白蛇』。砂と風に草臥れた外套 。腰に長剣を差した白髪痩身の騎士。
白蛇が平淡な声で言った。
「よくやった、兄弟。しみったれた母は、お喜びだ」
俺は神官服の裾を翻し、その場にゆったりと膝を着いた姿勢で母の言葉を待つ。
「……」
闇に潜む大蛇を狩り、その力を得た。今の俺に対抗し得るのは、白蛇か母のみ。或いは……『聖女』エリシャ・カルバート。
母の戯れる指先が、儚い虚空にその名を書く。
――エリシャ・カルバート――
どうやら、しみったれた母は、聖女の命をご所望のようだ。
疲れたように言った。
『いらない子だ……』
ロビンが『他所の子』と言って嫌ったように、母も聖女を嫌っているようだが……『いらない子』とは恐れ入った。
『聖女』エリシャ・カルバートは謎の存在だ。ルシールとロビンの話では『造られた』。俺と同じ銀の髪をした少女。
『…………』
母はそれきり黙り込み、憂鬱そうに首を振った。
白蛇は盲の男だ。だが、虚空に書かれた聖女の名は見えているようだ。怯んだように息を飲み、それから、呆れたように大きな溜め息を吐き出した。
「母よ。それは俺がやりたい。俺にやらせてくれ」
アスクラピアは答えない。高御座に腰掛け、物憂い表情で首を振るだけだ。
白蛇は尚も食い下がる。
「母よ。あれは無知の産物だ。弟にやらせるには……ぐ……!」
白蛇は突如呻きを上げ、その場に押さえ付けられるようにして膝を着く。
母がやった。
見向きもせず、白蛇を屈服させた。これが神の力というやつなのだろう。疲れたように言った。
『……刈り取る死が来る……犠牲は……もう避けられない……』
分かっている。
それが俺の責任である事も。解決法はあるが、既に間に合わない事も。
多くの者が死ぬだろう。そこでは別れが泣き、誰もが死に身を任せる事を学ぶ。
「……」
俺は黙っていた。
今回の事に関する限り、俺に反論する資格はない。母が取り除こうとした災厄を、知らぬ事とはいえ、世に放ったのは俺の責任だ。
そして『聖女』。造られたアスクラピアの子。『いらない子』。
『天然痘』という特大の災厄との戦いを控える俺に、母は何をさせたいのか。
俺に歯向かう権利はない。罰されたとしても仕方がない事をした。
跪き、頭を垂れたままの白蛇が、呻くように言った。
「……兄弟、胸を張れ。お前は間違ってない……」
「……」
俺は首を振った。
母は逆印を使ってまで警告した。だが、俺がジナに情けを掛けたばかりに、多くの者が死ぬ。知らなかったでは済まされない問題だ。
『…………』
アスクラピアは高御座に腰掛け、肘を着いた姿勢で深く考え込む様子だ。憂鬱な表情は変わらない。呟くように言った。
『赦す』
その瞬間、どっと噴き出した汗が頬を伝って滴り落ちた。
母は俺を見て、倦み疲れたように言った。
『……吟味せよ……不実の子らは……いらない……』
クソ、またけったいな事を。意味が全然分からん。俺に何をさせたい。
『……喜びを与えるにせよ、悲しみを与えるにせよ……全ては一つに絡み合っている……』
「……」
駄目だ。俺には神の言う事を理解する事が出来ない。
『太陽の御空に導くにせよ……地獄の叫びに導くにせよ……いずれも同じ……』
こいつのポエムは難解過ぎる。俺にはまるで理解できない。
『……真理を弄んではならない……不実の子らに、死と更生と久遠の墓を……』
「……っ!」
そこで俺はハッとした。少し分かった。分かってしまった。こいつはつまり……!
最早、『刈り取る死』は避けられない。多くの者が死ぬ。母は、それを使えと言っている。
蛇の道は蛇。
不実の子……『寺院』と『聖女』は、母の怒りに触れたのだ。
最後に、神が言った。
『生贄の叫びと……火炙りの死……全ては……神聖で、よい……』
「……」
酷く迂遠な言い回しだが、これは寺院と聖女に対する事実上の死刑宣告だ。
そして――
俺は、母の代行者として振る舞わなければならない。
言いたい事は山程あるが、直答は許されない。その許可がない。
地獄のような静寂が続く。
俺には顔向け出来ない罪があり、母を見つめ返す事は出来ない。
ややあって……
「……兄弟、もういいぞ。顔を上げろ……」
白蛇の呼び掛けに応じ、顔を上げると、高御座に座っていたアスクラピアの姿は消えていた。
白蛇は、大きく溜め息を吐き出した。
「あの、しみったれが言った事の意味が分かっているか、兄弟」
「あぁ……」
俺は吟味せねばならない。
誰を生かし、誰を死なせるのか。
不実の子らに災厄を。造られた聖女に死を賜る。死と罪を糧に進め。今回、しみったれた母は、そう仰った。
ふざけやがって……!
俺は苦悩する。人の身で命を選ぶなど傲慢が過ぎる。きっと、アスクラピアは、俺のこの苦悩すら折り込み済みなのだろう。
「……」
白蛇は首を振った。深い溜め息を吐き出し、何度も首を振った。
「……今回はキツいぞ。大丈夫か、兄弟……」
「少し違うな……」
今回もだ。
あのしみったれた女は、人間の苦悩する姿が大好きなのだ。
俺は鼻を鳴らした。
「いいだろう。派手にやってやる」
寺院と聖女との衝突は避けられないと思っていた所だ。
俺は、しみったれた母に感謝の呪詛を捧げた。
「やがて風が吹き、刈り取る死が訪れるだろう。未熟な者だけが死ぬ。無常も永遠も等しく尊くあり、詰まらなくもある。永遠に見える星が嘲りの光を放っている」
天然痘には対処してやる。これもまた命懸けになるだろうが、それはいい。
だが、アスクラピア! 親愛なる母よ! あんたの汚れたケツは、あんたが自分で拭くんだ。
俺は、癒しと復讐の女神『アスクラピアの子』。
いずれ……
あんたは我が子の業を思い知るだろう。
「俺は貸し借りが嫌いでな……」
さて、どうしてやろうか。
『造られた聖女』エリシャ・カルバート。『いらない子』。あのしみったれた女を高御座から引き摺り下ろし、自分のケツを拭かせてやる。
「ははははは……!」
その時を思い、俺は嗤った。