9.メンター(後)
小気味良いまでのテンポで、糸井川の皿からおかずが消えていく。
糸井川はカウンセラーとは名乗ってはいるが、歴とした臨床心理士だと聞いている。食事の早さ一つとっても、優秀な部類の人間なのだろうとうかがえた。
一方俺はまだ半分も手をつけられていない。カウンセリングから逃げ回っていた手前の気まずさが、食欲を削いでいた。
「ところで……どうしたんだい? 小説を書いてみようとでも思ったのかね?」
本屋での一件を思い出す。俺が小説を書いていたことは、迷うこともあったがこれまで言わずにいた。
「……ええ、まぁ、ちょっと興味が湧いたというか……いけませんか?」
「いいや、素晴らしいね。是非やってみるといい」
俺は小首を傾げる。これまで糸井川は、出来る限り俺に何もさせないように指導していたはずだが……
そんな俺の心根を読んだかのように糸井川は箸を止め、俺と反対方向に首を傾げた。
「創作というのは近年心理的に良い影響がある……と言われてきているのだよ。それに“何かを書く”という行為には、確かな効果を示すエビデンスもある。無論、無理にとは言わないが、君の担当医としては推奨したいね」
「は、はぁ……そうですか……」
機嫌が良さそうな糸井川だが……精神系の担当医、それも院長が外で患者に出会っているのは問題は無いのだろうか。
そういえばと、俺はせっかく出てきた話題に乗り、丁度気になっていたことを聞いてみる。
「もしかして先生は……小説を書かれるのですか?」
「うむ?」
「いえ、先ほどこいつを……」
座席に置いていた、薦められるままに買った本を差し上げる。
「ああ、今はさすがにそんな暇はないかな。だが知り合いに一人作家がいてね。もう亡くなってしまったが……そいつが良く書けた本だと、珍しく誉めていたものなのだよ」
「そうなんですか……」
「楽しいことだよ、小説を書くのは。自分の望んだ世界を創り出せる。今まで気づかなかった自分の一面や、新しい考え方に気づくことも出来る。私もこの仕事に出会わなければ、作家を目指していたかもしれんなぁ」
書いていた当時のことを思い出しているのだろうか、糸井川は楽しげだった。
俺の小説への想いや関わりは糸井川とは違うものだと思う。だが、言わんとする良さは共感できるし、実際に俺が常々感じていることでもある。意外な共通項があったせいか、俺は「現実」の相手でありながら、糸井川という人間に少しばかり親しみのようなものを持てた気がした。
そのせいなのだろう、俺は気づけばついと――自分の抱えていたものを吐き出していた。
「……先生、もし俺……私が小説を書いたとして、酷評を受けたとすれば、どう受け止めればいいのでしょう?」
「うむ……? 書く前からそんな心配かい?」
しまった、と思ったが、出してしまったものは戻らない。俺は引っ込めたい気持ち半分、不自然にならないように質問を続ける。
「いえ、例えば、例えばの話です。書いたからには読んでもらいたいと思うこともあるでしょう。でも、もし……それで手酷く突っぱねられたとしたら……」
脳裏に昨日の一件が交錯する。
糸井川は「そうだな」と言いお茶をすすると、少し考えるような仕草をし、一つうなずきを見せたあとで話し出した。
「気にするな、相手にするな」
「はい……?」
「今の君の状態からすると、それが一番だと思うね。小説は一本をしっかり書こうと思うと、その世界ともその世界の住人とも何十、何百時間と付き合うことになる。普通、一人の人間が何百時間と心を尽して付き合う存在となると、故郷や家族、親友くらいだ。例え架空の存在であれ、それを誰かに否定されるような心理的負担は計り知れない。素直に受け止めろとは到底言えないねぇ」
何百時間――俺はゼンメルワイスで過ごしたキュリアたちとの時間を思った。
小説としての実作業時間とすれば、たしかに数百時間かもしれない。だが、俺個人の感覚としては――いや、それは今は置いておこう。
「……しかし、それでいいんですか? いや、先生から見た今の私はそうした方が良いのかも知れませんが……書き手として、読み手の意見には受け入れるべきところが……」
「仮に私が君の小説を読んで面白くないと言ったとしよう。その「面白くない」という意見には、はたして正しさはあるのかね?」
「正しさ……?」
「君は私の言うままに、私が「面白い」と思う方向に変えたとする。では、変えたあとの小説が私以外の誰か二人に、「前の方が良かった」と言われた場合、私の意見は正しいのかね?」
糸井川はまず自分を指差し、「二人に」でピースサインを出しと、身振り手振りを交えて会話を進める。
「正しい」「正しくない」、およそ小説らしくない話に困惑し、俺は片手で頭を抱える。もう一度お茶をすすった糸井川は、とくに俺の答えは求めていなかったようで、困惑する俺をよそに講釈を続けた。
「読み方の問題、というものもある。最初から「評価してやろう」、「ダメなところを見つけてやろう」、そんな心構えで小説を読んだ場合、その視点や受け取り方は純粋な読者とはかけ離れたものになる。これはあくまでパフォーマーの演技に関する調査結果だが、「評価者」視点でものを見る人間が、誤った評価を下す確率は五割以上にも昇るらしい。評価者が面白いと言った演技がまるでウケず、面白くないと言った演技が絶賛される――またはその逆。その確率は、十分にものを知ったはずのプロからの評価であろうとも、素人と変わらんかったそうだ」
「は、はぁ……」
評価者視点による誤り――大賞よりも佳作が売れる……というアレだろうか?
「相手がどんな想いでそれを読んだかまでは普通知りようがないだろう? それに、人は「否定」の方を賢く感じる困った性質を持っている。何かに評価を下すとなると、意地でも一つくらいは悪いところを示さないと、自分が相手よりバカに思えてしまうんだ。そんな自己保身の入った高慢な評価なら、いちいち聞く必要はないだろう?」
ただの人生経験からくる老人の与太話ではない、なんらかの根拠を感じる話。
糸井川の職業を知っているだけに、「そういうものか」という思いにもなる。
「……読者の意見は、どうでもいいと?」
だがやはり、どこか納得はしかねた。
その発言を待っていたのかいなかったのか、糸井川は軽く笑みを浮かべ、首を横に振る。
「いや、どうでもよくはないな。読者の「面白い」という意見があり、「面白くない」という意見がある。どちらも立派な意見で、その人たちが感じたことだ。世の中、評論家やクレーマーの方が絶対的に少ないからな。特に作者が自分から評価を求めていない限り、そのほとんどは純粋な意見だろう。どちらの意見が本当に正しいかを測るには、サンプルが六百は必要というだけだ」
その言葉にほっとしつつ――そんな自分を意外に思った。
俺は自分が思っていたよりは読者のことを……いや、やめておこう、柄でもない。どの道、六百なんて感想は集まらん。
「……ただな」
ふっと糸井川が、湯飲みの水面を眺めるようにして言う。
「もし相手が、現在自分も書いているという人間なら、例えサンプルが一つでも聞くべきところは有り得る」
「……それは?」
「書き手と目線を同じくする人だからだよ。良い編集者は、皆この目線を保つ努力をしている。彼らの面白さを正確に見抜く確率は、評価者視点の人たちの二倍に達する。同じ道を歩む人たちこそが、最も正確な評価を下せる人たちなんだよ」
「同じ道を……」
――食事を済ませた俺は糸井川と別れ、家へと帰った。
糸井川との遭遇で気力と時間を削がれ、喫茶店へと向かうことはなかった。
――その夜。
風呂を上がった俺は、だだっ広いリビングのキッチンテーブルに座り、本を手に取っていた。
結局と自宅でのネタ出しも徒労に終わり、仕方無くと知識のインプットを試みる。読んでいるのは糸井川に薦められた、例の本だ。
聞いたこともない海外作家の書いたその分厚い一冊は、とりあえずは俺の求めていた体系的なものではあり、勉強になるというよりは純粋に興味をそそった。
序文から一章、二章と、時間をかけ、頭に刻み込むように読み進めていく――
「……!」
全体の三分の一、両手に掛かるページの重量がバランスを取り始めたあたりで、俺の手が止まった。
――『キャラクターアーク』
「キャラクター……アーク……? 人物の……軌跡……?」
聞き覚えのある、耳慣れない単語に身震いする。
――『冒険がなく緊張感もなく、アークが微動だにしない』
「あの女も……まさか……!」