14.俺たちの世界
ただの広い空間でしかなかったリビングに、折りたたみ式のローテーブルとそれを挟むクッションが生まれた。
リビング隅の座卓式パソコンデスク。そいつの横には新たにプリンターが備えられ、デジタル文書をアナログにする日々を送っている。
「うん、これならいいかな」
テーブル対面で、印刷された文章を手にするミクマが呟いた。
「……と、いうことは?」
期待を込め、俺は問う。
「いいよ、これで次回更新して」
ガッツポーズを取りかけた腕を拳を握るだけにとどめ、俺は息を吐く。
「やっとか……」
――ミクマの指導が始まり、十日の時が流れていた。
小説世界の方はミクマを喫茶店で待ち始めた時点で「りらい」投稿分に追いついてしまい、キュリアたちとはもう二週間近くも会えていない。この更新許可こそは、俺が長く待ち望んだ瞬間だった。
「はじめにプロットも用意してないって聞かされた時はどうしようかと思ったけど、この短期間によくこれだけ組み上げたもんだよ」
「お前の教え方が良かっただけだ……これまでも何度か学ぼうと考えたことはあるが、プロットにここまで意味を感じたことはなかった」
「今日は素直だね、八代さん」
「……疲れているだけだ」
実際の疲れに任せて低く言ってやると、ミクマはくすりと笑った。
この十日間、なんだかんだと言い合いも多かった気がする。たしかに今の俺の口ぶりは、素直と言えば素直だったのかもしれない。
先人たちの理論に基づいた手順を踏み、指導添削を乗り越え完成にこぎつける。初めて小説に真剣に向き合った、そんな感覚――充実感と言っていいのだろうか? その痺れるようなあたたかさに、俺は包まれていた。
キュリアたちは喜んでくれるだろうか……今までよりは、遙かにマシな台本だ。
しかしまだ、心にひっかかるものはある――
「なぁ、ミクマ」
更新分の原稿をテーブルに置き、今は別の紙を見ていたミクマがこちらに目を向ける。
そう、ひっかかるのはそちらの紙だ。
「今更無しと言われても困るが……本当に次回分を更新してもいいのか?」
「え? どうして?」
「前にも聞いたが、俺はまだプロットを最後まで書き終わっていない。そんな状態で次回だなんて……」
今ミクマが手にしている紙は、十日前から今までの大半をかけ、俺が必死になって組み上げたプロットを印刷したものだった。
プロットとは物語の設計図。ただの青写真として扱う者もいれば、屋台骨、大黒柱として扱う者もいる。ミクマがどちらのタイプかはっきりと口にされたわけではないが、用意がなかったことに呆れ、一から書かせたことを考えると前者とは思えない。
てっきりと俺は最後の最後、最終回までを組まされると思っていた。しかしミクマは今のパート、「風の章」が幕となる所までを作らせた時点で今回の原稿を催促した。
その理由ははぐらかされ、聞かされることはなかった。
とはいえ俺の方も、早く小説世界に戻りたいという誘惑に負けて、これまでは深く追及しなかったわけだが……
「ああ……それか」
聞かれたミクマは、そういうこともあったかという程度の軽い空気感で答える。
「本来なら、やっぱり最後まで決めてから動いて欲しいんだけどね。八代さんなら大丈夫かなって思ったんだ」
「俺なら……?」
小首を傾げる俺に、ミクマはプロットをテーブルに投げ出し、一つ伸びをした。
そのまま両手を後ろに体勢を崩し、緩い笑みを俺に向けてくる。
「こうして顔をつきあわせて、何度かプロットをやりとりしてわかった。というか、再確認したっていうのかな? 八代さんって『パンツァー』の素質があるんだよ」
聞き慣れない単語。戦車っぽいものしか思いつかなかった俺に出来る返答は、オウム返しくらいだ。
「『パンツァー』? どういう意味だ?」
「“即興で書く人”って意味。あれこれ用意せずに書き始めることをパンツィングって言うんだけど、それでお話をちゃんと書けちゃう人」
「……馬鹿にされているのか? 俺は」
「しちゃう人もいる。でも立派な才能だし、面白い物語がどうして面白いか、それがわかっていないとできないことなんだ。だから「四精マスター」は、これまでプロットなんてなくても面白かったんだろうね」
俺の頭が一瞬、ぽっかりと穴を空けられたようになる。
「きょとん」。この間抜けな単語がここまで自分にハマる日が来るとは――
「……面白……い? お前……これまでさんざん扱き下ろしたくせに……」
「面白いよ? 面白くなかったらこんな指導なんてするわけないじゃない」
「む……」
からっぽになった頭と裏腹に、胸元から熱い震えが込み上げる。ミクマの顔がふにゃりと歪んだ。
「あ~、なに赤くなってるの~?」
「く……」
「わぁー、八代さんでも照れたりするんだぁ~」
「うるさいな……!」
たまに誉めたかと思えばすぐこれだ。俺はいちいち動揺する自分に嫌になりながら、そっぽを向く。
それ以上のからかいには付き合わんという仕草のつもりだったが、ミクマからの追撃は特になく、代わりに――
「……でも、本当に面白いんだ。「四精マスター」は」
独白にも似た、儚い声色が広いリビングを占める。
「……だからこそ、ここ数ヶ月のことは許せなかった。火が消えたっていうのかな……まだ全然エンディングじゃないはずなのに、エピローグとその後日譚が流れている。そんな感じ」
犯してきた怠惰の後ろめたさが、罪を見抜かれたような冷たさが――背筋を走る。
「許せなかったんだよ。行き当たりばったりでご都合主義なのはこれまでもあったけど……そんな問題じゃなかった。世界を救おうって気概のなくなったシュウセイを見るのも嫌だったし、何より倒れてしまったストークを、前に進まない言い訳に使っているみたいで気持ち悪かった」
「……!」
冷たくなった背筋に、焼けたナイフを差し込まれたようだった――
「……すまない」
口を吐いて出た謝罪は、誰に対してのものだっただろうか……
視線を上げきれない俺に、ミクマが首を振った。
「ううん、こっちこそ、ごめん」
「……?」
ミクマはクッションに座り直すと、俺に同調するような、うつむいた仕草を見せた。
「……あの日ね、八代さんが喫茶店に来る前……親とケンカしてたんだ」
「親……?」
――『でももう……筆を折らなきゃいけないんです。その続きが書かれることも、誰かが読むことも……もう……』
「美希から聞いてるんだよね?」
「あ、ああ……」
丁度、俺の頭の中には、カミキの言葉が過ぎっていた。
「……私の親は厳しい人で、二人とも私が作家になる――なってるんだけど、それを続けることを嫌がってるんだ」
一人称が「ボク」じゃなかった。たったそれだけのことが、俺の意識を引き寄せる。
「親に内緒のはずで一冊目を出してから……これまで何度となく邪魔はあった。でも直接出版社の方に打ち切りを申し出てたなんて知らなくてさ、それをあの日、初めて編集さんから聞かされて……それで頭に血が昇って、ケンカ」
「現実」の他人事。しかし、俺の眉根には力みが入った。
「……お前の親はどうしてそこまで?」
「さぁ……どうしてなんだろう。私のためか、自分たちのためか……あんまり考えたくないかな……」
作家の端くれでなくともわかる。ミクマはその理由を理解できているのだろう。
「それでね……つい、八代さんにあたっちゃったんだ。ケンカでむしゃくしゃしてたのと、「四精マスター」が自分の面白いと思う展開になってくれないのと、その作者に出会えたことと、八代さんへの羨ましさなんかがマゼコゼになっちゃって……気づいたら爆発してた」
「……そいつは勝手なことだな」
「そうだね、ごめん……」
いくら小説の腕に自信があろうとも、いくら相手が不甲斐なかったとしても……「現実」の人間は、普通あんなことはしない。
出会いこそ散々な形ではあったが、一緒に過ごしてきた今ならばわかる。ミクマはあくまで常識的な「現実」の人間だ。少なくとも、中途半端な記憶だけで生きている俺よりはまともな人間だろう。常識的な人間の異常な行動には、やはり理由や状況が必要なのだ。
この十日間、なんだかんだで俺の家に通い続けたミクマの指導は、間違い無く本気のものだったと思う。それはひょっとすると、コイツなりの罪滅ぼしのつもりであったのかもしれない。
「それで……ミクマ?」
「……うん?」
外はもう暗い。今日の指導はもう潮時。
次回更新許可という、一区切りを迎えてもう終わり。
テーブルに置かれたプロットを眺めつつも、見てはいないのだろうミクマに問う。
「……お前この先、指導は続けてくれるのか?」
「え……?」
意外そうに顔を上げたそいつと目が合い、俺は視線を横に流した。
「俺がその……パンツァーだったとして、ここで投げ出されてしまっては、先のプロットが不安で仕方がないのだが?」
俺の言葉に、秒間。じわりとミクマの目元に明るみが灯っていき、口元に笑みが生まれる。
「もちろんさ。まだまだ八代さんにはボクの指導が必要みたいだしね」
「……いいのか? このまま行くとエンディングのプロットまで先に知ってしまうことになるぞ?」
「その楽しみを奪ったのは誰かな?」
俺は鼻で笑うとテーブルを立ち、リビング隅のパソコンへと座った。
背後からこちらに近づいてくるミクマの気配を感じつつ、これまで何百回と繰り返してきた慣れた更新作業を行う。今回はプロの添削指導済み、文章表現のレベルも今までとは段違いだ。最早推敲すらも必要がないだろう。
肩越しから、ひょいと手元を覗き込む髪の匂いがした。
「珍しいキーボードだね。ペン立てがついてるのか……」
「会社員時代の名残だ。書類にサインを入れたりメモをとったりでペンを使う機会が多かった」
「なるほど、いいね」
キーボード左上から、アンテナのように生えるキャップ式のペン立て。
刺さっている妙に高級そうなペンも、使っていたような記憶があるだけでその実定かではないが……言う必要はないだろう。
更新作業を終わらせ「更新」ボタンをクリックすると、「ビーン」といつもの更新音が鳴る。
「……? こんな音鳴ったっけ?」
「いつも鳴ってるぞ?」
「ああ、そういえば……「りらい」さわってる時はヘッドフォン外してるや……」
二人パソコンの前に並び、更新された小説を確認する。
今更な誤字もなければルビや改行のミスもなかった。原稿としては問題なくても、いざ画面に表示した時に読みづらくないかどうか――ミクマがそんな所にまで気を遣っていることには驚いたが、それも大丈夫なようだった。
「それじゃ、ボクはこれで」
一通り見届け満足したのか、ミクマが立ち上がった。
「ああ、気をつけて帰れよ」
「お? 今日は優しいね」
「気分だ」
帰り支度を済ませてリビングを出るミクマを、今日の気分にまかせて玄関まで見送る。
「とりあえず、キミがまともに書けるようになるまでは来るから、できれば最終回手前までには卒業するように」
そう言い残してミクマはドアの向こう、夜の空気の中へと出て行った。
――『その作者に出会えたことと、八代さんへの羨ましさなんかがマゼコゼになっちゃって……』
「羨ましい……か」
苦労の末、『次回』を作れた充実感。
久々にあの世界へ、俺の世界へと旅立てる高揚感。
「あいつの世界には、『次回』は……」
しかし俺は、なぜだか素直に喜べず――
閉じたドアを見つめたまま、やけに長く立ち呆けていた。