生は奇なり死は帰なり 2
待ち遠しくあった清々しい寒空。
見晴らしの良い高台。
瞬きの間の出来事だった。
どす暗く荒廃した禁足域から、清涼と広がる雪景色の原野へと一変していた。
「此処までだ」
垂迹者灼雷による人智を超越した仕業。それ以外には考えられない。
「待ってくれ、灼雷殿。まだ聞きたいことが」
雷轟。
枝葉に乗る雪がばさばさと落ち、吹き荒み、朝日を浴びてきらきらと粉雪が舞う。
強烈な空圧に思わず顔を覆うゴクロウとアサメ。二人が薄目を開けると、灼雷は彼方へと去っていた。
「もう、何だったんですか」
厳格と慈しみを併せ持つ紫電の眼差しは飛び去る直前まで、アサメへと注がれていた。
「無事で済んだ。それでいいんじゃねえか」
ゴクロウはとある方面を望む。
七千栄華の都、煤湯の街の一端が地平線を越えてもなお、ずらりと連なっていた。
どさりとアサメは力なくへたり込んだ。
「生きた心地が、しません」
精根尽き果てた表情がゆるゆると晴天を望む。寒冷に強い身とはいえ、全裸ではさすがに冷たかろう。ゴクロウが渡した外套も、帯鞄も、小太刀も全て無くしていた。真身化の際に全て落としたのだろう。恥も外聞もなく、命を賭けて闘ったのだ。いまさら裸など気にするほどのものでも無いが。
上着を脱いだゴクロウが、アサメに投げ渡した。
「できれば無くすなよ。次は俺の皮を剥ぐ羽目になる」
前を抱くように受け取ったアサメは複雑そうに眉を潜めた。
「助かり、ます」
心配そうな鋼の瞳がゴクロウを見上げた。
胸に刻まれた朱い稲妻の痕と肘ごと欠けた右腕が痛々しい。傷だらけの上半身は千切れかけた帯鞄をぶら下げ、冷たい外気に晒して湯気を上げていた。この程度の寒さ、偽王の肉体ならば問題ない。
ゴクロウは力一杯に伸びた。
その左手には、包帯の塊。
「少し休んだら、降りよう。着るものも飯も、何かしらあるだろ」
とはいえまだ一仕事、残っている。
腰を落ち着かせたのは三十分ほどだろうか。
「太陽だ。久々にみた」
灼雷に連れてこられたこの高台は見渡しがよく、仰向けに寝そべると青い空へと落ちて行きそうな錯覚を覚える。
火照った身体に雪の冷たさが心地良い。
初めて訪れた客人に此処が曇天郷などと説いても、誰が信じるだろうか。
目を瞑れば、瞼の裏にはまだ雷光が焼きついたまま。激戦の光景が次々と切り替わる。崖から突き落とされ、深淵に片足を突っ込み、サガドとリプレラ、泥暮らしの大軍、蜥蜴人。一歩も二歩も間違え、死の淵に立ち、だが死線から這い上がった。どれ一つとっても油断ならなかった。
(サガドとリプレラを逃し、シクランもユクヨニもまだどこかで生きてるだろう。泥暮らしの大軍に、あのデカブツ。まだ、終わりじゃねえ。これからだ)
今は激戦と激戦の狭間でしかない。
深淵を潜り抜けたとは思えないほどの静寂。こうも静かだと、散々と耳朶を叩いた雷鳴が嫌でも脳裏に蘇る。
ゴクロウは上体を起こし、雪を払う。
白雪に残った背中の跡はべったりとした黒い血で汚れていた。
黙祷を捧げる刃尾の麗人、その後ろ姿を見つめる。
足元には急拵えの石墓。
夜光人の子の腕が静かに眠っていた。
生者と死者が同居する矛盾が、確かに此処に有った。
「まだ生きてるんですよね、私達」
長い銀髪を靡かせて振り向いた。
憂いに満ちた鋼の瞳と少しの間だけ見つめ合う。禅問答の様だった。公案を観察をして己の内に理を得て、導いた先に悟りを開く。これが修行なら、何と答えるべきだろうか。
「贅沢な悩みだ」
アサメはきょとんとしたした顔になった。少なくとも二人は、仏からは程遠い。
「変ですね」
「だな」
二人して小さく笑い合う。アサメの視線が逸れ、欠けた右腕へと注がれた。
「痛くないんですか」
「少しだけ」
痛みよりも寧ろ、喪失感があった。口に出せばきっと今以上に心配させる。
それ以上は何も言わず、おもむろに雪で身体を拭った。すぐに黒く染まる。二人とも血と土埃で汚れきっていた。臭覚疲労を起こして鼻は何も感じないが、相当きつい臭いだろう。アサメに至っては赤土色の素肌をほとんど晒したままで、眺めている方が寒気を覚える。
ゴクロウは初めてアサメと出会い、馬に乗って山を駆け下りた夜を思い出していた。あの時も確か、二人とも窶れた格好をしていた。
懐かしい。ふっと鼻で笑う。
「何ですか」
「別に」
左で護人杖をつき、違和感のある重心を抱えたまま立ち上がる。アサメは自然とゴクロウの右側に付いた。誰よりも頼もしい右腕だった。
「気になります」
「お前を子供扱いしていた時を思い出しただけだ」
抜き身の長刀を背負ったアサメは一瞬怪訝な顔をした。すぐに柳眉を吊り上げ、肌を隠す様に長い長い銀髪を纏わせる。
「変態、野蛮」
便利なものだ。
「痴女みたいな見た目のアサメ様にそう仰られましても」
「好きでこんな格好してませんッ」
銀髪の毛先がやや逆立つ。
「はいはい。先ずは着るものでも探して、いや、先に汗やら何やら、流してえな。腹も減った」
「緊張感がなさすぎです。その腕、早く治さないと」
視線を街へ。
眼下に莫大と広がるは、七千栄華の都、煤湯。
久方ぶりの朝日を迎えた曇天郷の中枢は地平線の彼方を越えて往き渡っている。一体何千万もの人々が住んでいるのだろうか。
「でかい街なんだ。腕利きの医者の一人や二人、すぐ見つかる。一日くらい落ち着こうぜ」
「そんな時間、あると思いますか」
本日は快晴。
だからこそ彼等はよくよくと、絶望の朝を思い知るだろう。
振り向く。
遠い此方は、陽射しを拒絶する暗闇の地。
曇天の腕は深淵に刺さったまま黒い血に侵食され、どす黒い竜巻と化して屹立していた。耳をよくよく研ぎ澄ませば悍しい軍勢の歩みが、穢土の怨嗟が、腹の底を寒からしめるように響いてくる。
長きに渡る平和の歴史が絶たれようとしている日である事は、何の疑いようもない。
「こんなきな臭え時だからこそだ。無くても作る。腹が減っていたせいで殺されちまいましたなんて、地獄に落ちた時に話せるかよ」
あっけらかんとした態度のゴクロウに対し、アサメは仕方ないと嘆息を吐いた。一度決めたら梃子でも動かない。
「なら、まあ、身体、洗いたいです」
「よし、決まりだな」
それでも金眼と鋼の瞳の奥には、揺るぎない覚悟で燃えていた。
「必ず、戻ってきます。皆を弔いに」
アサメは物言えぬ子の墓へ、確かに告げる。ゴクロウとてその思いは同じである。
今一度の黙祷を終えた二人は揃って並び、煤湯へと歩を進めた。
序章 世界に刃向かう者 了
第二部 煤湯六仁協定の血判者達
投稿予定日 2020年8月17日(月)




