prologue
斜陽によって現れた影が様々な形を見せている。時間とともに複雑に形を変える影はまるで意思を持っているみたいだ。そんな影とは対照的に僕の身体は意思に反して揺れている。一定のリズムとともに、小刻みな振動をその身に受ける。
なんだか気持ち悪くなってきた。酔い止めを用意しておけばよかった。三半規管が強くない僕が思うのはそんなことだった。少し離れた場所にいるの子供のように、靴を脱ぎ、過ぎ去る光景に世界が美しいと言わんばかりに目を輝かせ、その目に焼き付けようなどとは微塵も思わない。
「君は不思議な子だね」
そう尋ねてきたのは隣に座るまだ高校生だったお姉さん。彼女は今日ずっと僕の隣で保護者をしてくれていた。
「僕はそんなにおかしい?」
この頃僕はまだ六歳。世間の普通がどんなものかなどまったく知らない。だから大人が困った顔を見せたとき、それはしてはいけないんだと学習した。そうやってこれまで育ってきた。
「おかしい、というのとは少し違うね。不思議なんだ」
彼女は今日、唐突に家にやって来た。と、僕は感じた。実際は父も母も来ることは知っていたらしい。そのときは父と母の知人という認識しかなかった。だから知らないお姉さん。
お姉さんは優しい笑みを浮かべていた。それは子供に向ける慈愛がこもっていた。ただ僕は物心ついてからというものそういう表情をする人とは初めて出会ったので、優しい笑みだとは思わず、お姉さんがなんらかの僕のよくない行為に苦笑したのかと思った。
「どうすれば普通になる?どこが駄目なの?」
僕は普通が良かった。普通に愛され普通に育ち普通の成績で普通の人生。
普通は安定している。安定しているのはいいことのように思う。
「そういうところさ」
お姉さんは優しく僕の手のひらにその手を重ねた。
「君は普通になりたいと思っているんだろう?」
うん、と首を縦に振る。
「普通六歳の、もうすぐ小学生になろうという子供がそんなことを思わないということだよ。テレビで見たヒーローのようになりたい、サッカー選手になりたい、そんな大人になったらほとんどの人が持つことができなくなるような夢を持つのが普通の子供だよ」
確かに周りの少年たちは一様にヒーローの話やらで盛り上がる。少女ならば魔法のステッキに憧れている。
少なくとも夏目漱石を読もうなんて人間見たことがない。あれは個人的にはあんまり面白くなかった。多分人生観というものが歳の差だけ違うからだと思う。
「ただ君の性格は変えようがないから仕方がない。いくら修正したところで自分の根本はなかなか覆せない。だから君が子供でありたいなら普通でないことを誇りに思うべきなんだ。普通でありたいと、普通でないことはおかしいと思うのは大人になってからでいい。私は大人になってからもそんなことは思ってないけどね」
電車は止まり、ドアが開く。日曜日だからかそれほど人の入れ替わりはない。ドアが閉まって電車が動きだすと西日が差し込んできたので僕は少し俯いた。
「世界の話をしようか。君が思う世界の大きさについての話だ」
僕が普通の子供とは何か、僕は何が普通ではないのかを考えていたとき、お姉さんはそう言った。
「球体で、海が七〇パーセントくらい占めているかな。面積とかは知らないよ」
多分僕が知りうる知識の中で最も普通の解答。
「違うよ。これは地球の話じゃない。君の心の中にある世界についての話だ」
心の中にある世界というワードにはまったく心当たりがなかった。そんな話がでてきた物語を僕はまだ読んだことがない。だからお姉さんの意図はさっぱりわからなかった。
彼女は僕の手を放した。温もりが消えたのは少し寂しかった。
「世界というのはね、自分が知っているものだけでいいんだよ。例えば私の中の世界は親類縁者と友達、あとは同じ学校に行っている人。そんなものだ。それは地球から見たらとても小さくて、四捨五入してしまえば0になってしまうほどのものだ」
自分の周知しているものが世界ということなのだろうか。
それなら僕はどうだろう。まだ六歳だ。きっとこれから色々なことがあるのだろう。でも今の僕には、お姉さんの言う世界は家族とお姉さんしかいない。同じ幼稚園の人と友達がするような話なんてしたことがないのだから。
「僕は……わからないよ」
お姉さんが僕の頭をそっと撫でた。
「世界は無数にあって、それはいくらだって共有することができる。わからないなら誰かと共有してごらん」
友達なんていないよ、と答えようとしたけれど他に訊きたいことがあったので僕はその言葉を喉元で留めた。
「同じ価値観の人なんていないと思う」
「うん。君と私だって考えも何も違う。それは心の中にある世界が違うからだ。でも共有することはできる。円を二つ書いて、少しでも重なれば二人はお互いをお互いの世界に存在させることができる」
でも僕の世界はとても小さい。人との繋がりがほとんどない。きっと同い年の子供の中でも僕の世界はずっと小さい方だと思う。その小さな円の端に掛かっているのが両親で、もう少し内側に入り込もうとしているのが、たぶんお姉さん。
「君の世界の大きさはどれくらいかな」
電車が再び止まる。今度は人の出入りがさっきより少しだけ激しかった。
「とっても小さい」
「なら、これから君の世界はどんどん広がっていく」
お姉さんはそう言って笑った。さっきよりも無邪気な笑みだった。
***
世界はもっと綺麗なものだと思っていた。
白い雲だとか、青い空だとか、女の子の涙だとか、そんな綺麗なものが世界のほとんどを支配しているのだと思っていた。けれど、世界は思っている以上に残酷だった。
この世界はひどく窮屈だ。便利な世の中になっていっているはずなのに世界はいつまで経っても幸福を増やさず、誰かが幸せになれば誰かが不幸になり、それは世界が発展するほどに複雑になっていく。
この世界がそんな、なんだか生きにくいと思ってしまうような世界であることは知っていた。けれど、世界がここまでひどいものだとは理解していなかった。
――世界が滅んだ。
何が起こったのかわからない。気づけば世界に光が満ち、音を立てて崩れだした。
ただ平凡に学校に通って、勉強して、運動して、クラスメイトと語り合っているだけの誰とも変わらない人生。この世界の主人公になれなかった僕は、何も知らずに崩壊と死を迎えた。
僕がわかったのは世界を崩壊させたのは魔法だったということだけだ。この世界に生きるほとんどの人が知らない魔法、そして知っているだけの僕。何かを知らされていたとしてもきっと何もできなかっただろう。
もう少し生きたかった。死ぬ瞬間というのはこんなにも足が震え、身体が動かないものなんだと初めて知った。けれどもう、それも意味はないだろう。僕は死ぬ。そこにもう未来はない。
でももし、もう一度生をやり直せるとしたら、叶うならみんなが魔法で幸せに暮らせる世界がいい。そんな世界があったらどれだけ幸せなことだろう。