6.敵
ダンッと派手な音が目の前に弾け、光が走ったような錯覚に襲われる。
「いったいどうしてしまったんだ!」
女の白い手が、テーブルを強かに叩きつけていた。
「……? ど、どうした……?」
俺はなぜか庇えていたアイスコーヒーを両手に身を逸らす。そんな俺に対して、胸ぐらでも掴まん限りの勢いで女の顔が迫る。
「どうしたもこうしたもない! キミはいったい何を考えてるんだ!」
「……!? ……?」
唐突にぶつけられた怒鳴り声と剣幕に、ただただ身が強ばった。予兆無しに落下した稲光にさらされたようで、俺の目は女の顔を捉えたまま、思考は空転を繰り返すのみ。
女の眉根が険しく狭まる。
「読んでる人たちがどうの以前の問題だよっ……! キミはキミの作品を――」
「はいはい、お客さん。どーどーどーどー」
そこまで言ったところで、女の顔が体ごと俺を離れる。
塞がれていた視界が広がると、背後から女の両肩を掴んで引き離す文菜の姿があった。女の顔からはたと怒りの色が消え、その体が俺に背を向ける。
「……っ、す、すみません……!」
深々と文菜に向けて、頭が下げられた。
「やっしー、知り合いの子?」
ひょいと女の背から体を横に曲げ、尋ねてくる文菜。その顔は平静そのもので、俺を不安にさせた。
「……いや、昨日ここで顔をあわせたが……知らないやつだ」
初めて見る文菜の客商売人らしい冷たい圧力に、ありのままを答えると……
「ふ~ん?」
その口元がふにゃりとにやけた。俺は一つ、息を吐く。
「知らんものは知らん。……っていうか、お前……度胸あるな」
緊張の抜けを察したのか、文菜はふぃっと笑う。ちらりと視線を女に送ると、その睨み付ける目はまだ解かれていなかった。
「おいおい、揉め事かい? 面倒なら外でやってくれないか?」
娘である従業員に遅れ、店主の輝男がやってきた。今度は声には出さなかったが、女は店主に対しても深々とお辞儀を垂れる。文菜が自身より少し高い、女の肩に手を置いた。
「あー、いーよ、お父さん。悪い子じゃなさそうだし、こっちで話つけとく」
「はぁ……ま、お前がそう言うなら」
女の謝罪に常識を見たのか娘を信用しているのか、店主はそれ以上は何も言わず、カウンターへと戻っていった。
それを完全に見送ったタイミングで、「にしし」と声を漏らし俺を振り返る文菜――
してやったりといったその表情に、俺は思いっきり不機嫌な顔で応えるよりなかった。
「で、なんでこうなる」
先ほどまでと変わらず、鏡張りの壁際の席に座る俺。しかしその真正面には、今はあの女が座っている。
テーブルの上、俺のノートPCは姿を消し、代わりにアイスコーヒーが三つそびえ立っていた。
「だってさ、女の子があんなに叫ぶんだよ? なんかやったんでしょ、やっしー」
そして俺と女で向かい合うその横には、文菜が座っていた。
なにかやったかと言われてもな……
「……覚えはない」
「ほんとに? 覚えはなくても相手は覚えてるもんだよ? フミーはイケメンの顔なら絶対忘れませんっ」
「やっしー……?」
作ったような若干のオーバーアクションでのたまう文菜の言葉の切れ目から、ぼそりと女が呟いた。
「……八代だ。「もり」と書く方じゃない。「はち」に「だい」だ」
「なるほど……」
相変わらず機嫌は悪そうだったが、先ほどまでではない。
こうして冷静に見れば、男っぽくも見える恰好のわりには線の細い女だ。改まって比較的大柄な俺と向き合うには、多少怖じ気づくところもあるのだろう。今は微妙に視線を逸らし続け、俺と目を合わせようとはしない。
面倒には思うが文菜という第三者の目もある。こちらが冷静に振る舞えば、突然激昂するような真似はし辛いだろう。
「……」
悪趣味な好奇の目を配る文菜を横に、不機嫌を露わに黙する女を前に、俺は思考を組み立てる。
この女が何者で、俺の何がそんなに気に障ったのか――そんなことはどうでもいい。今求められるのは、こんな「現実」の茶番はさっさと終わらせ、不要な脇役にはご退場願うこと、それだけだ。
現状、どう見てもいきなり喧嘩をふっかけられた俺が被害者で、向こうにはその負い目がある有利な形。ならばまずは被害者らしく、聞く権利を利用させてもらうか。
何を語ろうとどうせ関わりのない相手からの言いがかりだ、俺に落ち度など……あろうはずがない。全て突っぱね自らの非を重ねて認めさせてやれば、なんであれ尻尾を巻いて帰るより他なくなるだろう。再び激昂するようであれば尚のこと良し、そうなればあとは店側が処理してくれるはずだ。
さて――
「それで……君はなんだ? 俺の敵なのか?」
「てき?」
文菜がぽかんと、アホみたいな顔を向けた。
……言葉を換えよう。
「……俺に何か言いたいことでもあるのか?」
俺の寄り道なしで本題を詰める問いかけに、女の眼光が鋭くなる。
心を落ち着かせようとしたのかアイスコーヒーを口に含むが、その手が若干震えていた。コップを置き、小さく呼吸した女が、そっぽを向いて口を開く。
「キミの作品が酷すぎるから、文句を言いたくなっただけだよ」
冷たい怒気を孕んだその声に、俺の身が前に乗り出しそうになった。「なんだと?」という脊髄反射的な台詞が喉まで出かかり、なんとか踏みとどまる。
「……俺の作品が酷い? 何を言っている」
そっぽを向いたままのキャップの下、女の瞳だけが俺へと動く。
「最初から酷いよキミの作品は、でも今はもう最悪だ。看過できるレベルじゃない」
「む……」
「え? 作品って……やっしーって無職じゃなかったの?」
俺が軽く拳を握り込んだところで、文菜から声があがった。女が姿勢を正し、文菜へと顔を向けた。
「……WEB小説。今は個人がネットを使って作品を発表できる時代なんです」
「あ、そかそか! ひょっとして小説投稿サイトってやつ!?」
「ええ、そうです」
こいつ……余計なことを。
そう思ったと同時、カウンターから店主が身を乗り出した。
「ほ~、そんなのがあるのか……しかしそいつは投稿っつーからには素人が書いたもんなんだろ? そんなの読んでくれるやつっているのかい?」
面倒なことに聞いていやがったらしい。店主が会話に混じってきた。
「書き手によってはですが……有名人のブログの数百倍、数千倍と読まれる人もいます。そこから大ヒット作が生まれることも多く、出版社も見逃せないメディアになっていますよ」
「ほぇ~」と、親子が間抜けな声を上げた。
一般には信じられない話かもしれない。だが、女が言ったことは事実だ。「りらい」というページ全体にしても、世界クラスのアクセス数を誇る。「世界クラス」というのは、大手動画投稿サイトやSNS、検索サイトすらも含めてだ。そんなサイトの上位作品ともなれば、読まれる量は言わずもがなだろう。
だが……
「そんなことはどうでもいい、俺の小説が最悪だと?」
そうだ、ふざけるな。つまらない横やりにさらりと流されてたまるか。
「俺にも言われて許せんことがある。事と次第によっては若い女だろうと――」
「ねぇねぇ、じゃあこのスマホでやっしーの小説読めちゃう?」
「あ、はい」
俺の言葉など耳に届かず、己の興味のままに動き始める文菜。
渡されたスマートフォンを、まるで自分のもののように鮮やかに操作する女――
「……ってコラ貴様っ!」
まずい……! あまりにもまずい!
全身が浮立つような焦りの中、スマートフォンを奪い取ろうと動いたその瞬間――
女が、席を立った。
「……ボクは今、WEB作家にとって一番最低なことをしようとしている」
「……は?」
俺の手を逃れた女が、詩でも読むような口上を始め、俺の時が止まる。
「でもキミは、自分の最悪さに自覚が無いようだし、何よりボクは怒っているからね、やらせてもらう」
「……なんだと?」
そして、女が……
「はい、これ」
文菜の手元へと、スマートフォンを返す。「寸断の四精マスター」の表示されたそれを、文菜へと返す。
文菜が、受け取る。
「…………!」
数秒後――(多分)
「ぶわはははははははははは! ひどい! こりゃひどーい! あはははははー!」
文菜が笑い、テーブルに突っ伏した。
「うぶ、くはははっ、ひぃ……! げほっ、うぶ……! うあはははっ……!」
窒息しかねない勢いで、心配にも……ならない。俺はそれどころではない。
「や、やっしーったら……イケメンなのに、ぶぅへっ! オタクだったのかな~?」
「ぐ、ぐぬぬ……」
「おぉ? オタクぅ……?」
娘の狂態に呆れ顔を向けていた店主が俺の顔を見てくる。突っ伏していた文菜が、目を輝かせてがばりと起き上がった。
「パパー、見て見てこれー!」
「ヤメロッ!」
その動きを阻止しようと試みるが、文菜を追って立ち上がった俺の手は、宙を軽く泳いだだけだった。奮闘虚しくすらもなく、凶器は全くそういったものへの理解が無さそうな白髪親父へと届けられる。
店主、閲覧。女はいつの間にか席に着き、アイスコーヒーを飲んでいた。
「……こりゃひでぇ」
店主が首を振った。
「やっしー……俺が探してやるから、中小でもいいから就職しようぜ? な?」
「やかましいっ!」
優しい笑顔を向ける輝男に吼え、こんな状況を生み出した癖に、ストローをちゅうちゅうやっている元凶に俺は指を突き付ける。
「なんなんだ貴様はっ! やっていいことと悪いことの区別もつかないお子様かっ!」
「ぶはっ……! それでなんだかたまに言葉遣いも……!」
文菜の茶々に俺の勢いが削がれ、突き付けた指がくにゃりと曲がった。
「……お前こんなことして楽しいかっ! 俺になんの恨みが――」
「恨み……?」
低く呟いた女が、俺に目を向ける。俺の怒りに対し、真っ向から怒りで押し込むような威圧感のある瞳。そして――
「ボクよりも、シュウセイやキュリアたちの方がキミを恨んでるんじゃないかな?」
「なっ……」
その一言が、俺の怒りを押し切る。
「ゲームっぽい、オタクっぽい世界観だからなんて理由でボクは作品を責めたりなんてしない。小説としてのキミの作品が酷すぎるから責めているんだ。いい加減な作者が創った、どうしようもない作品の中で生きる。そんなんじゃ彼らが可哀相だって思わないのか?」
こいつ……まさか……いや、そんなはずはない。
「ぐ……言わせておけば……! 貴様に俺の作品の何が――」
「だから……ボクがキミに教えてやる」
「なに……?」
女は一度目を閉じると、体ごと俺を見据えて言う。
「ボクが教えてあげるから、もっとちゃんと書くんだ!」
「何様だ!」
反射的に俺は叫んでいた。
いったいなんだこの女は……! 完全に上から目線、たまに感想にやってくる荒らしの連中よりもタチが悪い。これでも俺は、もう二年近くは書いているはずなんだぞ。
どれくらい俺の作品を読んでいるのかは知らないが、なんで一読者の、こんな明らかに歳下の女にいいように言われなきゃならない……!
「ねぇねぇ、具体的にはどこが酷いのかしらん?」
と、俺が噴き上がる怒りに頭を熱くしていると、女の脇からするりと文菜が現れ、スマートフォンの画面を女に差し向けていた。
「む……」
なんで割り込んでくるんだこの給仕は……
だが……からかい半分だろうと、その質問は悪くない。
「そうですね……」
並ぶようにしてスマートフォンを見せられていた女が、それは必要ないとばかりに画面を手のひらで押す。
いいだろう、聞いてやる。そんな面持ちで、俺は平静を取り繕って女に顔を向け――
「まず、風景描写が細かすぎる。一度に出すから長すぎて憶えられないし退屈だ。物語の構成を考えていない。考えていないから伏線もない。コンセプトもテーマも見えない。話にまとまりを感じない」
「な……ぐ……が……」
顎を落とした。
「形容詞が多すぎる。副詞もだ。誤字脱字ではなく言葉そのものを間違えて憶えている所が多い。重複表現も多い。文章のリズムが悪くて読んでいて頭に入らない。分かりづらい漢字が意味もなく多い。セリフまわしが説明的で物語に入り込めない」
淀みなく、言葉が流れていく。「はー」「ふぁー」と、親子の声が漏れた。
「設定が甘い。世界観がいびつだ。人物のバックボーンに後付けを感じる。性格付けが安直な上に魅力を活かしきれていない。揃えるべきワードすら不揃いになっている。見せ場の無い人物がいる。冒険がなく緊張感もなく、アークが微動だにしない。それから――」
俺の全身が、洪水か津波にでも打たれたように震え――
「う……げが……ヴアアアッ……!」
――気づいた時には俺は、街中を走っていた。何かわめいたような気がするが、憶えていない。
「やっしー! パソコーン!」という声が追いかけてきたことは、なんとなく憶えている……