1.『水の章:旅立ち』
――“俺は知っている。”
木造や石造りの民家が立ち並ぶ通り。浅い綠と共にあった牧歌的な光景は、今や闇に静まっていた。
わずかな見覚えをうながす町のシルエットを映すは、やけに白く思える月の光。頼りない足元を照らすは、前を歩く男の古めかしいカンテラの灯りだった。
「シュウセイ様」
俺の名を呼び、男は立ち止まる。前方へと差し上げられた指が俺の視線を誘導した。
「この先です……奴は夜な夜な、この先の泉に」
夜道の先へと目を凝らす。ごく朧気に、赤と紫が入り交じった煙のようなものが見えた。
俺はカンテラの灯りを越え、足を踏み出す。
「後は任せておけ、吉報を持ち帰る」
その言葉に対し、男がなんと返したのかは聞き取れなかった。ただ歩む俺の背後には、そこを動くことなく頭を垂れ続ける、そんな気配があった。
案内役の男を後に、俺の体は振り返ることもなく夜道を歩んで行った。
狭い視野の中、煙を頼りに歩くこと数分。
やがて俺の足は、遠くからは真っ黒にしか見えなかった木立の中へと入った。歩みと共に濃さを増していく煙の濃度。それに合わせるように木々の上部は黒く染まり、葉を失っていった。
俺の体に小さく強ばりが生まれ、左手が携えていたエモノの鯉口を切る――そこに辿りついた時、どうっと突風が体を打った。
――“その『場所』を。”
砂埃に右腕を眼前にかざし、細目で覗う。そこは低い石垣に囲まれた、小さな人工の泉だった。
「っ……!」
目の前の光景に、俺の喉から声が漏れる。
泉に鎮座するように浮かぶ、一匹の『怪物』。
その身は紫の半透明にして、木立の木々よりも、町に建ち並んでいた民家よりも大きい。鋭利さを思わせる鱗を張り巡らせた、太く長い体がとぐろを巻く。高みから見下ろす黒一色の眼と、頑強な顎。その姿は、まさしく『龍』そのものだった。
「……こいつが、呪水龍か……!」
――“その『敵』を。”
瞳の無い黒い眼と、俺は睨み合う。
『呪水龍』。数ヶ月前より泉に現れるようになったこの怪物は、日々を追って現れる頻度を増し、今や毎夜となっていた。
現れるのは夜だけにして、決してこの場所を動くことはない。
しかしその身は禍々しい『呪い』を放ち、小さな平野の集落に過ぎないあの町から、生きる糧――水を失わせていた。
俺は姿勢を落とし右手を柄へ、『抜刀』の構えを取る。
「……行き掛かりだ、悪く思うな」
恐れを抑え込むように、俺は吐き捨てる。
冗談じゃない。俺は怪物と戦ったことなど一度も無い。ましてや真剣を生き物に向け、斬り捨てたことさえ一度も無い。ただ、わけもわからずここに来て、流れに呑まれ、後に引けなくなっているだけだ。
怪物はこちらを睨んでいる。俺を一呑みに出来る口と、軽く触れるだけで終わりに出来る体躯を持って。
俺の手には、町で貰った数打ちものだろう剣が一本。
あの半透明の体は、斬ることが出来るのだろうか? 斬れたとして、何回斬れば倒すことが出来るのだろうか?
夢見心地にも似た絶望と失笑しそうな思考の中、それでも俺の目は、習いのままに敵の急所を探る――
「……!?」
とぐろを巻く巨体の中に、目を見張った。
「……あれは、人……?」
重なりあった紫の半透明の内部に、その影があった。
足を半歩と視線をずらし、注視を向けると間違いなく人――外套らしきものを羽織った、人間の姿が見えた。遠目にはその四肢に欠損は見られず、まるでまだ生きているかのようにさえも思える。
「まさか丸呑みに――」
そこまで口に出したところで――人影が動き、絶句する。
怪物の中、動いた人影は青白い光を放ち、その容貌を透けて見せる。
それは、青く短い髪を覗かせた、少女だった。
――“その『人物』を。”
それは遠すぎて、定かではない。それは非日常による昂ぶりが見せた、錯覚だったのかもしれない。
しかし俺の目は、少女の瞳と合わさり――その表情に、微笑みを見た。
怪物が、咆吼する――
「ぐぅっ……!」
地鳴りさえも起こりそうな空気の震えに咄嗟に耳を塞ぎ、身を落とす。
「なっ……なに……?」
怪物は俺ではなく、その体に取り込んだ少女に対して気性を荒げているようだった。
鎌首をもたげた怪物が少女を睨むと、その青白い輝きに、あの赤と紫の混じった煙が集まり、輝きを弱めていく。
少女の体が、苦しげに身動ぎしたように見えた。
「っ……!」
気づけば、走り出していた。
敵の体勢すらも見ていない、次の一手すらも考えていない。抜刀さえも撃ち出せるかわからない、慣れない剣を腰溜めにして走り出していた。
まずいと直感した。今助けることを捨てれば、すべてが終わる。そんな直感だった。
たった一太刀でいい。肉迫しろ。潜り込め。あの腹を斬り裂け――思考を全てそこに向けた瞬間、月明かりが消えた。
「っ!?」
見上げた頭上、怪物の巨大な頭部が俺を見下ろしていた。
顎が開き、鋭利な牙が現れてくる様が、ゆっくりと、極めてゆっくりと、感じられる。
しまったと、浅はかだったと思う暇すらもないはずが、しっかりと後悔を味わわせ、体は動かない。
迫る龍の顎。迫り来る、終わり。
動かない瞳の横から――青白い閃光。
瞬間、凄まじい轟音が耳をしたたかに打ち、足首に激痛が走った。目の前には広げられた龍の口内。しかし――
「な……なんだと……!?」
俺は生きていた。
俺は生きていて二本の足で立ち、抜き放った剣を右手に、巨大な顎を受け止めていた。
そして全身と構えた剣からは、あの青白い光が立ち昇っている。
「これは……」
俺の顔が、あるべき方向へと動く。今度ははっきりと見ることが出来た。
怪物の腹の中、小柄な少女が柔らかな笑顔と共に、腕をこちらに差し向けている。
「この力は……君が……?」
尋ねた俺の前で、少女の腕が力無く降りていく。脱力し、眠るように目を閉じた少女は、小さく呟いた。
それは音にはならず、俺の耳に届くことはなかった。しかしはっきりと、その短い言葉は俺に伝わった。
(よかった……)
裂帛の気合いとともに――
「ぬうぅううううああああああっっ!」
怪物の頭を弾き飛ばし、俺は間合いを取る。
反動に揺れる怪物の巨体を見届け、今の俺に絶望が無いことを確かめると、剣を一振り、納刀する。
「まったく……」
じりと、姿勢を落とし、土を踏みしめる。
「よくはない……恩を返せない人間に、刀を握る資格など無いだろう」
俺を睨んでいただけの怪物が、今度は気性荒く、俺に迫り来る。
俺を『敵』と見定めて、怒号とともに襲い来る。
「……返させてもらうぞ」
俺は鯉口を切り、地を蹴った――
――“この『戦い』を。”
夜は白み、新たな陽が昇る。
木々は朝日の中にその身をさらし、泉は新たな清浄を涌かしていた。辺りに散らばった巨大な半透明の紫の塊が、サラサラと灰になり、空気に溶けていく。
「終わったか……」
激戦の末、打ち破った呪水龍。初めて戦った怪物との間にあった昂ぶりも、ようやく解け始めていた。
地面には、横たわらせたあの少女の姿がある。朝の空気と達成感の中に、戦いに残った傷さえも、心地良い疲労であるかのように感じていた。
軽い眠気を覚える頃、少女の体が身動ぎした。
「……起きたか?」
もぞもぞと掛けていた白い外套が波打ち、目を擦りながら少女が目を覚ます。小柄であどけない容姿で行うその仕草は、今更ながらに子供っぽく見えた。
「あれ……わたしは……いったい……?」
「君が誰かは知らない。だが、君のおかげで呪水龍を倒せ、俺が死なずに済んだ。礼を言う」
そう言ってやると少女はぽかんと口を開け、水色の瞳で俺を見つめ、はっと表情を驚きに変えた。
「あ、あな、あなあなっ……あなたが……!」
「……?」
弾かれたように後退り気味に立ち上がった少女が、勢いのまま尻餅をつく。
「……大丈夫か?」
助け起こそうとするも、少女は慌てたように身を起こし、俺に跪いた。
「初にお目に掛かります……お待ちしておりました。四精の主よ」
「……なに?」
「あなたこそが我ら四精を従え、この世界の救い手となる者。わたしは運命の女神との盟約に従い、あなたに力を委ねます」
「おい……待て」
事態が呑み込めず、俺は少女に手をかざす。
しかし、はたと顔を上げたその表情の真剣さに押され、俺は思わずと手をひっこめてしまった。
「あなた様のお名前は?」
「名前……?」
しばし、俺は考える。
「シュウセイだ。わかり辛ければ好きに呼べ、覚えなくてもかまわん」
「では……シュウセイさま」
少女は立ち上がり、その低い上背で迫ると両手で俺の手を取った。
「わたしは救う水の精霊、キュリア=アクエス。シュウセイさまの第一精霊です。共に手を取り、世界を救いましょう!」
――“俺は知っている。”
「……なぜだ?」
「へ?」
――“この『旅立ち』を。”
「絶対に間違えている。俺じゃない。冷静になれ」
「え? いえいえ、間違ってませんよ! 間違ってません!」
――“この『馴れ初め』を。”
「俺は君のマスターじゃない。うちの門下生の師範だ」
「しはん? しはんってなんですか?」
――“この『やりとり』を。”
「……とりあえず、町に戻ろう。話はあとだ」
「はい! 行きましょう……シュウセイさま!」
――“この先の、『展開』を。”
――“俺は、知っている。”
『玄人仕事』より、約一年ぶりの新連載になります。
前作をご存知の方も、ふらりと立ち寄られた方も、楽しんでくださると嬉しく思います。