12.改革の誓い
喫茶店。鏡張りの壁際、いつもの席に俺は座っている。
「はい、やっしー。コーヒーのおかわりでーす」
新たなグラスと共に現れる文菜に、「うむ」とうなずきを返す。
「やっしー、ここのところ毎日だな」
今日は暇でやることもないのだろう。店主がカウンターから声を掛けてきた。
「……悪いか」
「いんや、前はやっぱり悪いことしたと思ってたからなぁ……もう二度と来ないんじゃないかと思ってたし、来てくれて嬉しいとも」
「悪いこと……? 無銭飲食したのは俺の方だったはずだが」
「いやいや、たしかにそうだが……小説笑っちまったしな。よく考えりゃこうして毎日必死になって考えて書いてるもんなんだ、あんな風に冷やかすもんじゃないよなぁ……」
俺は冷たいだけのコーヒーで口を湿らせる。
「書いてるのは俺の勝手だ。読み手がそんなことを気にしなくていい」
「そうか? でもそうは言っても……」
「それに……俺の小説が酷いのは本当のことだ」
「……?」
「やっしー?」
だからこそ、俺は今ここにいる。自覚したからこそ、過去の恥さえ捨て置ける。
俺は怪訝な顔をする二人から目を逸らすと、パソコンを閉じた。
「今日はこれを飲んだら帰る。毎日入り浸ってすまないな」
「やっしー……どうしちゃったの? この間のことほんとにショックだったのかな?」
「俺をいくつだと思っている」
「でもでも、また毎日来るようになってからのやっしー、前みたいに夢中になってる感じがしないし……」
「そういや……キーボードを叩く音がうるさくないな」
……うるさかったのか、言ってくれればいいものを。
「……今は、小説を書くために来ているわけではないということだ」
「ふぇ?」
十六時過ぎ。そろそろと潮時を感じ、グラスに手を掛けたタイミングで――
カラコロと鳴子の音が響いた。
あれから一週間――
俺にとってはそれ以上の日数を経て、あの日の光景に辿り着いた。
「……あんなことの後なのによく来てくれた。まずは礼を言わせてくれ」
俺は対面の相手に、真っ直ぐと頭を下げる。
「ごめん、気づかなくって……最近はあまりログインしてなかったから……」
目の前には、あのキャップの女が座っていた。
この女――ミクマというらしいこの女がここに現れたのは、偶然ではない。呼びつけたのは他ならぬ俺だ。
喫茶店で一度揉めただけの相手を呼び出す手段など、普通ならば有り得なかっただろう、全てはカミキのおかげだ。とはいえ、あの日詫びを入れに来ただけのカミキの連絡先など、俺が聞いていようはずがない。では、どうしたか――
「むしろよく気づいたな、お前の受信箱はいつも溢れかえっている状態だろうに」
「……誰から来てるかくらいはチェックしてる。本当は全部……返信もしたいけど」
俺は「りらい」上から、「隈宮ゆい」にコンタクトを取った。
「りらい」にはシステムの一つとして、ユーザー個人同士でやりとりが出来る、簡易メールボックスのようなものがある。アカウントさえ持っていれば、メッセージを送れる相手に制限はない。俺はそれを利用したのだ。
正直他に手段が無かったとはいえ、愚かにして勇気のいる決断だった。ユーザー間でのいわゆる出会い系サイトのような対面交渉は、「りらい」の規約上明確な違反行為。通報されてしまえば俺はBAN――アカウント凍結、「りらい」から永久追放となる。それに公言はされていないが、個人間のやりとりを運営側が巡回している可能性は十二分に有り得る。最悪「隈宮ゆい」がメッセージを確認する前に、俺が全てを失って終わる、そんな可能性も有り得たのだ。
「りらい」を失えば、小説世界に復帰する方法があるかはわからない――言わば一世一代の賭け。
しかし俺は「隈宮ゆい」という作家、そこに勝算を見ていた。
「ほんとにずっと……待ってたの?」
「ああ、『三時から四時、毎日必ず待っている』、そう書いたのは俺だ。書いたからには守る、当たり前だろう」
ミクマは下から見上げるようにして、俺の顔をしげしげと見つめる。
メッセージを送ってから、今日で三日目だった。たった三日待っただけで信頼が得られるとは思わないが、ミクマの目からは、少し警戒心が緩んだように感じる。元エリート営業マン――その頃の勘なんてものが残っているとすればだが。
「おまたせしましたー! また来てくれてありがとう」
ミクマの分のコーヒーを持った文菜がやってきた。
「あ、いえ……先日は……」
「いいっていいって、それで今日はどういったお話――」
そこまで言ったところで背後から店主が現れ、文菜の肩に手を置いた。店主は洋画のような芝居がかった仕草で、目を瞑って首を振る。
「あ、あれ……? なんかマジな感じ……?」
空気を読んだ店主の手によって、テーブルから文菜が下げられていく――ナイス輝男。
「……や、八代さん、でよかったよね……?」
「ん……? ああ、アカウントも本名も読みは同じだ。それでいい」
おずおずといった感じで話しかけてきたミクマに、俺は「まぁ飲め」という仕草でグラスに手のひらを差し向ける。俺がグラスに口をつけると、応じるようにミクマもストローを吸った。
呼び出しておいてなんだが、よく来てくれたと思う。俺は何一つとして用件を伝えていないというのに。
「ね、ねぇ八代さん……聞きたいんだけど……」
「ああ」
冷たいだけのコーヒーでも少しは落ち着けたのか、口調は若干と滑らかに感じた。
「ボクにメッセージを送れたってことは……ボクの正体に気づいたってことだよね? あの、どうやって、どこで気づいて……」
「……そうだな。自分でお前の正体に気づけた……と言いたいところだが」
俺は鞄を開くと一冊の本を取り出し、右手に掲げる。
花嫁衣装姿でレイピアを持つ少女が、アニメ調の画風で描かれたその表紙。
上部から下部にかけて踊る、シャープなデザインの文字は――
――「ブラッド・ジューン・ブラッド 1 隈宮ゆい」
ミクマが、びくんっと身を引いた。
「カミキから聞いた。お前がこれの作――」
「あぁ~! やめてやめてやめて~!」
椅子から腰を浮かせたミクマが、俺の右手めがけて両手を飛ばしてくる。テーブルがガシャリと俺を焦らせた。
「こ、こらっ! コーヒーが危ないだろうっ!」
「いきなりなにを出すんですかっ! いやがらせ目的なんですかっ! やめてください!」
――は?
「あ、あなたはやっぱり……私に報復をしようと考えていたのですか!? この間のことを根に持って……!」
しっかり俺から奪った本を胸元に抱きしめるようにし、涙目を浮かべる……ミクマ?
俺が呆然と見つめていると、ミクマ? は、はっと気づいたような顔をして、帽子のキャップを深く抑えた。
「……な、なんだよ」
「いや……」
……あまり、つっこまない方がよさそうだ。
俺は取り乱すと丁寧になるキャラは初めて見たなと……その程度の感想に抑えておき、わざとらしい咳払いを一つ。
「すまん……別にそういうつもりで出したわけじゃない。俺なりの誠意というか……お前への信頼を見せるための小道具だったつもりだ」
言って俺は、奪われた本を指差す。
「……?」
「奥付だ」
俺が軽く本を開く仕草を見せると、ミクマが中身を確認した。
「初版……」
「古本屋で買ってきたわけではないぞ。正真正銘、俺の自宅から持ち出してきたものだ」
「……!」
俺を振り返ったミクマが、目を見開く。
「……ずっと、読んでいた。感想欄で出会って、お前が書き始めてから……今もだ」
――そう、読んでいた。その作品を描く「隈宮ゆい」だからこそ、俺は馬鹿な賭けに出ることが出来た。背後に見える人柄を窺えていたからこそ、来てくれると信じられていた。
ミクマは両手で、今度は隠すようにではなく本を抱きしめる。
そして――ひくひくと、うつむいて肩を震わせ始め……って、
「お、おい……! その反応は困る!」
「だってぇ……こんなの……嬉しくて……っ」
「う、う~む……」
まさか……泣き出すとは。
キュリア相手なら似たようなシーンは書いたことがあるが、現実にこんなシーンは初めてだ。
「現実」の女ってのはよくわからん……それとも書籍化したことのあるやつならわかる気持ちなのだろうか?
「ま、まぁ……そういうわけだ、「隈宮ゆい」。俺はお前から感想を貰えて素直に嬉しかったし、お前が書き始めたという時も、この現実にも仲間が出来たようで嬉しかった。お前があっさりと俺を追い抜き、書籍化した時も……もちろん少し悔しくはあったが、やはり嬉しかった」
気を取り直させようと多少茶化すが、全然泣き止んでくれない。むしろもっとひどくなっていくような……まぁいい。
「お前がかつて俺の読者であってくれたように……俺もお前の読者だったんだよ」
どう対応していいのか全くわからない俺は、とにかく言いたいことだけ言って、あとは待つことにした。収まるまでしばらくかかるかと覚悟したが、ほどなくミクマは目元を拭うと、うつむいたままで呟く。
「かつてじゃない……」
「……?」
「……今も、読んでる。毎回、スマホに通知が来るようにして、更新されたら……読んでる」
「……そうか」
――『最新話なら昨日の夜にアップされていましたよ? たしか……いつもより少し遅めの、八時頃だったと思います』
そうだった、読んでくれていた。俺の体たらくに、あれだけの酷評を吐きながらも。
それを素直に嬉しいとは、今の俺には言えなかった。
「ごめんなさい……この間は、ひどいことを言って……」
「……たしかに堪えたが、気にするな。お前の言い分は全面的に正しい」
顔を上げたミクマの目はまだ潤んでいた。俺は目を逸らし、コーヒーを飲む。
「……お前に言われてから、俺は自分のまわりを見返し――いや、自分の小説を読み返し、たしかに思った。設定は甘いし、句点の位置もめちゃくちゃだ」
「読点」
「はい?」
「句点は「まる」。酷いのは読点で、「てん」の位置」
……前回言われてなかったと思うが、酷かったのか。
「お、おう……そうだった……か。まぁ、うん……酷いのだ。あいつら――人物たちの性格も把握しきれていないところがあるし、キャラクターのアーツという言葉自体知らなかった」
「アーク」
「はい?」
「アーク。作中での人物の心、その動き」
……あ、あの本に英語のスペルで書かれていればだな……間違えなかった、はずだ。
「う、うむ……もちろんわかっているとも。そ、そういうのをだな、ちゃんと理解していなくて、俺はあいつらの心が変わっていったりとか、そういうのが全く出来ていなかったように、そう思ったんだ」
「うん……」
俺は話しながら、ミクマの様子をうかがっていた。
この分なら大丈夫そうだ。俺の元営業的な勘もそう告げているような気がする。
俺は椅子を離れ、その場に立ち上がった。
「……と、いうわけで。俺から言いたいことがある」
見上げるミクマが、ぽかんと口を開けた。
「俺の今の小説は、とてもひどい。このままではあの世界にいる仲間たちが不憫だ。あいつらにはもっと、良い小説の中を生きてもらいたい」
演説染みた俺の語りに、喫茶店中の視線が集まるのを感じる。
かまうものか。
――『いい加減な作者が創った、どうしようもない作品の中で生きる。そんなんじゃ彼らが可哀相だって思わないのか?』
そんなことはあってはならない。あいつらは登場人物なんかじゃないんだ。
最高の世界での、最高の体験を届ける義務が作者にはある……!
――『……向かいたい未来があるのに辿り着けないって……かなしいですね……』
そうだ、辿り着かなければならない。
俺たちが望む、平和な世界へ、旅の終端へ。
作者と読者が望む、最高の結末へ――
「お前は……俺と同じ作者の視点を持つ者にして、今を輝く書籍化作家様。とても腕が良い。だから――」
俺は自らの覚悟を込めて、その指先をミクマへと突き付ける――
「お前の提案、受けて立とう! お前の指導で俺の小説を面白くしてみせろっ!」
店内が、静寂に時を止める。残響した俺の声が、遠く消えていくような錯覚を覚える。
――決まった。
なんらの練習すらも無しに、思い描いていた通りの台詞が一切のブレもなく発せられた。会心の出来に、俺の口元が揺るむ。
俺の顔を見つめていたミクマが、下を向いた。
「八代さん……」
緩慢な動作で、ミクマの両手が椅子に添えられる。
ゆっくりと、その細い体が立ち上がった。
テーブルを挟み、俺達は向かい合う。
これから共に、俺の小説世界を創り変える仲間。
「現実」での、たった一人の協力者――
俺の右手が、手を携えようと伸ばされる。
ミクマの右手が上がっていき、俺の手の更に上へ、キャップのつばへと届き――
「何様だ!」
すぱーん! と俺の頭頂部にキャップがはたき落とされ、目の前に火花が散った。
流れたキャップの下の髪は、艶のある綺麗なものだった――