無知の行き着く先 23
塔だと思っていたものが、傾いだ。
雷鳴をも掻き消す轟音と、計り知れない震動。
瓦礫の波に脚を掬われる。ゴクロウとアサメは抵抗しようとする動きすら許されない。ただただ自然の奔流に流され、引き裂かれて泣き叫び、震える大地に翻弄された。
せめてできるのは、互いが離されないように繋ぎ合い。
(まだだ)
そして、目を見開いて、生き延びる選択を必死に模索すること。
(盆地の底部に落ちて、瓦礫やら雪崩に巻き込まれてしまえば楽に圧死。だが、此処はもう盆地じゃなくなる。土砂が流れる滝の頂上に変わる)
ゴクロウは激震の波に乗りながら、土砂の流れを血眼になって睨んでいた
地の起伏により流れを分岐させ、莫大な力を受けながらも左右に流す巨岩。それに引っ掛かった横倒れの大木が眼前に迫る。
起死回生の道筋が、閃光の如く駆け抜ける錯覚。
いや、導きだ。
ゴクロウは大きく足掻いて立ち上がり、アサメの手を引いた。
「跳ぶぞッ」
地滑りの勢いを利用し、同時跳躍。
一瞬の解放感が背中を広く推す。
直後、大木の幹に激突。
痛みを跳ね返そうと叫びながら強引によじ登り、手を取り合う。危機を脱した二人は飛び散る土砂や血でずたぼろに汚れていた。打撲、擦過傷、切創など細かい怪我を全身に負っている。手当てをする時間を強引に捻出。
絶対に生き延びる。たった一秒でも余裕が欲しい。
「アサメ、生きてるか」
「貴方が無事なら」
荒い呼吸を繰り返しながら、巨岩にしがみつく。一つかと思われていたが、実際は二つの一枚岩と大小の岩が偶然にも噛み合ってこの激流に堪えていた。だが今にも崩れて沈みそうな恐怖感。土砂は返した砂時計の如く、だが荒々しく亀裂の底へ流れ込んでいく。
ここもそう長くは保たない。
ゴクロウは恐る恐る足場を探り、岩陰から顔を覗かせる。
震源であろう真朱の塔へ。いや、塔だった何かを、呆然と見上げる。
山が、産まれようとしていた。
「こんなの、有りかよ」
大地を押し広げる腕が深淵から伸び、谷を引き裂く五指が地表を抉る。
曇天を貫かんばかりに遥か上へと持ち上がった巨塔、いや、巨大角。
瞳は見当たらず、だが曇天を憎々しく睨んでいる気配。
ゆっくりと開かれた顎門は火口の如き赤熱を覗かせ、墨色の吐息を漏らしていた。
それは人か、あるいは龍か。
「あの裏切り者が、何か再誕させるとか、宣ってました」
「それがあの馬鹿げたデカブツか」
「それは分かりません。ただ、たしか、ヨミ。夜見と」
再三にも渡る激震にアサメの言葉が遮られる。
人の龍の怪腕が、手が、大地を掴む。
計り知れない巨軀を乗り上げようとしている。
尾根の如き両肩からばらばらと剥落する瓦礫は岩だが、まるで砂粒に思える程の信じ難き長大さ。全長など、考えたくもなかった。想像を絶する質量と、それを支える肉体とは如何なる堅牢さを有するというのか。
竜は左の片肘を付いて粉塵を巻き上げ、右の怪腕を曇天へ高々と伸ばす。
恐ろしいことに、雷はこの腕を避けて飛来していた。雷撃距離の半径から擦り抜けるという不可解な作用が働いているのは間違いなく、落雷が無意味に地上を穿つ。
「あの手は、何を」
物の喩えなどではなく、山を掴む巨大な掌。
それがゆっくりと滑らかに握り込まれていく。
それは、山を四散させる無常の力。
「振りかぶった拳ってのはよ」
ごくりと生唾を飲み込む。
生半可な出来事では怖気ないゴクロウでさえ、足が竦んでいた。
「どこかに振り落として初めて、多少の気が済むってもんだよな」
終わった。
儀式も、人の営みも、この地上も、何もかもが終わる。
震える小さな手がゴクロウの装束の裾をふと掴んだ。
それを大きな掌で優しく覆い、握り返した。弱く柔らかく、少し冷たい。だが触れていると少しだけ安堵する気がした。
せめて最期の瞬間を目に焼き付けなければ、後悔する。
「悪夢が、終わりますね」
「アサメ、もし目が覚めたら」
地獄の化身は腕を、拳を。
ゆっくりと振り落とした。
「え」
朱殷の雷。
ごく僅かな間を空け、雷轟が耳を劈く。
一瞬だった。その閃光は明らかに自然のものではなく、槍の形をした雷が天を駆けて、怪腕を貫いた。
人の龍、夜見の動きが一瞬止まる。
直後、だらりと傾いで谷底へ。
だが崩れ落ちかけた巨体は寸前で体勢を立て直し、ただの大きな揺れだけを引き起こして静止した。
何が起こったのか。呆然としていたのは一瞬だった。今しかない。
「アサメ、遠くへ逃げるぞ。早く、急ぐんだ」
ゴクロウに急かされ、アサメは弾けるように我に返った。
土砂の流れは一応の落ち着きをみせ、第二波として襲い来る筈だった雪崩も何故か起こらない。立って居られない程の震動が起こったにも関わらずである。
(もしかしたら凍土の王が)
今は考えても仕方がない。
アサメは気を取り直し、巨岩の足場を降りて、不安定な瓦礫原に降り立った。
気になって、災厄が横たわる背後へと振り向く。
それは予兆だった。
悍しい理性。滅の波動。亡びの精素。
ふと、ヒクラスキから教わった言葉が脳裏に過った。
『如何なる存在に晒されようとも、神化を経ても、ありのまま受け入れなさい。真の身は、お前さんを決して裏切らないよ』
何故だろう。
光沢のある茶髪が肩に流れる。それが唯一の自慢だった。爪は短く切り揃えられ、まるで女性らしくないと誰かによく言われたものだ。
(誰に。知らない。知らない。私は、何も、知らないッ)
吐き気を催す嫌悪感、頭痛。
ここで蹲るわけにはいかない。
「アサメ、どうした」
痺れを切らして振り向いたゴクロウだったが、明らかに動揺が走っていた。
なんて怖けた顔を、らしくないと思いながらもアサメの膝から力が抜ける。もはや自分の力では立っていられない。
駆け寄ったゴクロウに抱き支えられた。
「どうなって、ますか」
「分からないのか。眼は見えるか」
「眼、ですか」
淡い翠色の瞳から。
「血の涙が流れてんだ。自分で気付かないのかよッ」
いや、そんな事よりも。
「逃げて」
アサメが捻り出した言葉に、ゴクロウはハッと顔を見上げた。
人の龍。瞳のない貌と、確かに目が合った。
開かれた地獄の顎門。
生ける自然、穢土の垂迹者、夜見。
再誕の咆哮は、地上を遍く薙ぎ払った。




