3.夢≠夢
「くそ……」
水滴の浮かぶ浴室の白い天井を見上げ、独り悪態をつく。
何の因果が悪さをしたのか、今日は全く納得のいかない一日だった。
横断歩道では見ず知らずの連中からの不必要な声に接触され、喫茶店では全く不必要な説教にさらされた。
その上、普段なら誰もいないはずのカウンターには妙な客……「いつものあの場所」という雰囲気を壊してしまうような、場にそぐわない若い女がいた。
無論、理解はしている。創作には刺激が必要だ。
日常に変化があり、見知らぬものに目を触れてこそ湧く閃きというものがある。しかし、俺はあの場所にそんなものは一切求めていない。俺が求めるはゆったりとした考える時間。俺に直接関係のない、脳を刺激する適度なノイズ。それだけだ。
端的に言って、今日は全くはかどらなかった。
「ネバーノーツ」の箇条書きに、二、三の新しいアイデアを加える。たったそれだけの目的すらも果たすことは出来なかった。
「そんなに俺が滑稽か……?」
あの一件――文菜という給仕が余計な一言を発し、客の女と目を合わせてからだ。俺はただの一度も満足な集中に浸ることが出来なかった。ちらちらと、ちらちらと視界の隅から感じる視線。いくら鈍くても気づかざるを得ないほどの頻度で送られてくるあの女からの視線が、俺を何度となく創作の世界から引き摺り戻した。
平日の昼間から喫茶店にいる男がそんなに面白いというのか? いい歳をして小説を書いているという人間がそんなに珍妙なのか? その意図するところはわからない。
正直文句の一つも言ってやろうと思ったが、それをするわけにはいかなかった。
相手は所詮一見だろう若い女。そんなものを相手に一悶着起こし、あの創作に適した場所を失うのは割りに合わない。結局俺は、早々に立ち去るより他になかった。
いったい何が今日の日にこんな結果を生んだのだろうか。止まった腕時計の秒針、そんな弱い伏線だけでは納得がいかない。
歪む口の端を感じながら見上げる天井から、つるりと雫が壁を這う。気分を落ち着けるために入れた入浴剤。濁った紫の湯船とその匂いには、今の俺を沈める効果は感じられなかった。
「やはり現実は……駄作だな」
リビングの隅、座卓に着いた俺はPCを起動させる。
マンションのベランダの向こうはすでに暗く、窓ガラスには天井のLEDが丸く映っていた。
「八時前か……遅くなってしまったな」
PCの表示で合わせた腕時計を座卓の隅に置き、俺は早速と作業に取りかかることにする。
文書ソフトを起ち上げてファイルを読み込み、表示されたテキストを確認。すでに何度も読み返した文章を精読し、最後の推敲を行う。
「ん……? あ……」
カタカタと、ペン立て付きのメカニカルキーボードを操作し、しぶとく残っていた誤字を修正。微妙に気になっていたしっくりと来ない表現を、違う文に置き換えてみる。
正解を求め飽きることなく繰り返し、飽きることなく繰り返しても仕上がりの保証されない作業。妥協と追求の程よいバランスは今だわからず、時に終着は暗礁に乗り上げ、不明となることもある。
幸いにして、この日の作業はわずか十数分にて終わりを迎えることが出来た。
「よし。さて……」
座椅子にもたれ、ひとまずの安堵を得た俺はすぐさまにブラウザを起動させた。
最早ブックマーク機能を使う必要もなく、そのサイトへのリンクはブラウザのトップに表示される。
――「RE=WRITER'S」
アカウント登録者数百万人超にして、世界でも十指に入るアクセス数を誇る国内最大手小説投稿サイトだ。
今や乱立する小説投稿サイトの先駆けであり、今だ揺るがない頂点でもある化け物サイト。読みたいだけの人間と、書きたいだけの人間。プロになりたい人間もいれば、ただ他人をこき下ろしたいだけの輩もいる。そこを利用する者たちの思惑は様々で、個々の関わりは濃厚にして刹那的。
俗称「りらい」とも呼ばれるそんなサイトに、俺はもう二年も通い詰めている。
――『夢を追っかけるのもいいが、前の経歴を活かせるうちにだな……』
昼間に喫茶店で聞かされた、店主の説教が脳裏を過ぎる。
「はっ……夢ね」
俺はサイトをクリックし、作業を始めた。
文書ソフトからテキストをコピーし、サイトに貼り付ける。サイトより最後の確認を促され、更新ボタンを押すと、「ビーン」と聞き慣れた低い金属音が鳴った。
「……夢ならもう叶ってるさ、「現実」め」
マウスを操作し、自らのログイン名「社宗子」のページを確認する。
今投稿したばかりの最新話は、間違いなくサイトに埋め込まれていた。
「これでよし」
今日やるべきことはこれで終い。
俺はその後数時間を、いくつかの継続して読んでいる作品の閲覧と、つい長く放置してしまっていた読者からの感想の返信に充てることにした。
時に過ぎるのは、今日の喫茶店での出来事。
つくづくと、つくづくと「現実」に縛られる連中は面倒くさい場所に生きていると思う。
見ず知らずの人間に挨拶だの説教だの、いったいなんの伏線として行うというのか。喫茶店の連中にしろあの女にしろ、めざしてもいないが、「小説家」になろうなどと考える人間はそれほどに珍しいものなのだろうか。
やはり集中を阻害する客がいる時は喫茶店を避けるべきか……と、そんなことを考え始めた頃、瞼と全身に、程よい疲労感が入り始めていた。
「頃合いか」
俺はPCの電源を落とし、立ち上がってキッチンに入る。パッションフラワーのカプセルを水で飲むと、リビングを消灯させた。壁掛け時計の針は、二十三時を示している。少々早いが、この疲労感ならば無理はないだろう。
そうして俺は、自然と緩む口元を感じながら、寝室へのドアを開いた――
――閉じた瞼に明るみが差す。体には、暑さ。
決して不快ではないその暑さは体の正面だけに感じ、背面には硬さと若干の痺れるような感覚。
「ん……」
目元を襲う眩しさに呻きつつ、記憶の混濁と戦う。
昨夜は何をしていた、寝室には戻ったか――戦いはわずか数秒で征され、俺は正気を取り戻した。
ゆっくりと顔を上げ、目を開ける。
瞳に映るは、青空を背景にそびえる石畳の街。スクエアとグレーばかりではない、見目楽しい建築物が遠目にある。背中に感じる硬さは、右の手のひらに感じるものと同じ、木の感触。耳に聞こえる流れる水の音は――見なくともわかる、背後にある噴水の音だ。
「……眠ってしまっていたか」
――俺は正気を取り戻した。
寝ぼけてなどいない、全て記憶の通りだ。俺は『ベッド』ではなく、『ベンチ』で眠ったのだから。
全てを理解した俺の首が、左側を向く。先ほどから感じていた、肩に感じる重み――
そこには俺の良く知る、青い髪の少女の寝顔があった。