13.ネーミングセンス
――翌日、昼過ぎ。
俺はいつもの坂道を自宅の方向へ、ミクマと共に上っていた。待ち合わせは喫茶店の前。中に入ることはなく、そのままの足で俺の自宅へと向かった。
喫茶店から十数分としない道程。足を止めた俺は、背後のミクマを振り返った。
「ここだ」
「え?」という顔をしたミクマが立ち止まり、俺が顎で示した建物を見上げる。
並べ植えられた針葉樹たちよりも遙か高く、俺にはよく分らないセンスの上部構造をしたマンション。ミクマは急角度に上を見上げたまま、口を開けて固まっていた。
「どうした?」
「……いや、かなり……いいところに住んでいるんだね……」
「意外か?」
「う、うん……八代さんまだ若いし……」
「そうだな、俺の歳からすれば贅沢かもしれん」
買ったいきさつまでは知らんがな。
「入るぞ」
敷地へと入った俺は、キョロキョロするミクマの気配を後ろにマンションへと近づいた。
スーツの内ポケットからキーケースを取り出すと、エントランスドア前の大理石台に搭載された、各部屋へのインターホンパネル下部へとキーを差し込み、オートロックを解除する。
ドアを開けてミクマを通してやり、エントランスからエレベーターへ。
俺の指は反射的ともいえる動きで七階を押す。エレベーターのドアが閉まり、鈍い重力が訪れた。
「俺の部屋は八階だ。降りたら一つ階段を上るぞ」
ミクマはなんだか呆けたように、エレベーター内のボタンを眺めていた。
「珍しいか?」
「え? ……うん」
ポン、と柔らかいチャイムが鳴り、七階に達する。俺は足を踏み出す。
「ボクの家……一軒家だから、高級マンションって初めてで……そっか、停まらない階があるんだね」
「不便ではあるが、共益費とやらの節約になるらしい。資料になったか?」
「そ、そうだね……うん……」
二人階段を上り、廊下を歩き、俺の部屋の前に立つ。俺はキーを手にミクマを振り返った。
物珍しいという様子を装っていたが、そうではなさそうだ。なんというか、妙に落ち着きがない気がする。
「……来る前にも言ったが、一人暮らしだぞ? なんら緊張することはない」
「うぇ? い、いや……だからだよ」
「……?」
何を言っているんだコイツは?
「一人暮らし……なんでしょ?」
俺はため息をついた。
「安心しろ。男の一人暮らしだからといって掃除していないわけじゃない。自慢出来るくらいに誰が見ても綺麗なものだ」
失礼な話だ。どうも最近の女子供というのは潔癖が過ぎる。
そう思って言ってやると、なぜか今度はあっちがため息を吐く。
「……八代さんは資料以前の問題だと思うよ」
「……?」
何やらぶつぶつと、「この人がどうやって鈍感ラノベ主人公を書いているんだろう」などと聞こえたが、俺はもう構わずロックを外した。
上下ダブルロックの面倒くさいドアを開け、玄関を越えて、俺はミクマをリビングへと通す。
耐震強度が気になるくらいのガラス張りなリビング。初めての来客は妙に小さく見えた。部屋を見回すミクマが、感想を漏らす。
「……これは、綺麗って言うか……八代さんって、ミニマリストだったの?」
「ミニマ……なんだ?」
「こんなに何もないって言うか、生活感の無い部屋初めて見た」
「……何を言っている、パソコンも本棚もあるだろう。寝室にはベッドもあるし、ちゃんと俺が住んでいるぞ」
「八代さんの人生に少し興味が出てきた……」
呆れるようにそう言ったミクマは、だだっ広いリビングの隅、本棚へと近づいていく。なるほど、人の人生を探るにはいい判断だ。……それとも、ただ本が好きなだけか。
「……すかすかだね」
「本は溜まるし、増えると取り出すのに手間だからな。ほとんどを電子書籍で買っている。紙で持っているのはお前の本と、そこにあるものくらいだ」
「そうなんだ……」
少しばかり、柔らかい口調の返答だった。
ミクマは俺が「そこ」と言った、本棚下部に詰められた本を指先でなぞっていく。
「IT、IT……ビジネスマナー……?」
「前職がそれだった。資料としてもお前が見て面白いとは思わん」
会社員だった俺が読んでいたらしき本の数々。一度読んだくらいの跡は有り、なんとなく記憶にもあるが、今の俺には理解の出来ない部分も多い。以前の俺は何を想って集め、読んでいたのだろうか……
眺めているミクマの背中が沈み、その指先が最下段二段を埋める蔵書に届いた。
「これって……」
そこに整然と並ぶは「幻想四聖譚」、著者:熊谷宗太郎、全四十八巻。
「全巻揃っている。読んだことはあるか?」
「いや、さすがに……」
ミクマの視線が、その第一巻のあたりに注がれた。背表紙は色褪せ、劣化も激しい。ミクマは指先でなぞろうとして、やめた。
「“原初のりらい小説”って言われてるくらいだからね……たしかスタートがボクの年齢の倍以上前だし、八代さんの歳でも……あれ? 八代さんって、今何歳なの?」
「二十八だが?」
「そ、そう……八個上か……」
何を失礼なことを考えているのか、しげしげと俺の顔や背格好を眺めてくるミクマ。
シュウセイの時であれば同年齢なのだがな。
「……まぁ、俺のことはいいだろう。来て早々で悪いが、お前にはそろそろ指導を頼みたい。俺の小説がそいつみたいになってしまわないようにだ」
「……? そいつみたいに?」
「「幻想四聖譚」は全四十八巻にして、絶筆作品だ」
「わっ、そうなんだ……残念だね……ここまで集めたのに……」
四十九巻が世に出ることはない。書く気云々の問題ではなく、本人がもうこの世にいないのだから。
本の古さからそれを察したのだろう。ミクマはまるで仏壇でも見るかのように本棚に視線を投げ――ぴくりと顔を上げた。
「ん? あれ……? 四聖……?」
その勘の良さは、さすが作家と言うべきか。
「「寸断の四精マスター」はそいつに影響を受けて書き始めている。盗作とまではいかないが、俺にとってのネタ元と言ってもいい。俺はこいつに小説を学んだ」
「へぇ……」
それはたしかなことだ。他のことは忘れても、それだけは憶えている。
「だが、妙な中だるみまで学んでしまったあげく、絶筆まで学ぶわけにはいかん。そこでお前の力が必要というわけだな」
ミクマ――「隈宮ゆい」の力は認めている。はっきり言ってその構成力の点では我が師、熊谷宗太郎など足元にも及ばないだろう。それは四十八巻も書けば中だるみもするだろうが、俺はそこまでいかずともすでに中だるみ満載の状態だ。
この女なら、その力で俺の小説と仲間たちの未来を有意義なものに――
「……ん? フグの稚魚みたいになってどうした?」
くりっと振り返ったミクマは、むくれた顔でこちらを睨んでいた。
「その『お前』っていうのそろそろなんとかならないかな? もう仲違いしてるわけじゃないし、まだ八代さんとそんなに親しくないよね?」
ふむ……言われてみれば。まだどこか敵愾心が残っていたのかもしれない。
「……そういえばそうだな、すまん。カミキにも言ったが、俺はこのところ小説ばかりなせいか、言動が少しおかしいらしい。容赦してくれ」
そう言ってやると、すごく意外そうな顔をされた。
こいつは俺をなんだと思っているのだと、頭をかく。
「よし……じゃあ、君よ、俺に指導を――」
「あ、ごめん。それなんか今更気持ち悪いや、いいよお前で」
「うぉい」
「でも……そうだな、お前お前って呼ばれるのもやっぱり癪に障るし、美希だってあだ名で呼んでもらってるみたいだし……」
ミキ? ああ、カミキのことか……そうか、そういえばあだ名だったか……
「なら、クマちゃんでいいのか?」
「それはいやだ! いいよ、とりあえず三隈で……」
ミクマ…… ミクマか……
俺は顎に手を当てて、思案する。
「ふむ……連絡先を交換しよう」
「連絡先?」
「まだだったのを思い出した。電話番号ついでに、『ミクマ』とはどう書くのかを教えてくれ」
「あっ……」
俺の提案に、ミクマがぽんっと手を打った。
連絡先の交換の方か、俺にとっては名字か名前かもわからない『ミクマ』の方か、こいつがどっちに対して手を打ったのかはわからない。だが、どっちにせよこれから指導をする、受けるという間柄になるのであれば、どちらも抑えておくべきだろう。
今日一回で終わるような事ではないだろうし、俺も八個下とはいえ、指導者相手に礼を欠きたいわけではないからな……
俺に背を向け、床に置いていた鞄を漁っていたミクマが立ち上がり、こちらへ戻ってくる。ミクマはスマートフォンを手に、俺に画面を向けてきた。
「……ほう、本名は『三隈由衣』というのか、現代風というか時代を選ばないというか……可愛らしく、良い名前だな。両親はいいネーミングセンスをしている。『隈宮ゆい』の名前は本名からきているというわけか」
四文字の名前と電話番号が並ぶ画面表示を、俺は応えるように自分のスマートフォンに入力していく。
二つの画面に視線を行き来させていると、かざされている画面の向こうで、ミクマがそっぽを向いてうつむく――
「ょしぇ……」
「……はい?」
「ゅぃじゃなくて……よしぇ……」
「…………」
俺は顔を背け、無言で入力を完了させた。
「なんだよ! 失礼だぞ! 日本にいっぱいいる『よしえ』さんに謝れっ!」
「俺は何も言ってないぞ! いいじゃないか『よしえ』さん! なぁ『よしえ』!」
「その名で呼ぶなぁっ!」
「教えたのはお前だろう! 訂正しなければ『ゆい』で通せただろうが!」
「訂正しちゃったんだもん仕方ないでしょうっ!」
完全に自爆した癖に涙目になっている……まぁ俺も多少調子に乗ったが。
これ以上いじる意味もない、さっさとやるべきことを済ませておこう。
「ほら、俺の番号だ。登録しておけ」
「う、むぅ……」
『八代』の二文字と電話番号が表示された画面をちらちらと見ながら、ミクマは自分のスマートフォンを操作する。
「……八代さんは?」
「はい?」
「下の名前、聞いてない」
俺はしょうがないなという体で財布を取り出すと、中から名刺を引き抜いた。
「これで満足か?」
「あ……」
最早持っている意味もない無関係の会社の名刺。
ずっと入れっぱなしになっていたそいつを、ミクマの手に渡してやる。
――「(株)ディーエンサー本社第二営業部 八代秀生」
受け取ったミクマは、世間的には一流企業らしいその会社の名刺を、物珍しそうにしげしげと見つめ――
「……さ、満足したらさっさと小説を……ん?」
口元を歪め、ぷるぷると震えだした。
「く……ぷ……んんふっ……くはっ……!」
堪えきれずといった様子で息を吐き出したミクマが、足元から崩れ落ちる。
「……! ど、どうしたミクマ……!?」
そのまま突っ伏し、ミクマは身悶えしながら床とお友達になり続ける。
「ひ、ひー! ダメ、ダメだ……! くふっ……! うはっ! あはははっははーぁっ!」
「……!? ……!?」
ついには床に転がったそいつは、事態を示すように俺の名刺に指を差す――
「ちょ! これはダメでしょ! しゅ、『シュウセイ』さーんっ! ぷはっ……!」
「……!?」
――「八代秀生」
「ぐぅはあああああああっ!?」
床に転がるそいつに習うように、俺も床に倒れ込む。派手に仰向けにいったせいか、若干後頭部がゴッと嫌な音を立てた。
痛みと失態に悶絶する俺の元へと、ずるずると床を四つん這いにミクマが顔元まで近づいてくる。
「ちょ、ちょっと! これマジ? マジですか? 主人公に自分の名前つけちゃったの? なんでそんなことしちゃうの? できちゃうの? すごいよ八代さん!」
「く、ぬぬぬ……!」
名刺を笑顔の前に掲げ、ミクマはまくしたてる。しかもご丁寧に名前を俺に見える向きにして――
煽られている……! 煽られているだと……!? この俺が……!?
「ありえないでしょう? 小学生でもやらないよ? なんでそれで一年半も書けちゃうの? 尊敬しちゃう!」
今度は子供をあやすようにだと……!? こいつ……煽り性能高いな! だが――
「……?」
俺はぱたりと脱力し、床に大の字に伸びた。
そしてニィと、口元に反撃の狼煙を見せる。
「ふっ……甘いな、よしえ」
「なぐっていい?」
「お前の早とちりだ……俺はシュウセイなどではない……」
「……え?」
「いいか、ミクマ……俺の名前は……」
俺の芝居がかった語りに、ミクマが片耳を俺の口元に近づけてくる――
「……『ひでお』だ」
――この後、小説の指導が始まるまで、ミクマはかなりの時間を呼吸困難に費やしていた。