無知の行き着く先 17
凍土の王の沐浴地は神妙なる翠碧を一際と煌めかせていた。
雷拝祭当日の夕方。
夜光の一族達にとっては待ちに待った祭日であるが、心から喜んでいる者は小さな子供くらいで、大人達は稀であった。
穢土、泥暮らしの脅威を少なからず感じ取っている者がいる。浮き足立つ者を密やかに皮肉るような風潮が蔓延り、不参加を決め込む者は家屋に引き籠もっていた。
こんな山奥まで登っては来まいと楽観視する者もいる。だが、一抹の不安は完全に拭えない。
賑やかなはずの竪琴の調べはどこか気力を欠いている。
恐れ狩りの大天幕の中まで、憂鬱な波長がぼんやりと響いていた。
蝋燭と篝火に浮かぶ影はケイラム率いる恐れ狩り達、シクラン率いる夜光の巡回者達、そしてゴクロウと黒髪紫紺眼のアサメ。
早めに睡眠も取り、体調も万全。全員が完全武装した姿で、凍土の王の沐浴地周辺の登山地図を取り囲んで最終確認の会議を行っていた。
日陰の園へ続く三つの登山道、及び祭祀場へ直接至る二つの山道には歩哨として巡回者を置き、肝心の祭祀場周辺には戦闘経験に富んだ恐れ狩りを配置する。
ゴクロウとアサメ、腕の立つ駒は雲仙四天の広場及び祭祀場周辺を巡回し、氏族長達の親衛隊として働く運びとなっていた。
厳重だ。それでもいいようのない不足感が残る。
ケイラムがこつこつと盤上の祭祀場を小突く。
「頼んますよ、皆さん。想定はいとも容易く崩れると考えて臨機応変に動いてください。泥暮らしは思いもよらない形で攻めてくるってね。以上、解散」
短く不揃いだが、全員がはっきりと応じた。
それぞれ散って各々の配置に向かう準備を始めていく中で、ゴクロウはケイラムに声を掛けた。
「さすが歴史ある傭兵団の者は優秀だな」
「お褒めいただき光栄、と言いたいところですがね」
「問題ありか」
ゴクロウは太腕を組みながら、机の上に腰掛けた。
「余裕こいてるんすよ。おつむの悪い泥暮らしに険しい雪山なんて登れない。辿り着いたところで儀式の邪魔どころか、寒さやら空腹やらで弱り切って手も足も出せない。万が一もない楽な仕事だ、ってね。どうも危機感が足りねえ。あいつらの水筒の中身は、夜光族お手製の美味い果実水で割った酒が入ってるんだろうな」
ケイラムは愚痴りながら果実水を注いでゴクロウに手渡した。
ぐびぐびと呷る。爽やかな酸味が心地良い。思いのほか、喉が渇いていたらしい。一息吐いてもう一杯注いで貰う。アサメにも勧めたが、黙って首を横に振って断った。
「ま、過剰防衛だろうな。俺も連中が策を弄して一気に雪崩れ込んでくる光景なんざ想像つかん」
「だが、ゴクさん。あんたは芯の通った心構えがある」
ゴクロウはふんと鼻で笑い飛ばした。
「雪が降ろうが槍が降ろうが、あり得ようがあり得まいが、俺が堂々と番兵してチビやら若いのやら年寄りやらを安心させてやる。俺の務めは無事に朝日を拝ませてやることだ」
「やっぱり敵わないっすね。奴等が付いてこないわけだ。俺も見習わないと」
ゴクロウは苦笑しながら立ち上がった。
若いというのに視野が広く、向上心がある。経験を重ねればケイラムは優秀な指揮官になるだろう。
「頼むぜケイラム大隊長殿」
「言い過ぎっす」
拳を突き合わせ、士気を高める。
アサメの目配せにゴクロウは頷いて踵を返し、恐れ狩りの天幕を出た。
不凍の湖は彩り豊かな光珠虫達に照らされ、華やいでいた。
美しい翠碧の水辺に馴染む夜光の人々は弦鳴の調べにあわせて手を取り合って踊り、椅子や辺りに腰掛けては揚げ芋をつまみ、乳酒を酌み交わしていた。駆け回る子が立ち止まったかと思えば高価な砂糖が塗された飴棒を和やかな売り子から受け取って、また走り去っていく。
「二つ、くれるかい」
「どうぞ。おや」
「ユクヨニさん」
飴棒を二つ受け取り、一つをアサメに手渡した。子供じゃないと言いたげな顔だったが、渋々と頬張ると満足そうに何度も頷いていた。
「二つで一灯です」
実に高い飴だ。
アサメの目が見開き、ぴたりと舌が止まる。すでに遅かろう。
「はは、子供には優しいんだな」
そう言いながらも一枚渡した。
ユクヨニはにこりと怜悧な笑みを浮かべて会釈する。
「ご協力感謝します。これでまた二百〇本、子供達に配れます」
「なるほどね」
ゴクロウも頬張ってみた。
「いかがですか」
「美味いね。一灯分以上の価値がある味だよ」
濃ゆい甘味が脳天まで染みる。子供達の笑顔を思えば気分も良い。アサメだけが少々納得のいかない顔をしていた。
「揚げ芋の売り子にはケイラム殿の奢りと声を掛けておくので、ぜひ」
ユクヨニはきびきびと一礼すると、恐れ狩りの天幕の方へ颯爽と去っていった。
「儲かるわけだ」
「ですね」
二人は限られた時間の中で幾つか見物して回り、雰囲気を堪能する。揚げ芋を片手に湖の辺りに並んで腰掛けた。
少し冷めた芋を頬張りながら、何気なく呟く。
「最後の手解きは、どうだった」
「いえ。思い通りには」
「そうか」
それ以上は何も言わない。
青白く朗らかな人々が移ろい行き交うのを黙って眺める。
いつもどこにでもあった日常のひと時が、酷く愛おしいとさえ思う。
きっと何十年経ってもこの不可思議な青光の群集は心に焼きついたままで、いつか忘れたとしてもふと夢となって思い出させるのだろう。
「あと数日か」
こぼした呟きに、アサメは簡単には返さない。
「寂しいだなんて、思ってもいいんでしょうか」
過ごした日々の一つ一つを噛み締めていた。
普段は露わにしない彼女の心の内が垣間みえた。
「心に響いたなら、いいんじゃないか」
闇を彩る無数の光。
照らされたアサメの横顔は切なくも、だが柔らかく目を細めていた。陰りのある表情から時折露わす少女の可憐さ。幼い心が無いからこそ魅せる姿であった。
太鼓が嵐の如く轟く。
腹まで届く逞しい旋律。
ついに雷拝祭が開催した。




