崩壊と絶望と、ひまわりのような笑顔の女の子8
「不思議について考えてみよう」
綺麗な満月が少し欠け、すっかり満天に星が散らばる時間に、僕は黒く大きな影にそう言われた。
「確かに僕の成長は不思議だね」
「問題はそこじゃない。僕が問題にしているのはなぜ妖精さん――いや、精霊さんか、その精霊さんが僕に真っ先にその報告をしに来たかということだ」
どこまでも高く、星々の光を遮る彼は、僕にとっては当たり前でしかない質問をしてきた。
むしろなぜ彼にはそれがわからないのか、逆に真っ先に報告しなければ怒られるのではないかと思っていたほどなのに。その辺りが人間の感情を持った僕と木の彼の違いだろう。
僕は呆れ交じりの気持ちを込めて肩をすくめる。
「それは僕たちが友達だからだろうね」
「友達だと隠し事はしちゃいけないのかい?」
「別に駄目とは言わないよ。ちなみに君は友達の定義を知ってる?」
従姉弟のお姉さんに昔訊かれたことがある。友達はいるのか、と。僕はこう答えた。どこからが友達なのかわからない、と。すると彼女は僅かに微笑んだ。
――じゃあ調べてみればいいさ。現代には辞書という立派な教科書がある。案外あれは普通に使っている言葉を調べてみると新たな発見があって面白い。
そのときの僕はまだ小学生に上がりたて。大人のお姉さんの言うことぐらいなら素直に聞きいれてしまう人間だ。その割に大人びていたから本を読んで辞書を引くことなど僕には稀ではない行為だった。
「友達ってのはね、対等でなければいけないらしいんだ」
「対等か」
「そう、対等だ。友達は自分と対等なものらしい。僕はエレンやその家族を友達だと思っている。なら僕らはみんな対等なんだから、君にも話すべきだと思ったんだ」
「でも僕は彼らと友達ではないから対等じゃないと思うけど?」
「いいんだよ。これは僕がどう思っているかの問題なんだから。僕の中では君もエレンたちも対等な仲間だよ」
対等とか、平等とか、そんなものが完璧に実現するなんて思っていない。彼らはみんな違うのだから、応対もそれぞれで変える必要はでてくる。でも少なくとも自分の気づく範囲では対等で、平等であろうと思い続けるのが大事なことだと思っている。
気持ちなんて普遍の事象じゃない。一人一人が決めるのが気持ちなんだ。だから僕の世界でエレンも彼も平等だ。
「精霊さんの見る世界はとても綺麗な場所なんだね。凄く脆くて、落としたら割れてしまうガラスのようだよ」
ガラスのよう、か。
そうなのだろう、と僕は思う。僕の理想はとても高い場所にあって、もしそのとき気がつかずに、自分が対等なものに平等でないことをしてしまったなら、心は簡単に傷ついてしまうから。
僕は彼の幹に手をついた。太くてしっかりしていて、父親の背中を彷彿としてくれる頼りがいのありそうな幹だ。
「もし僕が壊れてしまいそうなときには君が助けてくれると嬉しいよ。僕はガラスと違って修復しやすいのが自慢なんだ」
そうだね、と彼は笑った。
その間は遠くで鳴り響く地震のような低く地面に響く音も気にならなかった。
***
彼は大きな身体を頼りに一人の少年の背中をしっかりと支えていた。
もう妖精さんは眠ってしまっただろうか。それを確かめる術を彼は持たない。きっと話しかければ妖精さんは必ず応えてくれる。たとえ今眠っていたとしても、すぐさま意識を覚醒させて彼の言葉に応答してしまう。
「とても優しい妖精さん、いや、今は精霊さんだったね」
精霊さんはどこまでも優しい。助けてほしいと言えば助けてくれて、一人にしてくれと言えば一人にしてくれて、放っておいてくれと言えば放っておいてくれる。彼らの願いを聞き入れてくれる、まるで神様のような存在だ。
――妖精さんが精霊さんに変わっても、話すことができてよかった。
本来妖精の子は妖精に生まれ変わることが前提になっている。だから植物の声が聞こえるのであって、精霊になれば高確率でその加護は失われる。つまりアルが精霊になるということは、もしも植物との会話という加護を失わせるような状況になるのであれば、木である彼にとって友達を一人失うことと同義だ。
だから彼と会話ができる今の状況は、精霊になったからと言って彼にとっての不利益ではない。不服があるとするならば、精霊さんと言うのは口が慣れないということくらいだ。
こんなに都合のいいことが起こると、本当にアルが神様のように思えてくる。
「いや、神様は精霊さんに失礼かな」
神様。彼は一度だけその存在に会ったことがある。正確にはそのような存在。
不意に現れた神様。彼女はこう言った。これから君には木にそぐわない、友達というものができる。できればその子と仲良くしてあげてほしいんだ、と。
神様はただ彼にお願いをしただけだった。彼女自身は何もしなかった。
きっと彼女は世界で最も平等な傍観主義を貫く神様なのだろう。神様がそれ以外に世界のために何かをしたという話を聞くことも、そもそも神様が現れたという話すら聞かないから。
そんなものが妖精さんのために彼にお願いをした。じゃあきっと妖精さんは特別な存在なんだ。
――別に特別な存在とか今は関係ないけどね。
始め妖精さんだった少年は、彼ととても気が合った。もしかしたら僕ら木々は知的生命体と話すことができたなら仲良くなれるんじゃないだろうか。そう思えるほどに。
でもよく見たら妖精さんは他の知的生命体とは違った。まるで、誰にでも手を差し伸べる本当の神様のような存在だった。世界の幸福が一定値であるならば、彼らの幸福の代わりに自分が不幸になろうというくらいに。それは神に祈る人たちが夢想した、理想の神様だ。
一度妖精さんにそれを訊いたら「そんなこと思ってないよ。僕は手の届く僕の世界の範囲のものには手を差し伸べるけど、それ以外なら僕たちの幸福のためにとことん切り捨てることができる」と。最後に冗談交じりに「僕は僕の世界の神様でしかないんだ」と笑って言った。
――でもね、きっとそんなことすら妖精さん以外にできる人はいないんだよ。
精霊さんとなった今でも前と同じなら睡眠の周期は変わらないはず。なら今はまだ起きている可能性の方が高いかもしれない。でも精霊さんはとても疲れていた。楽しくても疲れたら誰だって休みたいはずだ。
彼はそっと黙って身体を貸す。一ヶ月に一度だったはずがここ三日間ずっと一緒だ。
でも文句なんてもう言わない。だって彼らのこの関係は、もうすぐ終わりを迎えてしまうかもしれないから。
彼は地震のような音が徐々に近づいているのをただただ感じていた。
***
美味しいパンが食べたい。僕はまだ転生してからパンを食べていない。特にフランスパンは好きだ。パンそのものの味と圧倒的な触感が食欲を満たしてくれる。
カレーパンもいい。パンとカレーという日本人ならではの独創的な発想だ。
食パンも好きだ。焼いてバターを塗るもよし、ジャムを塗るもよし。そのまま食べることもできればサンドウィッチにすることだってできる。最も汎用性の高いパン。
考えると少しお腹が空いた気分になった。実際にお腹が空くことはこの森にいる限り魔力が満ちているからないけれど。
食パンの材料は小麦だったな、小麦は乾燥地帯で栽培されているはずだ、将来この森をでることがあったら小麦探しもいいかもしれない、できれば米も探してみたい。
ふと目を覚ますと近くに砂漠が見えた。ああ、僕は眠ってしまったのか。三日連続の睡眠。初めてかもしれない。もしかしたら睡眠も人間レベルの周期になっているのだろうか。
「やあ、おはよう」
「うん、おはよう」
彼のもとで眠るのはかなり珍しい。なんせこの辺は湖がない。寝起きにもかかわらず顔を洗いに少し歩かなきゃいけない。
歩ける、と自分の口にだして言ってみると少し嬉しくなった。
そう、昨日僕は彼のところまで歩いてきたのだ。浮遊魔法が使えなくなってはいなかったけれど、僕は久しぶりに長距離を歩いた。歩くのは少し楽しかった。やっぱり歩くことは僕にとって大切なことだと再確認することができた。
「眠っていたの?」
「うん。もしかしたら睡眠の周期が身体と同じになっているかもしれない」
彼はじゃあ、と言って果実を数個落とした。
「もしかしたら食べ物も必要になっているかもしれないよ。それを食べるといい。僕の魔力がたっぷり詰まった栄養満点の食材だ」
睡眠の周期が人間に近くなっているということは食欲だってでてきているかもしれない。パンが食べたくなったのもそのせいだろうか。
空腹は今のところ感じなかった。もしかしたら空腹という感覚を忘れているだけかもしれないけれど、なら極限までお腹が減ったら食欲も明確に湧いてくるだろう。僕は果実を服のポケットにしまう。
「何か問題があったら『コール』をよろしく。なかったらたぶんまた一ヶ月後くらいに」
彼は何も言わなかった。別れ際に何も言わない姿が、特に表情が窺えないせいもあって、とても格好よく見えた。
そのままエルフの村へ向かう。アレンさん、エレナさんへの報告をした。音は近づきつつあることについてだ。彼はあまりその話をしなかったけれど、僕でもはっきりわかるほどに異様な音は近づきつつある。
「そうですか。やはり何かあるかもしれないということですか」
ここにきてアレンさんも危機感を感じ始めたようだった。この前の楽観的な表情と違い眉間に皺を寄せている。
エレンはここにはいない。これはエレナさんとアレンさんの判断だ。精神年齢が小学生ほどの女の子に聞かせる話ではない。周辺が襲われる危険性とか、死ぬ可能性とか、そんなものは大人が考えればいい。純真無垢な女の子にそんな辛辣なことを考えさせるのは良くない。ここは僕も二人に賛成だ。
「魔物の群れ、という可能性が一番高いと思います。まあそれ以外に地に鳴り響く音というものの正体の可能性が浮かばないだけではありますけど」
ただの動物の群れ、というものなら大きな被害がでるようなことはない。でも音が聞こえるのは砂漠の方向で、砂漠に棲む群れる生物など魔物以外の存在では難しい。
「わかりました。本来なら妖精と精霊のことについて研究をしたいところではありますが、魔物の盗伐隊を組みましょう。私はやはり家族が一番大事だ」
家族が一番大事、か。
僕は前世で同じように思えていただろうか。大事、とは思っていても一番、は付けられないかもしれない。あるいは、身内だから死ぬのはなんだか悲しい、と血のつながっていること以外彼らの死を拒む理由がないかもしれない。
少しうらやましかった。家族のことを当たり前のように大切に思えて。
「アル様、予め言っておきます。私も森のみなも、もし魔物の群れが来るならば全力を持って対処するつもりです。しかし家族とは変え難い。アル様の役割はこの森を守ることかもしれませんが、場合によっては森を切り捨てることとなりましょう」
「もちろん。むしろそうしていただかなくてはなりません。森の木々は、最悪の場合のときの死の覚悟はすでにできているでしょうから」
なるべく想像はしないで、顔には感情を一切ださないようにした。きっと考えてしまえば泣いてしまう。だから、クールに、機械的に。
そしてこれは、誰よりも僕への言い訳だった。
「あと、僕は妖精ではありませんからもう森を守る役割はありませんよ。ただ、すでに森は家族のようなものだから守るというだけです」
すみません、とアレンさんは頭を下げた。そして踵を返して討伐隊の編成に。エレナさんは何も言葉を発さず、エレンのもとへ戻って行った。少し無理して笑顔をつくっているように見えた。
森は音を立てることなく、静寂を保ったままだった。
僕のための言い訳を二人に言ってしまったことに心が痛んだ。何より木々のことを思うと泣きそうになった。
涙を零さないように仰いだ天は、いつもよりくすんだ色をしていた。