10.心の友
糸井川と出会ったその日から、数日が経った。
認めたくはないが、あの女にボロカスに言われたことが影響しているのだろう。俺は自らの能力向上のため、ただひたすらに糸井川から薦められた本を読み耽り、同じ作家が出していた続刊をも読破していた。
無論、たった数日だ。やたらと分厚く内容の濃い本など、簡単に血肉にできるわけがない。それに小説とはもとより点数も正解も無い世界、俺の行為にどれだけの意味があったのかはわからない。
しかし、少なくとも――
「むぅ……」
俺はこうして一度萎えてしまった気力を取り戻し、例の雑居ビルの前にいる。俺はあの日より学んだのだという小さな自信が、この身を屈辱の喫茶店の階下へと押しやったのだ。
ここ数日と過ごし、そろそろと俺の小説世界が文章の終端へと近づこうとしている――
※『小説世界:記述のルール』
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2.小説世界への移動と帰還は、「眠り」によって成される。
1)小説世界にいられる時間は、移動後から眠るまでの間だけである。
2)世界の往復は、眠ることで何度でも可能。
3)投稿が完了している場面までが小説世界にいられる限界。それ以上は新たな投稿が必要で、必要分は「主人公が眠りに入るシーン」までである。
4)主人公がいない側の世界の時間は止まっている。
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“記述のルール”第二項の三にある通り、物語が一度途絶えてしまうこと自体には問題は無い。それで二度と向こうに行けなくなるということはないのだ。しかしそれでは次回更新が成されるまでの間、俺にあるのはこの「現実」だけになってしまう。
とっととノートPCを取り返し、ネタ出しに適した別の喫茶店探しに向かわなければ……
などど我ながら情けないことを考えつつ二階へと登り、喫茶店の前へと進むと――
「……」
文菜と、目が合った。喫茶店の窓ガラス越しに対面した。
文菜の顔が、ニヤリと動く。
「くっ……!」
撤退。ヤツはクソだ。人の恥をこれだけ経ってまだ思い出し笑いできるクソだ。
そう心で叫び、来た道へと身を翻す――
「あの!」
「……!?」
逆走しようとした俺の背中を、喫茶店の鳴子と大声が打った。文菜ではないその声に俺は足を止め、恐る恐ると振り返る。
「……?」
そこには開かれた喫茶店の扉を手で支える、見覚えのない少女がいた。
眼鏡をかけたその姿は、低い身長も相まって控えめに言って地味。おおよそ赤の他人に声などかける印象ではなく、俺は思わずと自分の顔へと指を差す。
地味少女は支えていた扉の中へと半身を入れると、ガラス窓にへばりついていた文菜を手招きした。
「……こ、この人が、そうなんですか?」
「そうそう、この人この人」
入り口近くで文菜とやりとりし、店舗から半身を抜いた少女は、俺に「は~」と呆けたような表情を送る。
「な、なんだ? 俺に……何か?」
全く記憶にない相手への警戒感と、“初対面の女”に対する嫌な記憶が交錯し、片足一歩後退る――と、そこへ、その間合いを詰めるように、印象を裏切るような速さで少女が踏み込んできた。
「お願いします! 付き合ってくだしぁ!」
「はいっ!?」
噛み気味だったが、いきなり何を言ってるんだコイツは……!?
そう思うが早いか、少女は両手を前に首をぶんぶん振った。
「いやいや! そういう意味じゃなくて! それでもいいっすけど……とにかく!」
慌てふためく少女と、仰け反り続ける俺。
その様子を喫茶店の扉を半開きに、文菜がにやにや見守っていた。
謎の地味少女を連れた俺は、駅から少し離れた場所にある公園へと入った。
四方を背の低い木々で囲んだ、街中にぽつりとある公園。初めて入るそこには真昼の時間帯だというのに人の姿はなく、今の状況には都合が良かった。
何か話があるらしい出会ったばかりの少女。俺は伴ってきた彼女を隅のベンチへと座らせると、公園の外にある自販機へと向かった。なんだかんだでノートPCは取り戻せ、無銭飲食の精算もできた。もうあの喫茶店とも、見ず知らずの人間とも、関わる必要は無いのだが……
「……コーヒーだが、これで良かったか?」
「あ、いえ……ありがとうございます」
園内に戻った俺は、ベンチで行儀良くうつむいていたそいつへと、赤白茶色なデザインの缶コーヒーを手渡した。
お互いにプルタブを開け、冷たいコーヒーを一口飲む。どの道アイスコーヒーを飲むのでも、今はあの喫茶店だけはごめんだった。
それにしても……中学生か高校生かわからないが、小柄だな。シュウセイとは身長が違うから分かりづらいが、キュリアと同じくらいか。スーツを着ているとはいえ、あまり一緒にいて体裁のいいものではないな……
「そ、それにしても……おどろきです」
「……?」
コーヒーをもう一口含んだタイミングで、少女が話し始める。
「スク水マスターがこんなイケメンだったなんて」
「ぶふぅっ……!」
かろうじて少女から顔を背け、俺はコーヒーを噴射した。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
「ああ! すみませんすみません! あんまり驚いていたものでついっ!」
俺はハンカチを取り出して口元を拭う。
こ、こいつ……! こいつもか……!? なんで天文学的確率の人間が集まる!
「……で、君は?」
なんとか呼吸を落ち着けた俺は、とりあえずこの少女の正体を問う。
「あ、はひ。あたしは神美希という、よく教室のすみっことかにいるものです」
「お、おう……?」
「な、なんならカミキとか略してもらっても……」
カミ、ミキ……? よくわからないが、変なやつに会ったということはわかった。
「う、うむ……では、カミキ」
「やった……!」
「……俺に何の用だ? どうやら俺を「社宗子」だと知っている様だが……」
天文学的確率――無数にいる「りらい」の作者が、自作の読者と偶然出会う確率。それはメディア化しているなど、余程の作品を持っている作者でもなければまず有り得ない。ましてや短期間に連続となると、その作品はもうメディア化していることだろう。
有り得る可能性としては、あの給仕が言いふらしているという最悪の可能性と、もう一つ――
「……先日は、申し訳ありませんでした」
少女が深々と俺に頭を下げる。
「……? 君とは初対面のはずだが……」
「私ではなく、クマちゃん……三隈のことです」
なるほど、やはりもう一つの可能性が当たったか。
不自然な連続なら、関連する関係者、それが自然だ。
「そうか……ミクマというのか、あれは。君はあれの知り合いか?」
「はい、同じ大学の“心の友と書いて親友”です」
「……書かないが。ん? 同じ大学……?」
まじまじと、カミキとやらを上下に見る。
「飛び級か? カミキ」
「うん、そのボケには慣れました。こんなのですが、三隈もあたしもばりばりの二十歳です」
「ばりばりか……」
独特とも言える妙な雰囲気を持つカミキに、俺のテンポは崩されっぱなしだった。あの女の話題だというのに怒りが湧いてこないことには、感謝すべきなのかどうなのか。
「しかし……よくわからんな。たしかに俺はあいつに腹が立っていたが、本人はどうした? いや……そもそもなぜ謝りになど来る。君もあいつも、俺からすれば名前すら知らなかった赤の他人だ。今後関わる可能性も無いだろうし、放っておいてよかったのではないか?」
侮辱ではあったかもしれないが、暴行というわけでもない。仮に警察に訴えに行ったところで、行ったやつが鼻で笑われる程度の話だ。今後一切無関係を貫ける相手に、わざわざと詫びを入れにくる意味がわからない。突然街中で襲われる可能性を危惧してというのならわかるが――
「……?」
俺としては当然で何気ない質問のはずだったのだが、聞いたカミキは表情を暗くしてうつむいてしまう。
ん……? これはひょっとして……
「すまん、何か無神経だったか?」
「へ……?」
「俺は普段小説ばかり書いているせいか、言動がイマイチおかしいらしい。気に障ったのなら謝る」
「あ、いえ……イマイチおかしいらしいのはあたしもですし……」
……自覚はあったのか。いや、それはいい。
だが今の俺の質問は、あまりよくないものだったことはなんとなく察しがついた。
なんであれ、詫びを入れにきてくれたことは事実だ。それだけで良しとしよう。
「……本人でもないのに、よく俺を捕まえたものだ。このところあの喫茶店は避けていたからな……なかなか現れなくてすまなかった」
「あ……」
「俺に会えそうな場所はあそこしかない、そうだろう? 苦労に免じてというわけではないが……一応、謝罪は受け取っておく」
俺にとっては不要なこととはいえ、その努力を思うと言わずにはいられなかった。きっとこいつは次にいつ来るか、本当に来るかどうかもわからない相手を、あの喫茶店で待ち続けていたのだろう。それを思えば、ただ迷惑だなどと突っぱねるような真似はできない。
俺の労いの気持ちが一応は伝わったのか、カミキの表情が少し明るくなった。
「そっか……やっぱり、悪いひとじゃないんですね……えっと」
ちらちらと俺をうかがうカミキ。そういえば、こちらからの紹介はまだだったか。
「俺のことは普通に八代でいい。アカウント名の「社」は漢字を変えただけだ。スク水マスターでなければなんでもいい」
「そ、そうでしたね……ヤシロさん。そっか、本名なんだ……」
――スク水マスター。自分で言って少しダメージを負う。
あの一件は、俺にとっての事件だ。連載当初で、おそらく俺はまだ推敲に不慣れだったのだろう。やったことはただの誤字。だがそれは致命的で、取り返しのつかないミスとなった。小説世界で、そんな設定をしていないはずのキュリアがとんでもない恰好で現れた時の卒倒感は忘れられない。いや、きっと意識が台本を持ったシュウセイのものでなければ、あまりの失敗感に本当に卒倒していただろう。
そして、「現実」の感想欄ではひどい目にあった。数少ない一部の読者からは、未だに「すく水事件」として語られている。思えばキュリアの今の少し子供っぽい性格も、随分とそれに引っ張られてしまった結果のように思わないでもない。
「……あの一件を知っているということは、俺の作品を初期から読んでいるのか?」
「りらい」上の文章としては、当然ながらすでに修正されている。マイナー作品で古参読者同士の関わりなども考えられない。知っているとすれば連載当初からの読者――
「あ、すみません、読んだことないです」
「ねぇのかよ……」
俺はげんなりと、コーヒーをちびちび飲んだ。並んでカミキも、ちびちび飲んだ。
「……クマちゃん、この間のことで……今すごく落ち込んでいるんです」
「……?」
缶の重みもなくなって来た頃、カミキがぽつりと言った。
「少し前までは、ほんとに会えたかもしれないって、すごくはしゃいでたのに……」
「待て、なんの話だ? 落ち込んでたのは俺の方で……」
「え? あ、落ち込んでたんですか?」
「うっせ」
「すまんす……」
前に進むかと思えば斜め上に浮遊する。
そんな微妙な空気の中、俺はカミキから、ミクマという女の話を聞かされていった――