99 嘲笑う死者
四十一層を目前に控えたボス部屋で、俺たちはこの日のダンジョン攻略を終え、キャンプを張る事になった。
ロビンが遠慮がちに言った。
「……休むのであれば、地上で宿を取った方がいいのではないですか……?」
俺は鼻で嘲笑った。
「地上も地下も変わらん。同じ地獄なら、俺は静かな方に居たい」
最早、天然痘の感染爆発は防げない。それは近く、次のフェーズへと移行する。
アウトブレイクだ。
感染は予想を超え、凄まじい速度で広がって行く。
「既に『封じ込め』の可能性は断たれた。現状はフェーズ4という所だな」
フェーズ4。市中レベルでのアウトブレイク……人から人への感染が認められた状態。
お次はフェーズ5だ。
国から国への感染拡大。ここまで来れば、幾ら無能な寺院と言えど責任を痛感する事になるだろう。
「す、すみません、ディートさん。仰る事が分かりません……」
死の淵より帰り、目を覚ましたアネットは俺にしがみつくようにして抱き着き、胸に顔を埋めて身体を震わせている。
アネットはもう駄目だ。
俺はアネットの金髪を撫でながら、ロビンの問いに答えた。
「感染症の拡大には、幾つかの段階がある」
WHOが定めた国際基準がそれだ。まぁ、中世並に衛生管理の遅れたこの世界の人間には理解できないだろう。
休憩がてら、暇潰しの一環として感染症対策のフェーズについて語る俺の言葉を、ロビンは酷く困惑して聞いている。
「つ、つまり、ディートさんは、この疫病が国から国へ伝播するとお考えですか……?」
「或いはな」
尤も、この砂の国『ザールランド』と隣国『トリスタン』との間には死の砂漠が広がる。その限りとは言えないかもしれないが。
「地上は、既にパンデミックの状況に陥りつつある。アウトブレイクは避けられん」
ロビンは目を白黒させ、何度も首を振った。
「す、すみません、分かりません。そもそも、天然痘とはどのような病気なのですか……?」
有能なロビンをして、この無知。俺としては笑うしかない。
「そこからか」
天然痘のヤバさについてはオリュンポスでも詳しく説明したが、ロビンには疫病の一つであるという理解が精一杯のようだ。
「地上に戻れば、嫌でも分かるだろう」
説明しても分からない事は、絶対に理解できない。俺は一頻り笑い、それから後は口を噤んだ。
その沈黙にロビンは動揺甚だしく、俺を見る目に畏怖の色が滲む。
「……ディートさんのその知識は、いったい何処から……」
「さぁ……何処からだろうな……」
思い出すのは、痘痕に塗れた汚ならしい老婆……アダ婆の事だ。あの婆さんは、明らかに天然痘に罹患した形跡があった。
あの婆さんの事は知らん。何処をどうほっつき歩いて、どういう経緯から天然痘に罹患したかなど想像もつかん。だが、天然痘自体は以前からこの世界に存在し、あちこちの小集団を壊滅させながら、影響力を強めて行ったと考えるべきだろう。
(或いは、進化した、か……)
俺は地下の地獄より、地上の地獄を思い、大きく溜め息を吐き出した。
「さて……アレックス。当然だが、もう萎えましたとは言わんだろうな……?」
「あぁ、あたしは大丈夫だ。アネットの事は、ありがとう。ディート、あんたが居て本当に良かった」
俺は笑った。
「言ったな。後悔するなよ」
以前の俺なら、アネットは死んでいただろう。全身を強く打ち、腹が破れて内臓が飛び出したのだから当然だ。癒者なんかの手には負えないような重傷だ。実際、アレックスは諦めていた。
俺は、こめかみの部分を指で叩いてこう言った。
「頭さえ無事なら、なんとかしてやる。そこだけはどうにもならん。即死だけは避けろ」
余裕だと思われたダンジョン攻略だが、四十一層からの攻略は、難度が桁違いになる。それは、新たに出現した首なし騎士という悪魔の存在が証明している。
「頭だね。分かったよ」
『震える死者』は、二十層おきに顔を変えて命知らずの冒険者を嘲笑うのだ。それを身を以て知るアレックスの表情は厳しい。
そして忌々しいが、ロビンには言って置かねばならない事がある。
「……ロビン、心配を掛けた。済まなかったな……」
眠っていたのは、六~七時間という所か。神力、体力、共に問題ない。腹は立つが、ロビンの判断は間違っていない。
「い、いえ……」
ロビンは、きっと俺が怒り出すと思っていたのだろう。意外そうに首を振った。
アネットが死に掛けるというアクシデントこそあったが、予定通り一日で四十層に到達した。これは大きい。このボス部屋で一晩休み、万全の状態で決戦に臨む事が出来る。
俺は、震えの止まらないアネットの髪を静かに撫でた。
「……アネット、よくやったな。お前は、もう休め。いいな……」
死の淵を覗き見たアネットは、がちがちと歯を鳴らしながら小さく頷いた。
「……うん、それでいい。本当に、ご苦労だった……」
ダンジョン探索に於けるアネットは慎重派だ。今の己がこれ以上の負荷に耐えられない事を理解している。
アレックスも深く頷いた。
「……アネット、ありがとうね。もう十分だ……」
アネットは『レンジャー』だ。何でもこなすパーティの便利屋だが、裏を返せば器用貧乏とも言える。究極的には力がものを言う激戦必至のヒュドラ亜種討伐戦に於いて、死ぬ可能性が一番高いのが、器用貧乏のアネットだ。心が折れた今、その可能性は飛躍的に高まる。
故に、俺もアレックスも、アネットの参戦を望まない。
以降のアネットはエレベーターのある玄室にて、マーフィーと俺たちの帰還を待つ。
俺に抱き着いたままのアネットを見て、ロビンが不貞腐れたように言った。
「……アネットさんには、優しいんですね……」
疲れた者を労るのは、神官としても人としても当然の事だ。俺は誰も死なせたくない。実際、アネットはよくやった。迷わずここまで来れたのはアネットのお陰だ。それが理解できないロビンではないだろう。
「なんだ、お前も優しくして欲しいのか?」
冗談混じりにそう言うと、ロビンは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「はい!」
「……流石に突き抜けているな……」
この狂信者に気遣いは無用だ。
首なし騎士の駈る戦車を受け流した強靭なフィジカルもそうだが、そのメンタリティも問題ない。
俺は呆れ、大きな溜め息を吐き出した。
◇◇
四十一層。
『震える死者』は、またしても顔を変えて嘲笑う。
「なんだ、ここは……」
二十一層からは、石造りの通路であったものが、赤銅色の『金属製』になっている。
床面も滑らかな金属製。ブロックを合わせたような繋ぎ目があるそれは、この世界ではあり得ないオーバーテクノロジーだ。
「そんな馬鹿な……!」
中世程度の文化圏だと思っていた所にこれだ。
ダンジョン『震える死者』。
四十一層に至り、この異世界は、俺の想像を遥かに超えた。
なんという未知。
なんという神秘。
アレックスが震える声で言った。
「……ディート。あんた、笑ってるよ……」
素晴らしい。それ以外に表現する言葉がない。俺はこんな未知も神秘も知らない。
「おお、母よ……」
この神秘に立つ境遇を、俺は心の底から神に感謝した。
「……初めてここに来た時、あたしは怖くて怖くて仕方なかった。でも、あんたは笑うんだね……」
力が漲る。俺の心は、この謎と神秘に震えていた。
素晴らしい世界だ!
今はもう、次なる試練が待ち遠しい。神の戯れる指先は、俺をどのような運命に誘うのか。
最早、待ったなし。ここより先、地獄。
それがいい。
俺は嗤った。