2.オープニング
薄いスーツの上着にこもった暑気を、草木の甘ったるさを含んだ風がさらっていく。
古くからあるだろう戸建て住宅の並ぶ坂道を下っていくと、長く伸びるアスファルトの向こうに、雑居ビルの群れが見えた。
そこだけモダンな作りの駅前には、そこだけモダンな町の風景が成り立つ。中途半端な田舎では、どこでも見られるその光景。いつもよりやけに白く見えるビル群が、初夏の訪れを感じさせていた。
脇をすり抜けていく車の数々を見送りつつ、俺は出来うる限り頭から思考を手放す。ただ目的地を目指す――この無駄な時間に、思考を割く意味は無い。動き続けている脳を休めること、それに専念する。
いつもの通りそうしていれば今日もいつもの通り、こうして俺は、雑居ビル群の中にいるのだから。
自宅を出て、歩いて約十分。俺は目指す目的地のある通りで、最後の横断歩道の前、信号の変わりを待つ。
「……?」
信号の向こう側、ランドセルを背負った集団が群れていた。
違和感に左腕を持ち上げた俺は、時計の黒い盤面を見る。時刻は十三時半を示しているが、秒針が動いていなかった。なるほどなと、一応の納得を得たところで信号が青を示した。
俺は歩み出し、同時に歩み出したランドセルの集団と交差する。
「こんにちは」「こんにちは」「さようなら」
腰より下を、連中が過ぎ去っていく。俺は目を合わすことなく歩道を渡りきると――
「……ちっ」
舌打ち一つ、目的地へと足を向けた。
カラコロと鳴子の響くガラス戸を引くと、馴染みの風景が広がる。
古めかしい木製のL字カウンターに、同じく木製の丸テーブル席が四つ。見るからに田舎町の喫茶店といった風情がそこにあった。
店内に踏み入る俺に、いつもの声がかかる。
「いらっしゃいませー!」
「おお、らっしゃい」
綠のエプロンを着けた給仕と、カウンターの奥にいる白髪頭だ。
俺は軽く手を挙げると一番奥のテーブル席、店内が広く見えるようにとの無駄な努力を感じる、鏡張りの壁際の席へと座った。
予定通り、普段通り。座り心地の良い椅子に体を緩めた俺の視界に、綠のエプロンが近づく。
「今日はちょっと遅かったね、やっしー。どこかお外でご飯食べて来た?」
「いや」
綠のエプロンは活発そうな髪を揺らし、俺のテーブルにおしぼりと氷水を置く。
「やっしーは今日もパソコン? 今日もアイスコーヒーでいいのかな?」
「ああ」とうなずいた俺の前で、サラサラと帳面に書き込みを入れた綠のエプロンが踵を返す。慣れたものだなと、俺は綠のエプロンと、俺自身に思った。
あの綠のエプロン――給仕の名前は、俺の記憶が確かならば、南の波に、文章の文、山菜の菜で、『南波文菜』という。店主である白髪頭のテルオ、輝く男と書いて輝男の娘でもある。
この店を使うようになって数ヶ月だが……おそらく間違ってはいないはずだ。
そして――
「『今日』を連続で使うとは、語彙が知れるな」
俺が抱く感想はそんなところだ。止まってしまった腕時計の秒針、多少遅れてしまった時間と同程度にどうでもいい。憶えておいて役に立つのは名前くらいだ。
俺は意識を切り替え、テーブルの上に乗ったグラスを隅に押しやると、持ってきた鞄の中から重量のある物体を引っ張り出す。二つ折りのそいつを開き、電源ボタンを押すと、内部からの送風と共に駆動音を聞かせるそいつの起動を待った。
ほどなく二つ折りの上部、暗い店内ではやけに明るく見える「モニタ」には――
――『YASHIRO』
俺の名字である八代のアルファベット表記が並び、ログイン画面が表示される。
あとは指が勝手になぞる行程だ。SSDを搭載したノートPCは、ログインパスワードの認証から主要ソフトを呼び起こすまで、俺の操作に一切の遅れを見せない。
俺はタッチパッドの操作とクリックを二、三。クラウドソフト「ネバーノーツ」を起ち上げると腕を組む。そしてそのまま、表示された箇条書きの文書を前に一行一行と、文字を頭に落としていく――
「はいおまたせー、アイスコーヒーでーす」
「っ……来たか」
黒を湛えた細長いグラスがカラリと音を立て、テーブルの上に現れた。
俺は「入りこみ」そうになっていた頭を、なんとか引き戻す。知らぬ間に忍び寄っていた綠のエプロン――文菜を見ると、そいつは怪訝そうとも不思議そうともとれる表情で小首を傾げていた。
「最近やっしーよく来るね。煮詰まっちゃった?」
「……気分転換だ。俺に煮詰まるなどということはない」
「へ~?」
「なんだ?」
「べつに? 今日はお静かにね」
そう言って空中で両手の指をわちゃわちゃと動かして見せ、騒々しい給仕は席を離れていく。
失礼なやつだと思いつつも、普段よりやけにあっさり引き下がったことが気になり、俺の目はその背中を追っていた。下がっていく文菜に釣られて動いた視線の先、カウンター席には、スマホを持った若い女の姿があった。
一見だろうか? 店内だというのに後ろで結った髪にキャップを被ったその女は、見た目の歳から言っても、こんな場所に一人で来るようなタイプには思えない。
「よぉ、やっしー」
耳朶を打つ濁った低音に、俺は女から目を横にずらす。
カウンターの向こうから、肘を着いた店主が軽く手を挙げていた。
「うちのアイスコーヒーは美味いかい?」
俺はちらりと、まだ手をつけていないグラスを見る。
「……冷たさで頭が冴える」
「いい切り返しするねぇ……」
やられたとばかりに額に手を当てる店主に、カウンターの女がくすりと笑った。
俺は舌打ちを堪えてコーヒーを喉に流し込むと、視線をモニタに戻した。
「やっしーさぁ、いつも来るのはピーク過ぎた時間だし、誰か来たら来たでさっさと帰ってくれるし、コーヒー一杯でいくら粘ってくれてもかまわんけどさ――」
すでにそちらを向いていないというのに、店主は話しかけてくる。その諭すような口調に、俺は「またか」と面倒を予感した。
「こんな所に通ってていいのかい? いくら元エリート営業マンっつったって、あんまり長く空白作っちまうもんじゃ……」
何度か聞いた説教に、何度か返した答えで対応する。
「金ならいくらでもある。ここのアイスコーヒー程度では揺るがん」
「って言ってももう失業保険も終わってるんだろ? 夢を追っかけるのもいいが、前の経歴を活かせるうちにだな……」
“夢を追いかける”、そのフレーズを鼻で笑い、俺は頭から店主を追い出すことにした。まともに取り合う意味は無い、放っておけば勝手に仕事に戻るだろう。そう考えた矢先、カウンター奥から声が上がる。
「お父さん! またおせっかい」
文菜だ。
「でもなぁ……いい若いのが勿体ねぇだろ? お前の幼なじみみたいに、あとになって焦るようじゃ可哀相だし……」
「眞ちゃんと比べる意味ないでしょ。やっしーなら大丈夫だって、スーツめっさ似合うし超イケメンだし」
「んなもん理由に……なるのかなぁ……」
娘には弱いのか、店主が押されている様子がうかがえる。俺は会話の騒音から、モニタへと意識を集中させ始め――
「いいじゃん、何書いてんのかわかんないけどさ。超高学歴でむっちゃくちゃ頭いいんだから、ほんとに小説家にだってなれるかもだよ?」
――その一言に、目元を険しくカウンターへと向いた。
単にうるさいということと、軽率が過ぎる発言に一言くれてやろうと。
「……!」
しかし、俺が目を合わせたのは店主でも文菜でもなく――目を丸くしてこちらを見ている、客の女だった。
別段、他意はなかった。他意はなかったが、こちらを向いている、ただそれだけの理由が俺の目を引いた。
女は気まずそうにプイと視線を逸らすと、誤魔化すようにグラスに口を付ける。店主と文菜は、もう俺の話題に飽きたのか店の用事に戻っていた。
俺はモニタに向き直り、コーヒーを飲み、氷を口に含んだ。