8.メンター(前)
重い足取りで、俺は駅前までの坂道を下る。
目的地はあの喫茶店。とはいえあんなことのあとだ、いくら「現実」を軽視している俺でも、正直気が進むものではない。
「さすがに、犯罪者にはなれんからな……」
俺はともすれば行き先を変えてしまいそうな自分の足に、言い聞かせるように独り言を吐く。
昨日は結局、あの店にノートPCを置き去りにしてしまった。それだけになく、突然店を飛び出した俺は現在無銭飲食の状態だ。この「現実」の常識として、放置しておいていいことではない。
それにあり得る可能性として、あの女にコーヒー代を立て替えられていたとでもすれば、たまったものではない。
「くそ……」
気づけば俺は、もう駅前の雑踏の中にいた。あまりの気の重さに思考を巡らせ続けた結果だろう、喫茶店のある雑居ビルすら通り過ぎてしまっている。
己の失態に舌打ちし、まばらな人の流れに合わせて道を戻ろうとした時――普段立ち寄ることのない、大型書店が目に入った。
「……癪だな」
俺は人の流れに合わせ、その店へと足を運んだ。
無数に並ぶ本棚の列をぬっていく。
数階建ての書店はまさに大型というに相応しく、下層から上層まで、ありとあらゆる類いの書籍が売られている。どこもかしこも小綺麗で、図書館というよりはカフェのような趣すらもある。
本を読む人間は減り大型書店は苦戦していると聞くが、平日の昼間にもかかわらず客は多かった。まだまだ本屋と、そして紙の書籍というものには、一定の需要があるということなのかもしれない。
俺は店内のボードを参考に、上層にある専門書のエリアへと入った。
十分、十五分、目的の棚を求めて足を使い目を凝らすが、中々に辿りつけない。専門書には専門書であるのだろうが、俺にはその類いの本が、なんというジャンルに分けられているのかがわからなかった。
ようやくと見つけたその本たちは、これだけ広い書店の中、たった一つの棚、たった二段の枠を占めるに過ぎなかった。
――「ネコでもわかる! 小説の書き方入門」「恒常的ストーリーの組み立て方」「あえて素人が書く簡単小説講座」……
「書き方」本とでも言うべきだろうか、今までこういった本には頼ったことがない。
ネタさえあれば話は書けたし、正直そこまで真剣に文章に困ったこともなかった。シナリオは頭の中で自動的に組み上がり、人物たちはそれほど苦もなく動かすことができた。理由はわからないが、俺には以前から書く力が備わっていたものだと思っていた。その自信に翳りは感じない。
しかし――もっと力が欲しい。
俺はパラパラと、数少ない本たちを順にめくっていく。タイトルからしてくだらないものは最初からパスした。とにかく自らの血肉にできそうな、論理的かつ体系的な一冊を求めて次々と見比べていった。
だが、難航する。本屋がきっちりとジャンル分けできない理由もわからないではない。「書き方」と謳いながら、中身は作家の自叙伝でしかない本もあれば、怪しげなただの評論家が書いた本もある。比較的まともそうなシナリオ教本の大半は、小説ではなく映画向けの「脚本術」の場合が多い。
そろそろと徒労を感じ始めつつ、次の本に手を伸ばそうとした時――
「うむ、この辺りがオススメかな」
「……!」
真横からのしわがれた男の声に、俺は振り向かされる。
そこには『論理的ストーリー入門』と書かれた本を手にする、小太りな老人の姿があった。
小洒落たというにはほど遠い、旧世代の油の匂いがする定食屋。
俺は二人掛けのテーブル席に座り、老人と向かいあっていた。
「ずいぶんと久しぶりな感じがするね、その後はどうかな?」
「は、はぁ……まぁ、それなりに」
テーブルの上に置かれた二人分の豚カツ定食。おごられた俺の方は、あまり食がすすんでいなかった。
「では……まだ、何も?」
「はい……思い出せると……いいのですが……」
「無理はいかんよ。まずはそのままで、落ち着けることだ」
老人は俺のそれ以上の言葉を押しとどめるように、やんわりと言った。
――糸井川弘雄。
喫茶店とは別の、この辺りの雑居ビルに居を構える「糸井川クリニック」の院長だ。
最後に会ってから……もう一ヶ月以上にはなるか。
「私のところに来るのを強制することはできないが……これでも心配しているんでね。気が向いた時で構わないから、顔を見せてくれると助かる」
「え、えぇ……善処、します……」
相変わらず、一歩引いて顔や肩を中心に、全身を眺められているような視線は変わらない。
全てを見透かされているようなこの男との対面が、俺は苦手だった――
――約一年前。
俺は記憶を失った……らしい。
それは丁度前職を辞めたタイミングと同時期で、俺の手元には今の住居と、会社から振り込まれていた意味がわからないまでの退職金らしき金。そして、「四精マスター」を書いていたという記憶だけが残っていた。
頭部の障害もなく記憶喪失になった俺は糸井川にカウンセリングを受けることになり、糸井川は当時の俺の状況だけを頼りに、「過重労働による精神障害」と推察した。
その後も俺の記憶は悪くなり続け、安定したのはこの数ヶ月。それまでの記憶はこの糸井川との出会いの辺りも含め、あやふやなものになってしまっている。
だから、らしいだ。正確にいつから記憶が失われ始めたのか、どこまで失われているのかが俺にはわからない。
問題は問題のままだが、決して糸井川のカウンセリングに全く効果がなかったわけではない。今では以前いたオフィスや、会社に通いながら小説を書いていた頃など、おぼろげで断片的な映像ならば思い浮かべられるようになった。
しかし……それらは思い出そうとすればするほどに、えもいわれぬ恐怖感や不安感を伴う――
俺のこの、理屈や論理だけでは自身にさえ説明できない「現実」への嫌悪感も……それも同じく、“えもいわれぬ”ものだ。
総合的に考えれば、「前職によるなんらかの精神負荷」という糸井川の見方は正しいのかもしれない。
俺はきっと何かを――思い出したくないのだろう。
「一つ、聞かせてくれるかい? まさかまだ、就職はしとらんだろうね?」
「まだです。まだ……探しても……」
「ならいい。いざしようって時だけは、もう一度私の所へ来てくれ」
「八代」としての記憶の中にある最も古い知り合いにして、俺に最善を尽くそうとしてくれた人物。
この世で唯一頭の上がらない人物を前に、俺は話題に困り果てていた。